【告知】12月21日(火)-26日(日)茶会記PLAY-ACT vol.11 プログラムE『鈴木史特集上映/順応』

sakaiki-play-act-11.studio.site

 

今月12月21日(火)-26日(日)開催『茶会記PLAY-ACT vol.11』(ただし会場は四谷の茶会記の移転にともない、池袋の東京芸術劇場アトリエウエスト)のプログラムEにて鈴木史さんの作品を上映します。WEB内の企画紹介文と22日(水)19:30~登壇回の聞き手を担当します(各作品解説・あらすじ・プロフィールは鈴木さんご本人によるものです)。当日券無し、予約のみです。
『茶会記PLAY-ACT vol.11』は大学時代からお世話になっている上田晃之さん主催の上演イベントです。昨年末は自作を上映させていただいてきました。僕から持ち込んだ企画なのですが、ほぼ上田さんに任せきりで非常に頼りない発案者で申し訳ないです。
まだオミクロン株流行の可能性など予断を許さない状況ですが、無事の開催を僕も楽しみにしています。
個人的には上田真之さん、木下亮さんの新作を見たいです。

 

 

◾️チケット料金
一般予約 1500円
※会場内の人数制限を行うため予約のみ

 


◾️チケット予約フォーム

茶会記PLAY-ACT vol.11 予約フォーム

 

 


【茶会記PLAY-ACT vol.11 
「茶会記PLAY-ACT」は、演劇、ダンス、映画、音楽、文学、美術などをボーダーレスに発表する総合芸術企画です。第11回目の今回は、美術作品を展示した空間に、演劇、ダンス、映画、パフォーマンス作品などをジャンル複合のオムニバス上演します。
第10回目まで開催されてきた四谷の茶会記の移転にともない、東京の舞台芸術の中心地において夜の質感を展開します。】(WEBより転載)

 

 


(以下プログラムEの内容のみ転載)

 


●E 鈴木史特集上映/順応

鈴木史(すずき ふみ / Fumi Suzuki)
映画監督・美術家。宮城県塩竈市出身。映画美学校フィクションコース修了後、映画美術スタッフとしての活動を経て、東京藝術大学大学院映像研究科映画専攻監督領域修了。現在は、映画の制作だけでなく、インスタレーション作品も発表しており、映画と美術のフィールドを横断しながら活動。映画評の執筆も行なっている。

 


eclipse』(2014-2017/HD/16:9/55min/stereo)
あらすじ
ひとりの男が公園で目を覚ます。彼は家に帰るが、同棲している女とはどうも不和が生じているらしい。 彼女たちの家には「声」がひしめいている。ある日、女は自分の分身を見る。一方、男はある夜、月蝕 に遭遇する。するとそこに、第二の男が姿を現わし……。
解説
撮影はシナリオを用いずに行われ、朝にスタッフとキャストが集まると、午前中は、その日何を撮るかのディスカッション。午後に撮影が行われ、その後、自分たちが撮ったシーンの前後にどのようなシーンを加えていくかが討議される。その繰り返しで、長期間にわたる撮影が行われた実験的な作品。俳優へのインタビュ ーなど、ドキュメンタリー的な要素が含まれている。

 

『東は東、西は西』(2017/HD/16:9/15min/stereo)
あらすじ
部屋にいる二人の男女。酒を飲みながら、男の幼少期の写真を見ている。写真は一枚一枚めくられ、 徐々に過去に遡っていく。女は、ふとあることを思い出す……。
解説
ワンシーン、ワンシチュエーションで撮られた会話劇。劇中使用されている写真は、実際に俳優の幼少期の写真で、監督の鈴木は、この写真についての記憶を俳優から聞き取り、その会話をシナリオに仕立てた。

 

『未来への抗議』(2021/HD/16:9/10min)
解説
日常の光景を切り取った日記映画のかたちを取りつつも、同時にわたし自身の独白がテクストで重なり、個人的な事柄を扱いながら、あらゆるものへの抗議の意思を込めた、一種のシネトラクトである。
映像とテクスト、あるいはテクストとテクストが、ときに混じり合い、ときに衝突し、わたし自信が日々生きるなかで感じる、引き裂かれた感情そのもののような映画になった。
愛、恐怖、嫉み、反撥、身体、そして花についての映画。

 

[各回の上映作品]
12/22(水)19:30の回/『eclipse』『東は東、西は西』『未来への抗議』※
12/23(木)14:30の回/『eclipse』※
12/24(金) 14:30の回/『eclipse』『未来への抗議』※
12/24(金) 19:30の回/『東は東、西は西』『未来への抗議』
12/26(日) 13:30の回/『未来への抗議』
※鈴木史監督の挨拶あり(12/22は中山洋孝とのトーク

 

 2020年11月19~23日の『我々は地球が嫌いだ。家に帰りたい』という展示は名古屋駅付近の会場INSITU(住所非公開)まで行く時間をとれず、いや、コロナを恐れて移動する気になれず、パンフレットを読んだだけだ。鈴木史さんのインスタレーションに関するステイトメントは明確だ。女性の全身脱毛、「捕らえられた宇宙人」にされた猿、精神科病院の金髪のカツラ、その三点がタイトルと共に、見られなかった展示を想像させる(その映像の一部らしきものを『未来への抗議』に見ることができる)。いや、想像で済ませていいのか? 作品は開かれている。後は扉をノックするだけだった。
 展示と異なり、鑑賞中の移動の自由は制限され、映画を見るのが息苦しくなることはある。もちろん常にではないが、何らかの調子が狂って、映画を見るコンディションではないのだろう。客席がパイプ椅子だったり、背もたれがなかったり、両隣の間隔が狭かったり、外の工事の音が聞こえてきたり、スクリーン横の時計が視界に入ったり、うまく冷暖房が機能していなかったり、贅沢を言っているだけかもしれないが整っていない環境での映画鑑賞は苦痛である。
 映画の上映、現代美術(インスタレーション)の展示、そのどちらも経験した作家にとって、このギャラリーでの特集は相応しい環境によるものか。観客が映画を見終わるまでわからないということにしたい。これから一体どのようなものを見せられるかわからないと感じた人にとって、この暗闇での鑑賞は期待より不安が上回ってしまうのか。
 おそらく真っすぐ前方を見続けるような体験にはならない。実際は集中できていたとしても、あるタイミングでうつむき、目線をそらしていた気にさせる。それはショッキングな画によるものではない。果たして本当に見たものかはわからない死者の目を語る人物の声は聞こえてくる。それも耳を塞ぎたくなるような話ではない。ただ映画が見せないように、こちらも多くを想像してはいけない予感がする。
 主観ショットがスクリーンに投影される時、観客とカメラの目は一致するのか。その映像を見ている身体は消えたのか、他ならない自分自身と化しているのか。誰かの問いかけに対して自分の記憶を語り出す、私の目の前に映っている人物は誰なのか。そこから目をそらすことはできるのか。突然目の前が真っ暗になって、もしくは一転して画面が白くなり眩い光となって、その目くらましは映画が仕掛けてきているものだとして、映画と観客の距離は変化するのか。だが目線をスクリーンに集中できない時、インスタレーションと映画の合間の奇妙な思考の自由が、観客には与えられている。(中山洋孝)