インヒアレント・ヴァイス』も『ファントム・スレッド』も好きではなかったが『リコリス・ピザ』は面白かった。ショーン・ペントム・ウェイツブラッドリー・クーパー、ガス欠(あのハンドルさばきとマジ顔は冷や汗が出た)とヤバすぎてどうなることかと思った。
というか、なんだったんだ。
ベニー・サブディの事務所にブラピのカメオ出演まで来たかとビビったが、それは別の映画の話だった。

そしてじわじわときている。そんなすぐに見直したくないけれど。
でも手鏡に映る彼女のブルブル震える長回し以外に細かいところは正直よく覚えていないし、年代さえ全然頭に入っていない。だが『ザ・マスター』は凄く好きだったはずなのに、なんだかそう言ってはいけない空気に負けて、年の瀬には忘れることにした。そのまま最近のPTAはこのままいってもつまらなくなるのかなと思っていたが。今回は何かを取り戻したというわけでもない気がする。あの走るところはどれもそんな好きになれないままなのに。これはもう逆に、躍動感も疾走感もなくていいんだという(予告では泣かせるボウイも正直映画ではそんなにかなというか、今の節電ムードと合う)、ガス欠した車が斜面を下る時の恐ろしいスピードという力学まんまの映画ということか。そしてウォーターベッドに沈む身体。ウォーターベッドの寝心地の微妙な苦手さそのもの。ガソリンではなく水のブヨブヨした緊張関係。この映画を『浮雲』にたとえてみたい欲もある、最初から最後まで全然別物なんだけれど。または無言電話の耐えがたい時間。ザ・マスターと同じくらいザ・男子共の腰振りを遠目に見るのがしばらく頭から離れない。『アネット』の鼻炎の判事にしたって、『リコリス・ピザ』の日本人描写だって、気にならないわけではないけれど、まあ、この愚かさこそ、ある種の力なんじゃないかという気もする。

テッド・フェント『Short Stay』

 

夜、眠れなくなってしまう。テッド・フェントの映画をついにネットで見る。またしてもアダルトサイトだから注意が必要だが、はたしてどういうことなのか? ともかく『Short Stay』(2015)。ほぼ60分の、長すぎるでも短すぎるでもないショート・ステイ。赤坂太輔さんや新田孝行さんの評から名前を聞くたびに気になっていたが、結局はネットで見た。「マンブルコアのストローブ=ユイレ」と言われるらしいが、画面外の音や芝居の域に入らない動き(コーヒーを啜る音)など偶然性が画を切るタイミングになって、その名の通りカットのキレがあって、それはユイレを介してアメリカ映画の最良の面を継いでいるということかもしれないが断言するほど詳しくはないし、ただの印象に過ぎない。自分の狭い視野では「アメリカのホン・サンス」というありきたりなフレーズが思い浮かんだ。もちろん、ホン・サンスとテッド・フェントは全くの別物で、小津は二人いらない、という話のようにホン・サンスもテッド・フェントも二人はいらない、結局のところ小津も成瀬もホン・サンスもテッド・フェントも当然のように唯一無二かもしれないが、ただ「ホン・サンス」という名前を出して、なにをトンチンカンなことを言ってるんだとどうせ馬鹿にされてでも名前を出す理由、つまりそれは「ちょうどよさ」という印象かもしれない。グループ魂の眼鏡の人に似た主役が世のフレームに対して過剰に卑屈でも堂々とでもなく収まっている時点で「ちょうどいい」。これ以上ショットが長くも短くもないという感覚を、さらに別の帽子の眼鏡の男がグループ魂の隣で何故かカメラに向かって一方的に何かを喋り続け(そして数か月後という字幕が入る)、何を言っているか英語のリスニング能力が低いからわからないが、たぶんたいしたことは言ってないんだろうが、そのショットさえも長すぎるとはならない(『あなたの顔の前に』のギターを奏でるまでの時間だって弛緩しているようで緊張しているようで、酒の力がほどほどにちょうどよく長すぎるようにはさせない)。でもそれらは「ちょうどいい」けれど、そのちょうどよさは過激なことかもしれない。ホン・サンスのズームだって、ズーム自体は変と思われても、その前後は「ちょうどいい」かもしれない。このすべてのショットに長すぎず、短すぎずという感覚は、新田孝行さん経由ならディアゴナルの作家ジャン=クロード・ビエットの映画を思い出すが、でも自分の考えではない。このことは青山真治監督の『夏の娘たち』についてのツイートから盗んだだけから自分の考えではない。だから本当はまだまだ長すぎる、短すぎる可能性はある。別に寝顔のアップなんかまだまだちょうどよくはないかもしれない。「ちょうどよさ」とは切り詰めてタイトに引き締まることを指すのか、それも自分の考え、自分の手を動かして身に着けた考えではないからわからない。『夏の娘たち』の川辺での台詞の聞こえにくさも、ある種の「ちょうどよさ」、これ以上聞こえるのも不自然であり、これ以上聞こえないのも不自然だという、映画の自然さ、暗黙の条件に対する一種の稚拙とも「変だ」とも罵られる可能性のあることが実に本当は「ちょうどいい」かもしれない。話をテッド・フェントに戻す。誰を、どのカップルを画面の中心に持っていくか、明確なカメラの動きがだらしなくない。的確なリズムのカットバックでも見ているように、人物の動きを追うパンをつなげたショットのリズムが気持ちいい、つまりは「リズム」がいいという言葉で済ませられることなのか? そもそも「ちょうどいい」という言葉が相応しいのか? それなら「映画はこんなものでいい」という意味での「こんなもの」というか、どれだけタイトに引き締まっても「こんなもの」がないということだけはありえない。それまでおそらくほぼ三脚に置かれていたと思うカメラがラストになって車内に揺られるというのに『リバティ・パランスを撃った男』を連想したなんて書かない方がいいと、そういうことはいい加減書かない方がいいんだと思いながら、でもこの揺れが「こんなもの」に相応しい感じがする。電車の中でカメラが揺れないわけがないのだ。 

