「黄金町秋のバザール 誰も知らないアーティスト」鈴木史の展示について

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「黄金町秋のバザール 誰も知らないアーティスト」にて展示中の鈴木史作品を見に行く。
「八番館」会場は塩竈市杉村惇美術館での個展「Miss. Arkadin」を再構築したインスタレーションに見えるが、映像作品『祈ることは思考すること』は「Miss. Arkadin」での礼拝堂を簡素に模した白い壁のギャラリー内の(場内の白さに反して、椅子に腰かけてスクリーンと向かい合って鑑賞可能な映画館≒礼拝堂ともいえる)上映に対して、今回はギャラリー内も民家の奥にて暗く、椅子もなく、『祈ること~』の壁面の反対側にはプロジェクターから作家の旅日記的な映像が、いくつかの壁面に記されたテクストの上に投影されている。ほぼ一年以上の時間の経過が場内の床に展示された「ゴミ」たち(『女のゴミ』と題された映像内で、男女同棲している部屋のゴミに見える、といった印象が語られる)を腐らせることなくパッキングしたような状況の作り物らしさを強める。間違いなく諸々の時間は経過しているが、ゴミは時間を経ていない。作品内に『市民ケーン』の引用はあっても、会場にアーカディンの名はなく(しかしゴミの中にアケルマンを見つけることはできる)、かえって作家によって朗読される『掟の門』を経由して『審判』の不条理さが印象付けられる。
鈴木史の作品は「足元」を見下ろす行為がインスタレーションでは必要とされ、映像作品でも手元、指、足元がまず目に入る。この作家のインスタレーションは見る側の視点が劇場や映画と異なり正面ではなく、上方でもなく、足元そのものに向かうよう見下ろす視線へ誘導する(映された手元や足元を見て「見下ろした」気になるのは大抵錯覚だ)。『祈ること~』では空を見上げるカットもある(祈りの行為が目を瞑って地面に頭を向ける行為であり、この時に地面を見つめるのではなく、空から見つめ返される)。これらが作家自身のPOVのようなものだという漠然としたこちらの考えから成立しているものであり、同時に作家自身の顔を隠すものでもあるのだが、さらに作家自身を見つめる他者の顔も映らない。『女のゴミ』における対話の相手がどのような顔で作家を見ているかもわからない。それは時に声さえ消して、生活保護の申請をした際の職員など顔も映されず、声も聞こえず、文字だけである。この方法もまた(『未来への抗議』で語られるように)作家自身を守る。カットバックが存在しないようで、『祈ること~』における作家自身の読書、背中、目元が見えるカットが「いかに撮るか」「いかに見られるか」という意思でもって、こちら側へ切り返されてくるのかもしれない。私が作家と主観を一致出来ているようで、私と作家の間には見る・見られる関係がある。
「八番館別室」での宮地祥平(竹内化成ビル会場でも同フロアにて展示)の作品もゴミが場内に散乱しているのだが、これを「男のゴミ」と題することもできるかもしれない。
竹内化成ビル会場は一見してエドワード・ヤン『恐怖分子』のアパートや、『エドワード・ヤンの恋愛時代』の「アーティスト」の空間を思い出して、台湾のエドワード・ヤン展へ行きたくなる……。ある意味ではエドワード・ヤンに対する『フェイク!』と言えるかもしれない。床には電話が置かれていて、定期的に鳴っている。もちろん勇気を出して受話器を手に取ったところで、誰かからかかってきているわけではなく、電話はフロアに虚しく鳴り続ける(奇遇にも八番館会場に同じく展示された金子未弥の作品は、逆に鑑賞者自身が書かれた番号へ電話をかける行為を求める)。散らばった原稿用紙に日本語訳された『恐怖分子』製作時のヒロインのキャスティングを振り返る文が引用されているが、まるで自身がヤンであるかのように書いては消した筆跡を残している。