2/4 『カロクリサイクル 展覧会 語らいの記録 2011-2022』、AFAアニメーション短編集、『きゅうり畑のかかし』、『ジェイソンの肖像』、『襲われた駅馬車』

www.3331.jp

3331にて『展覧会 語らいの記録 2011-2022』。この時間しか行けず、いくつかの書籍に目を通したのと、映像は一作品しか見れず残念。震災11年後(2022年)を機に作られた、現在は仙台在住の人々それぞれの11歳の時の記憶を、話し手の生年ごとに一冊ずつ作られた小冊子と、その内容をZOOMごしに互いに朗読して感想を語り合う映像は見れた。生まれは戦前(疎開時の記憶)から、特に75年~77年生まれ頃の学級崩壊・登校拒否・いじめなどそれぞれの小学五・六年生の思い出の変化が興味深い(今作が話し手の書いた通りなのか、瀬尾夏美の聞き書きなのかはわからず)。映像作品もこれまでの小森はるか×瀬尾夏美の試みと同じく「調査員」とも呼ぶべき10代後半から20代前半の人物が代読する。ますます震災当時の記憶が小・中学生のころと若返っていくのであり、いつかは「2011年3月11日を知らない子供たち」の時代というのが来るということと、すでに戦争・80年代学級崩壊の記憶をもっている人は当たり前だが限られていて、それら一人一人の記憶を等しく語り継いでいけるのかという試みになる。小森はるか作品の展示を見るたびに、ギャラリーでの映像作品は音響面での扱いが悪いことを逆手にとったかのように、聞ける音の種類が話者の声や、紙をめくる音など不思議と囁きを聞くような、ある意味では作り手側によって抽出され届けようとした音であること(その音による演出ともいえるか)が意識されるようになる。

国立映画アーカイブへ移動してアニメーション短編集。ロバート・スヴァーズ『キック・ミー』はフィルムに直接書き込まれた線の足による冒険だが、インディ・ジョーンズばりに追いかけてくる球体を逃げ回ったり、波打つ線や、アングルを変えての躍動や、巨大クジラの登場、最後は焼けて映写が中断したところで、ただれていくフィルムの中を逃げ惑うという一コマごとに真実というか驚きに満ちているような作品。ビル・プリンプトン『ユア・フェイス』は歌いながら顔がウネウネ変化するだけといえばほぼそれだけだがキモくて面白い。『階段を降りるモナ・リザ』(ジョアン・C・グラッツ)はタイトルから予想したようにモザ・リザから髭が生えて、フランシス・ベイコンになったりする。そもそもどんな作品を上映するかノーチェックだったので『ウォレスとグルミット、危機一髪!』(ニック・パーク)が始まったので驚いた。改めて映画館で見直すと当然ながら無茶苦茶面白い(というか傑作)。影の使い方・フレームの使い方がさすがのカッコよさで不穏さと緊張感が貫かれていて、終盤のサイドカーがセスナ機に変身してからの旋回、壁をぶち破っての三連続、オートミールの連射など興奮。ウォレスが特別グルミットの無罪を確信して、という監獄から助けに行くまでの心理の変化に大して理由も種明かしの時間も割いていないところも何だかよかった。『つみきのいえ』(加藤久仁生)もいいのだが、個人的には最近老夫婦を映画で見ると、自分の両親が亡くなる頃に自分の家計はどうなっているのかという不安ばかりよぎる。

ロバート・J・カプラン『きゅうり畑のかかし』は個人的に最近(以前からだが)もう苦手になってしまったタイプの映画だからノーコメント。ただどこかドライな幕切れと歌はよかった。

シャーリー・クラーク『ジェイソンの肖像』。見ながらカサヴェテス、ワイズマン、ユスターシュといった作家達の間にいるシャーリー・クラークという位置づけを考えたが(もっとも全然詳しくないのだが)、その中でもワイズマンは絶対に飲酒という行為を愚かというか背徳的というか退廃というような倫理(宗教観?)について作品内で扱っていると思うのだが、その線引きが何だかんだほぼ現役最高齢の秘訣だったりするのか。

酩酊したジェイソンが生い立ちを語るだけかと思っていると、あきらかに演出としてピントを甘くしたり、画面外の男女の声が彼を追い詰めて反応を引き出すこと以上に、画面外にあった人間関係や事態が浮かび上がっていくのが面白い。一方でピントも合わず酩酊がひどくなるほど、それが彼の観察のはずが、彼の主観を代理しているようでもあって、ある種の虚構性を強めている。最終的に「よく芝居できただろ」といった声が出てきて、やや岩佐寿弥の映画なんか思い出した。
ジェイソンがメイ・ウエストの真似をしてみせるくだりがあって、そこで出てきたW.C.フィールズとの共演作『My Little Chickadee』が『襲われた駅馬車』というややこしい邦題でコズミック出版から出ていたから、帰宅後に早速見る。(失礼ながら)貫禄のあるメイ・ウエストだが、覆面強盗に脅迫されても、インディアンの放った矢が目の前で刺さっても、何もかもどこ吹く風と動じないのが魅力的で、一転して銃を構えて百発百中ぶりをさりげなく披露する時の堂々とした構え方が無茶苦茶カッコいいし、何より声がいい。この佇まいと声で悠然とされると、不思議とその魅力に納得してしまう。W.C.フィールズが主演格の長編映画を日本語字幕つきで見たのは『曲馬団のサリー』(当然サイレント)以外なら、よく考えたら初めてかもしれない。気になるからもっと見たいんだが、この酔っ払い(ジェイソンとの共通点か)の詐欺師然とした男でも不思議と哀愁のようなものがあって、何より見ていてうさん臭さと共に安心感がある。メイ・ウエストが逢引のために、夫のフィールズ(なぜか彼が風呂場で美脚とネグリジェ姿を披露することになる)をホテルの浴室に置いたまま抜けでようと扉を開けると唐突にヤギが待ち構えていて、ベッドに忍び込ませるくだりが深尾道典『女医の愛欲日記』を思い出してシュールだった。