昨日は月曜日休みだったが諸事情から職場に寄ったところ、いろいろあって、なんだか疲れてしまい、結局特に映画を見ないままキノコヤへ行き、日の沈む前に飲んだビール2杯だけで酔いが回って、すっかり使い物にならなくなる。そしてまた悪口でしかないつまらないことを言った。
『スティルウォーター』を自宅にて見る。評判がよいとなぜか義務感が発生して億劫になって見逃すというのをよくやるのだが(もう既に『わたしの話、部落の話』も見逃してドリフト映画も後回しだが)トム・マッカシーの映画も悪い癖で不精して後回しにし続けた。しかしこれは面白かった。数日後にキノコヤの黒川さんご夫妻がマルセイユへ旅立たれるわけだが、ちょうどこの映画もマルセイユが舞台で、これがマルセイユか……というか、そしてたしかにアメリカ人は帽子を被っているがフランス人は被っていなかったように思うが、この映画を見て、そんな話だけするのも微妙だが……。それにしても、この映画に流れる時間がある段階まで、やはり黒川さん的なものに近いと感じた。非常に殺伐としたものではあるのだが。親族の無実を証明するためにウロウロ過ごす日々についての映画という点で神代の『遠い明日』のことがよぎる。ラストが別に晴れ晴れしたものでもなく(あのタトゥーがグッとくるけれど)、むしろ話の通じないマルセイユで過ごした、疑似家族的な母娘との日々のほうが愛おしいというような感覚も近い。『クライマッチョ』ではイーストウッドがメキシコ人と言語の壁をこえていたけれど、マット・デイモンもフランス語をほぼ話せないまま、英語を話せないマヤとの関係もいいけれど、娘同士が初めて会ってフランス語が話せるの?となる時が特によかった。あのサッカーのクレイジーな光景から空気が一転するのも先が読めない。そもそもこの話を娘が主役ではなく(仮釈放で海に行くところもとても良かった)マット・デイモンにしているのが良かった。娘が言うように、マット・デイモンには何の期待もしてはいけないだろうし、その中に本当の変化というのがあるかはわからないけれど、強いて言うなら、娘からしたら何も変化していないはずの(変化を拒むような)光景が、なぜかマット・デイモンからは「何もかも違って見える」ということだった。たぶんマット・デイモンの映画にハズレなしだから見ればよかった、と思ったけれど『最後の決闘裁判』とか『ジェイソン・ボーン』とか全然どうでもよかったのを忘れていた。ともかくこれは見逃さなければよかった。

