『ディス・イヤーズ・モデル』(堰下健太)

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これがいったいどういう映画であって、どういう作家によるものなのかが重要なのではなく、ただただ興味深い(はたしてタイトルにどれほどエルヴィス・コステロが関係あるのかも、私自身が詳しくないので触れられない)。「東京学生映画祭」という名前も大学にいた頃から嫌いだったし、自分自身が映画サークルにいながら全く無縁の場所だったので、こうした場で上映される作品のことははっきり言って憎んでいたくらいであり、それが本作を見たから、その印象が変わるわけでもない(むしろ本作がどういう映画かの予備知識も一切なく見た時がよかったのであって、いまこうして「東京学生映画祭」の枠に入っているのを見ると複雑な気分というか、自分自身への疑いにつながる)。そんなことを書いて(特に「学生」達にとっても)誰にとっても益のない話で、本作を見たこと自体、胸の内に秘めておけばよかったかもしれないが、それでも興味深いものではあった。

映画製作についての映画であり、映画内映画が完成しないという点も、どこまでが映画内映画の出来事なのかが最終的に曖昧になる点も、もはや驚きはないかもしれない(ENBUゼミ作品なら『カメラを止めるな!』や、演劇の話だが『親密さ』もある)。それでも本作は繰り返すが興味深い。主人公は「生産性のない人間は必要ない」といった発言をするYoutuberの映像の編集で収入を得ていて、そのことを映画サークル時代の同期であるヒロインと再会した際に後ろ暗いのか「家にいながらできる仕事」「映像関係の仕事」と曖昧にしか言えない(ただし電気のスイッチがつかないか確認する冒頭でもって、本作自体は映像と音との関連性にも、フィックスの画面を撮ることに対しても、疎かにしたくないという意識は伝わる)。映画内映画はスクリーンでは比率が誤ったまま映され、音声も聞き取りにくさを残し、そこに映画サークルにいた人々が卒業後に理想とする環境にはいない点もふくめ、映像にまつわる醜さや過ち、欠陥のようなものを扱うことでもって、この監督が現代的なものと向き合おうとしているのではないか。もしくは映画を撮ることと、夢を見ることへの距離の近さで言うなら、本作は作家に待ち受ける「悪夢」の一つかもしれないし、その先に希望や可能性を見出そうとしているのかわからない。「朝鮮戦争」の扱いが、最終的に本作の映画内映画との境界を決定的に混乱させる。その語りに用いる主題として見ると実に危ういかもしれないが、たとえ安易に手を出したと思われようと、こうした危うさに触れたいという欲望を感じる。映画を通して引きこもるのではなく、どこか外へ開かれたいという葛藤であり、同時に対岸の火事を見るような想像力の欠落に陥っているかもしれない。しかしこうした映画が自らの現実における位置を見失い、立場を危うくするような不安を体現する作品としても『ディス・イヤーズ・モデル』は現代の(学生の?)作品として注目したい。