早稲田松竹にて高畑勲二本立て。つい数年前に初めてまともに見たくらいの恥ずかしい野郎が言っても説得力はないが『平成狸合戦ぽんぽこ』、狸を轢き殺して、自分がタヌキになったつもりで生きている自分含めた人間は全員この映画を見て下唇を噛みながら泣いて懺悔するしかないのか。『ぽんぽこ』と違って、そこまで好きでなかった(というよりラストが何となく怖い)『おもひでぽろぽろ』も見直して、当然のように感動する。現在パートの「故郷」が単にほうれい線の目立つアニメとしてではなくて、「百姓の音楽」にあわせて描かれる紅花摘みの光景が平然と国境を越えて、何もかも日本の現実を映すだけではありえないというのに圧倒される。こうした二本の映画での実写では再現の困難なレベルへの挑戦と、『柳川堀割物語』を撮ることでは、どちらの方がリスクが大きいのかわからない。『ひょっこりひょうたん島』の歌の効果も改めて見て、「中山千夏」の名前とともに素晴らしい使い方だと思う。夏休みの熱海の思い出から始まって、最後の思い出は夏休み前に遡って、あっさり転校した「おまえとなんか握手してやんない」クラスメイトと会った記憶が、他のクラスの出来事とは切り離されたイメージになる(恩地日出夫『新宿バス放火事件』を見てから、こうした記憶の出てくる映画は気になる)。ギバちゃんが話さなかったことで言うなら、結果クラスで唯一、彼の手に触れられなかったということも大きい。パイナップルの味、スケベ横丁、好きな天気は曇り空(今更ながら本当に美しい飛行シーンだと思う)、友人の「セイリ」、父親からの平手打ち、分数の割り算、紅花に混じる農家の娘の血(こっそりゴム手袋を外して摘んで、その痛みを体験してみる)、学芸会のカラス、芸能界、ギバちゃんの手、さらに雨上がりの夜空に不意に名前の出る「狸」とともに、それらは「おもひで」か現在か関係なく、向こう側から触れるために、もしくは触れられない観念としてやってくる。熱海でのぼせた記憶から、要所要所の「赤」が本作では女性の身体とますます切り離せないのが危うい。

神戸ではマルクス兄弟だが、東京のイタリア映画祭にてマルコ・ベロッキオマルクスは待ってくれる』。ベロッキオの声はデカい。蓮實重彦青山真治追悼にも出てきたオムニバス『セレブレートシネマ』のベロッキオ篇が、ベロッキオが赤ん坊を煽って演出するだけなのが興味深かったけれど、本作でもベロッキオの声のデカさが伝わった。同じ日に産まれた兄弟の自死について、彼自身含めた家族が語る。ベロッキオの家庭は穏やかな場所だったかわからないが、やはり波風を立てる。兄弟の死について振り返る話者たちを繋げる時も、単なる証言を並べたのではなく、そこに50年以上の時間を経てた各々の現在の老いて震えた肉体や声を記録しながら、それら目線の繋がらない人々の切り返しでもって一つの映画固有の時間を作り上げていき、そこにサスペンスもある。父の死をめぐって食い違う証言が「どちらも正しい」とはっきり言葉にされるのも彼の作品らしい。牧師や精神分析とベロッキオ自身の切り返しもあり、それが告解や精神分析的かもしれないが、そのものではないのが重要か? 「告解」の後には「神様なんかいらない、ただ家族に会いたい」という話が続き、牧師による解釈は相対化される。今回のフッテージムッソリーニの演説から、ホームムービーにアルバム、意外にも自作も含まれるが、それらが単なるインタビューの合間に挟まれる情報としてではなく、ベロッキオ自身の喋る姿を撮るとき同様に、切り返しになっているのが流石というか。たびたび話者が両手の指を組む(セザンヌの絵の人物がやる)のも印象に残るが、ベロッキオの構築力?といえばいいのか。次作は『夜よ、こんにちは』と同じ題材らしいが、自作に対する切り返しという面もあるのか。また漠然とだが森崎東が似て非なる存在としてよぎる。