河瀬直美のオリンピックは見る気になれず、是枝裕和の『ベイビーブローカー』を見る。予告を見る限り夏の映画っぽいから、異常気象真っ只中の東京に相応しい気はしたから、その辺の売るセンスがやはりあるかもしれない。そして相変わらずメシ(辛ラーメンとか)とか子どもとか(しかし都合よく存在感消せる赤ちゃんだなあとか、育児経験なしの人間が言うべきではないだろうが)台詞とか(同性愛の話とか気が利いてますなあとしか)撮影とかでこちらの心を釣ろうとしてくる。「生まれてくれてありがとう」はないわあ、と思ったが(「産んでくれてありがとう」にしないだけマシなのか?)、こっちの気持ちが乗ってたらボロ泣きだったかもしれない。でも乗れない。演出がわかりやすいから? ミルクのくだりで胸元に手をあてるのもわかりやすい。そのうえラストはボンヤリしてる。ソン・ガンホカン・ドンウォン(さすがに星野源に見えすぎる)が拳を当て合うところで軌道に乗るけれど、イ・ジウンをめぐって衝突させそうで、まあ、やはりしないのがウケるんだろう。一向に人物そのものにも興味を持たせてくれない。ただボンヤリした話だけ。新幹線の暗くなるところでのイ・ジウンとか仕掛けがわかりやすすぎて萎えるが、まあ、でもイ・ジウンはたしかに魅力的だったが、彼女と赤ちゃんをめぐってもっとあれやこれやぶつかり合ってぐちゃぐちゃになるもんじゃないの映画ってさあ(露悪的に書いてしまったが)。そしてアメリカの最高裁中絶権違憲判決という酷い事態のなか見ると、アクチュアルなようで、「産んで捨てるより、産む前に殺す方が罪が軽いんですか」は、やっぱ簡単にドラマにしてないか? まあ、簡単に感想書いてる人間の言うことではないが。

ホン・サンス『イントロダクション』。クレジットによれば2020年2月〜3月撮影。昨日のアヌーン『夏』とほぼ同じくらいの66分、モノクロ。こちらは冬の映画だが。第2パートの舞台はドイツ。見ながら、かつて某所でのルドルフ・トーメ研究会に呼ばれなかったことが悔しくなった。やはり日頃の行いが悪く、知人友人でルドルフ・トーメをほとんど見ていない(短編のみ)のは僕だけになった。僕以外はルドルフ・トーメを見た。それはともかくアパートの部屋を若い女性へ与える二人の女の黒い服と喫煙が、窓辺の白い眩い光とのコントラストもあって引き締まる。3回の演出が異なるハグ、病院のカーテン、ズームと鳥の声、映画でキスできなかった元役者へ酔って激しく説教してしまう先生、あなたの目になりたい、海に入る若者など印象に残る。
『あなたの顔の前に』、一転して夏の映画。そしてまたしても神への祈りから始まる。酔って火照った肌が色っぽい。終盤のアレが嘘かもしれない、というのが捻くれてるなら、それがいつやってくるかは医師にも誰にもわからないし、そう思いながら翌朝(窓からさす自然光がまた違った切なさがある)の留守電とリアクションがまた違った意味が出てくる。というか意味がどうより、さすがとしか言いようがない。それからの引いていく画も忘れられない。いつもではないが『それから』など何回かに一回、言葉にならないようなラストを(それもまたイントロダクションというやつか?)持ってくるから全く油断できない。

それにしても、こうも「どっち派?」と聞きたくなるほど違う映画になったこともないんじゃないか。

 

