早稲田松竹にて『トゥー・スリープ・ウィズ・アンガー』(チャールズ・バーネット)と『ウォーターメロンマン』(メルヴィン・ヴァン・ピープルズ)。
チャールズ・バーネット長編3作目というのに驚く。最初から巧みで特に良し悪しつける気はないが、7年おきペースで映画を撮ることになっているが、そこがまた結果的に必要だったのではないか。初っ端からワンカットごとにガシッと掴まれるのが手作業の映画らしく、そこに奇しくも同年らしい『スポティニアス・コンバッション』とはまた別の幻のような炎が身体や家具を包んでいく。熱さの苦しみからあえて乖離した怒りに耐える反復。やはり日常のように犯罪映画的なことを淡々と繰り返す過去2作と同じく、呪いや祈りやしがらみのようなものが日常的な掟や縛りとして存在し、それが唐突に膨らみ上がり、また唐突に破綻する。トランペットの下手な響きが常に吹いてる彼の心情など関係なく存在する。それはノイズでありながら、鶏の首が切られるのを妨げるように、映画のための不協和音となる。そしてラストには吹いてる少年と、エンディングテーマを同機させて、暗転後の演奏をひたすらしみじみと聴かせる。泣ける話かわからないのに、これだけで泣かせる。彼が諦めたら上手になることなど一生ない。しかし下手にもなりうる可能性が許されるからこそ、本作のような淡々とした映画もありうる。
『ウォーターメロンマン』(メルヴィン・ヴァン・ピープルズ)二度目。改めて見直すとチャールズ・バーネットとはまた別にかなり良かった。コロンビアでかなり攻めてると言っていいのか気になる。インディペンデント的なものを、どんな規模であろうとブチ込む気概。これが白塗りの黒人という皮肉を作品規模に関わる力強さとして発揮させるというか。またはジェリー・ルイスのように顰蹙を買う精神。『悲しみは空の彼方に』と併せて見てもいいかもしれない。不協和音という意味では監督自身クレジットされている音楽はチャールズ・バーネットより凄いかもしれない。さらに不意にストップモーションになっての字幕の促す覚醒もガツンとくる。個人に起きた悪夢を引鉄にアメリカおよび人種差別自体の異常性を、つまり合理性のないリアリティをつきつけるのに、かなり強烈に成功している。嫌がらせをする連中の匿名性など古びてない。
エドワード・ヤン『海辺の一日』をようやく見る。
光と影の加減で人物の中で流れた月日も変えているのか。勿論髪型の変化も大事だろうけど、時制の行き来に複雑さとは異なる印象を受けるのも、この光と影の効果かもしれない。まるで違う映画のはずなのにビクトル・エリセの『瞳をとじて』に通じることをやっているのか。キャリア初期から単純に凝った見立てになどしない。それでいて複雑さにも挑むような構造で、夏目漱石の小説を読むように主人公も変化するが、それだけに収まらない入れ子構造にも驚く。異様に静かな喫茶店でのクロースアップにて表情の変化を切り取る内に、やがて夫の死を語る声はするのに、その重なった顔の口元は動いていない。これほど人物の「今」が揺らぐカットはない。幽霊映画となって語り出すような。直後の危険なドライブといい、睡眠薬の瓶の行方といい、夫よりも彼女の方が何度も、あの世への誘惑に囚われているのか。それでいて最後に語られる別の人物の死といい、彼女は生き延びる運命を繰り返しているような。喫茶店で彼女の細かい変化を追う映画として見ていると、後半になるほど彼女が動かなすぎて怖くなるカットもある。ある一日を追った映画かと思いきや(それは邦題にだまされただけかもしれないが)ベッドで眠る人物を見下ろすカットがいくつもあるくらい、何回も朝と夜を繰り返す。もしかすると同じ日が何回かあったかもしれない。時に二人。時に一人。時に片側の空いた一人。まだ若い彼女がベッドで半分ほど身を起こして横になっている構図は、時に起き上がって駆け出すカットもあり、決して明るくも広々ともしていないが何らかの可能性と不安を感じさせる。それでいて誰も年を本当はとれていない、映画としてのまやかしであり、なおかつ現実の写し鏡のような。この成長を伴わない変化の残酷さはエドワード・ヤンの映画を見る度に感じる。ラグビーで身体を鍛えようがデカい眼鏡をかけると少年のままに見える。終盤の兄の目覚めが『奇跡』の復活にも見えるが、これが水死したかわからない恋人の結末の曖昧さにも通じて、ドライヤーの『奇跡』でも直後に彼女は再び眠り死んでしまったのではと想像してしまう(それにしてもモノクロの美しさを強く想像させる映画だが、これを今から白黒にしてしまうなんて冒涜は許されないにしても妄想してしまう……いや、それは『恐怖分子』のポラロイド写真になるのか)。『ヤンヤン』終盤の葬式でも『奇跡』は明らかに引用されているが、祖母の目覚めとヤンヤンの潜水はセットだった。いつでも若返れる可能性、いつでも甦れる可能性、それは映画にしかできない。しかし映画には映画の「今」しかないだけか。