一方で映画ノート、切り抜き帖めいたものも広げられていて、そこにはモニカ・ヴィッティジーナ・ローランズという、監督の妻にして、主演女優であり、映画内でも妻を演じた女優の写真が目立つ。『恐怖分子』のノートには映画内の少女の役柄が、彼女を演じた王安自身にイタズラ電話の経験があるという話を聞いたことから膨らんでいった経緯がつづられているが、モニカ・ヴィッティジーナ・ローランズの両者が演じる精神面にて病を抱える主婦の姿に、彼女たち自身の実生活と同一化して語れるかわからない(ところでこの二人の存在がエドワード・ヤンの作品と全く無縁とは当然思えない)。この一枚の演じられた写真の持つ奥行きと一筋縄では無いもの。これがヤンではなく鈴木史という作家自身の証明と言えるものが、まずは『未来への抗議』から目につく「花」が置かれているのだが、何より壁面に『恐怖分子』の写真たちが驚くことに作家自身のものになっており、その向かい側にある柱を覗くと、そこには作家を見つめる複数の眼の写真(いずれも映画からの引用らしいが、勘の鈍い自分にはどの作品からか一枚も見当つかない)が貼られていて、どちらの写真も場内に設置されて首を振り続ける扇風機の風が当たる度にめくれ上がる。エドワード・ヤン展のフェイク!でありながら、他人のふりをしてみせることと、自らを複数の視線に曝されるモデルとして演じることを同じ空間に展開する。作家の写真から見つめ返されているようで、同時にそれを見つめる眼そのものも複数の映画から引き抜かれている。エドワード・ヤン自身の「外省人」としてのマイノリティ性と、作家自身のトランスジェンダーとしてのマイノリティ性をあえて一致させるかのようなキャプションもある(たとえば「シネフィル」であることは、ある文脈を理解できた気になれることは、マイノリティ足りうるのか、連帯できたといえるのか?)。見る側・見られる側の写真の関係を、作者自身が撮られる側の肖像となって揺るがし、その見る眼そのものも映された、切り抜かれたイメージとして(「見る」眼が見られるイメージとして)風に吹かれている。複数の眼が扇風機に煽られて、正面に向かうはずが天井を見上げたりする、どこか滑稽な状況が扇風機の首が動くたびに続く。
会場の隅には「Miss. Arkadin」にも設置されていたキネトスコープがあり、上から覗き込むとスマホにて撮影された映像が見え、再生時間も表示されている。そこには作家が椅子に置き、天井側へ向けて盗み撮りしたような映像が見えるので、鑑賞者の覗き行為が強まるだけでなく、見つめ返されているという居心地の悪さを覚える。
日仏学院にて特集の続くジャン・ユスターシュ『アリックスの写真』では、写真を見ながら語る側のカットで写真自体が画面外になった時に(ここから明らかな音声とカットと切り返しをズラす操作がおこなわれるのだが)、その切り返しショットとして見る写真についてのやり取りは「これはあなた自身?」「愚問ね」といった内容になる。『アリックスの写真』自体全くの初見ではわからない点を、繰り返し見ることで理解を試みることになる、何度でも見る必要のある作品に違いないが、いま見ている写真が「あなた自身」を指す一致を揺るがしつつ、また「愚問」でもあるという返しは何らかの本質に触れている。それはジーナ・ローランズだろうがモニカ・ヴィッティだろうが鈴木史だろうが変わりないだろう。カットバックだろうがPOVだろうが「私」の同一性こそまず揺らがされる。(乱暴にまとめるようだが、311の震災以後のドキュメンタリーが「話をいかに聞くか」というベースにある一方で、これに対する「metoo」以後という言い方が成立するなら、これは「私」をいかに語るかという問題に切り返されるのかもしれない。ただそれもまた鑑賞者・作家ともに「いかに聞くか」から切り離されるわけもなく地続きにあることだろう。)

一つ上、6階の会場にはデスクトップ上に、このアパートで寝そべり続ける人々が映されている。こうした地べたに横たわりたい欲求もまた不思議と刺激するアパートの空間である。