ジェームス・マンゴールドを見始めたのが(いつとは言いたくないが)凄く遅くて、もうコンプレックスというか、それだけで自分はその程度の存在だと諦めるくらいには遅い。なぜ避けてきたのかというより、なぜ見なかったのかは、とにかく怠け者というか、マンゴールドが僕の見たそうな話を撮っていなかった!と開き直り(ンなわけない)。アメリカ映画を真剣に考える人達と自分の間の距離というか、そんなだいそれたことじゃなく、そもそも自分と普通の映画好きとの距離か。まあ、正直に言えばロン・ハワードも同じくらい疎い。そもそも自分がどの程度の何者かを書くくらいしかやる気がない時点で映画的じゃないだろう、たぶん。
それくらい今日まで『君に逢いたくて』『コップランド』(予告はリアルタイムで映画館で見て「警官ばかりの島で犯罪って!」とは思っていたんですと言い訳)『17歳のカルテ』を見て、一応繰り返し言い訳をすれば初見ではないが、それでも改めてこんな映画をちゃんともっと早く好きになれていれば日頃の甘えもなかったかもしれない。別にマンゴールドの映画に徳のある人が主役なものはたぶん一本もないが、それでも今更しみじみしてる。あんなアメリカの寒々しい年中秋模様みたいな町には住んでないし、玄関先もあんなじゃないが、熱帯夜にはちょうどいい。『17歳のカルテ』なんか冒頭に戻るようで戻ったのかよくわからないズレた感じがあるのに、それでも余程ひねくれていない限りは着実に前進したんだと思わせてくれる。アンジェリーナ・ジョリー(雑に括るが、岡崎京子やまだないとの世界っぽい)とウィノナ・ライダー二度目の対面が一番好きで、ウィノナからアンジーに切り返すとアンジーの目線がちょいズレてるというのがなんかいい。『コップランド』でもスタローンがかつて水中から救った女性の家で、彼女の(少なくともスタローンにとってはロクでなしの)夫の写真ふくめ、彼女の側を玄関からジッと見てたはずなのに、彼女の側から切り返すとあらぬ方を見ている視線の落ち着かなさも何となくいい。というか序盤の酔いつぶれるスタローンを遠くから見つめるレイ・リオッタからして何だかいい。というか『君に逢いたくて』がやはり何となく何もかもせつなすぎる。小津好きと言われたら、もうそれ以上なにも言える気がしないが、なにをやってもペキンパーでさえも小津のカットバックの呪縛からは逃れられないという話もあったが、なお一層小津を見て忘れないことでしか小津の呪縛から逃れられないというような話も改めて思い出した。

録画したバーバラ・ピータース『モンスター・パニック』を見る。悪名高い救いのないラストはすでに知っていたが、いい加減勇気を出して見た。養殖用に二倍近く成長するサケ(このあたりにロージー『鱒』を強引に連想)を食ったシーラカンスが出鱈目に進化してハンギョドンになり、犬を食い、若い女性を犯し孕ませる。誰が見ても『ピラニア』と『エイリアン』を交配させて出来たと思う映画(ググったらキャメロン『殺人魚フライングキラー』は翌81年らしい)。こう書くととにかく酷い映画だが、バーバラ・ピータースが他にどんな映画を作ったか知らないが、ステファニー・ロスマンみたく(?)女性のエクスプロイテーション映画作家として(雑な括りだが)再評価とかあるんだろうか。そう思わせるくらいには興味深い。アン・ターケルの佇まいとか、犬に対する憐れみとか。それでも最終的には何もそこまであからさまなというハンギョドンの目的。精巧な着ぐるみの怪物がついに姿を現した途端、全裸の女性に覆い被さる。いまだにある種のマニア向けにはあるジャンルのようで、だがポルノほど生々しくもない。男は食われ、皮を裂かれ、そして女は餌ではなく性の対象という、その身も蓋もない怪物の欲望。一方で終盤には絶対に酷い目に遭いそうなミス・サーモンが火事場の馬鹿力で逃げ延びて、男たちから憐れなくらいハンギョドンが袋叩きにされるシーンもあって、どう受け止めたらいいのかわからない。そして景気良い爆発がたまに繰り返される。
ともかく、いろいろ「だろうか」とか書く前に自分で調べるべきだろうが、洋書とか英語のサイトの検索とか、いわゆる研究をどうやったらいいのか、自動車の運転や、株価の動向や、壊れたパソコンの直し方や、一人暮らしの方法、大家さんやお隣さんとの付き合い方、日曜大工、料理、野球、再就職、偏屈なネットの映画好きのコミュニティからどうやったら仲間に入れてもらえるのか、などの謎と同じくらい研究はわからない。こんな自分に明日はあるのだろうか? そもそも調べるのが嫌いだからコメンタリーもメイキングも随分長いこと見ていない。映画への興味関心がないファストマンなんだろう。