海辺のインタビューシーンはかなりおかしく、そこでの事件の再現は距離を置いた目で見るユーモアがある。それでいて音声のズレは男達と女達の距離に本作でもなる。女が男達のはしゃいだり、または男が浮気をしたり、両親と看護婦との間の愛人問題があったり、あるいは潜水して何か合図を送りあったり、そうしたやりとりに対して声は彼女に届かない。彼女は先に行かざるを得ない。しかし最後に「少女から大人になった」と言われる彼女はむしろ『指望』の自転車に乗れた少年を見るようでもあり、ピアニストになった女から見送られる側だ。またはかつての無言で見つめてくる母と兄嫁の存在も頭に残る。
その一方で序盤の兄の挫折を印象づける玄関から家屋への移動撮影も凄いというか、母娘の帰宅から、その先の床に散らばる破片まで見せるのだからギョッとした。
あとホウ・シャオシェンは役名さえわからないのに目立ちまくり。
ホセ・ルイス・ゲリン『よき谷の物語』。こちらは最近どうしてたんだろうというつまらない心配と無関係に大充実。
おそらくカメラ1台で撮ったシーンでも切り返したり、音を途切れさせずに繋げたり、議論を連ねていく作り、さらに「移民」により構成された町という舞台にワイズマンの参照はやはり感じる。しかしワイズマンならやらないことも自由になる。最もワイズマンからかけ離れた序盤を除き、頑ななまでの手持ち撮影の拒否、登場人物として認識できる被写体、インタビューから始まる彼らと作家との関係性の構築、「食材」や「商品」としてではない動物や植物(バーと思われる室内のガラス扉から見える鳩の行き来)。特に飲み屋の3人組が植物や動物から話しかけられたら…というあたりにケン・ローチの新作みたいな光景とゴダールの『さらば愛の言葉よ』をミックスしたように見える。
12カ国以上の移民たちの構成する町というだけでなく、一本の映画内に様々な作家のやり方が詰め込まれる。それを当てるのが正しい見方なわけはないが、とにかく引き出しの豊かさが映画の枠を狭めない。ドキュメンタリーに違いないのだが、明らかに撮り直したやり取りには『ベルタのモチーフ』の頃からある窓辺や椅子など腰掛けた人物のバストショットとして見事とか思う間もなく贅沢に挟まれる。またデイジーをめぐるやり取りでは、移動撮影により娘の芝居をとらえる。ジョン・フォードすぎる教会に集った人の中にはハーモニカを吹く男がいて、一人一人に台詞はなく、心情を読み取るものでもないが、ここにはバラバラな人々が同じ場所に集う時だけある彩りがあり、これがワンカットで通じるか、カットを積み重ねた先にあるかの曖昧さには物語を感じる。それでいて『イニスフリー』のようにゲリンの目的はどんどんあってなきに等しくなるようにも見えて、そこもいい(オーディションは機能したんだろうけれど)。
サトウキビを育て、草木を運ぶ人々などを追うレールによる移動撮影の多さも、文字通り「移動」を撮ることに必然性を感じる。時にカメラは移動しなくても、窓の映り込みまで遠くから眺めているのもいい。それを見つめる黒人女性のカットと、そこで引き出された顔つきといい、演出も上手すぎる。
ラストに代表される「再現」の力強さにルノワールとかオリヴェイラとか言えるだろうけど、今回は『太陽の墓場』の暴動がよぎった。直前の様々なグループがひとまとまりに収まった賑わいを警察の知らせが追いやるあたり、『マックス・モン・アムール』とも通じる。どれもこうして書いてしまうことにより回路を閉ざすのかもしれないが、映画は開かれている。
序盤に連なる複数の会社の名前が経済的な事情で(金がないという話もしていた)、最後は4名に献辞を捧げる。
(不勉強からメカス以外の3名はよくわかってないが、親切な知人から画像をいただいたのでメモ)
Marie-Pierre Duhamel
ルイス・オスピナ
ジョナス・メカス
Ahmad Nachte