自宅にてドン・シーゲル『突破口!』を見直す。先日のキノコヤの遠山純生上島春彦トーク(いろいろあって眠くなるんじゃないかという不安はあったが面白かった)にて、スラヴコ・ヴォルカピッチとドン・シーゲルの話(モンタージュの部署に配属されたドン・シーゲルが、バイロン・ハスキンからヴォルカピッチに会えと勧められ、シーゲルはヴォルカピッチに会いに行くも忙しく話す時間もないからと作品を試写で見せてもらっただけで先に帰られてしまい特に教えも受けられず、後日シーゲルはヴォルカピッチの事務所へフィルムを返却に寄った際に書きかけのコンテ的なものを盗んで持ち帰り、そこから学んで、シーゲルはウォルシュ『彼奴は顔役だ!』の恐慌パートのモンタージュにて評価されるという話)に加えて、最後に千浦さんが『アルカトラズからの脱出』のイーストウッドの作り物の生首がバレると思わせて実は既に戻っているとか、『突破口!』のことなどシーゲルは後年までモンタージュ出身の作家として妙なことをしているという話をしていた(ざっくりしすぎたがシーゲルの話がメインだったわけではない)。
それはともかくいろいろ耳にしては大して覚えていないから年に一回は見直さなければと思っていたのに、ようやく人生二度目くらいの『突破口!』を見た。『突破口!』という邦題は本質をとらえているような、何かにつけ自らの人生の局面というものがあるなら口にしてみたくなるが、自分はまだ何もできていず安っぽくなるから、この映画のこと以外で声に出したことはないと思う。でも突破口はここぞという人生の局面だが、それを単にメンテナンスが必要だったかのように、最終的にはなぜかさりげなく軌道に戻さなければならない。その意味で結婚とか葬式とかと変わらないのか? ウォルター・マッソーの周りにはもう信頼できる仲間はいない。だがその孤独に寄り添う映画というわけでもない。元を辿れば世の中が非情なものといえばそれまでなんだろうか。まず月から始まる。その夜から始める必要もないのに、日の出ではなく月から始める。この冒頭からしモンタージュという感じはする。ウォルター・マッソージョー・ドン・ベイカーも寝る必要があるからというように夜から始まり、朝を迎えて、そして散水機の周りをはしゃぐ子供に、妙に忘れられないへそ出しの娘の芝刈りが続き(自分が欲求不満なだけか)。老けメイクのウォルター・マッソーに至る。なんといっても炎に燃える主役の名前がタイトルという、状況を切り抜けるために痕跡を消していく男の話だから合っているけれど、果たしてこれが本当に映画の名前だったんだろうかと謎をかけられた気になる(これもウェルズの引用じゃないかと、人のTwitterを読むまで全く連想できていなかった)。小柄で高齢なのに相手の銃を抜き取るアクションの早さがかつての映画まんまの銀行の警備員(これも検索してボブ・スティールという西部劇俳優と知る)の死にざまが切り返しではなく映り込みというのが、最後まで顔ははっきりと見えないが画は記憶に残るという切られ役に相応しい扱いで感動する。あとはやっぱりダグラス・サークの『翼に賭ける命』を見返さなきゃと思う。

夜、サーク『翼に賭ける命』を見終えてから、無意味に一時間ほど夜ふかしし、しかし四時間ほどで目覚めてしまい、結局今の時間まで使い物にならず何もできなかった。サークに精気を吸い取られた、というわけでもなく、単に不規則な生活とスマホばかりやっているからだ。

マルセル・アヌーン特集へ行く。昼まで何もせずアヌーンのためだけに気合を入れた一日だった。『夏』の冒頭から、これはいける、という感じだったが、あっという間に振り落とされる。唯一無二! 胸のはだけた女性にミヒャエル・コールハースとくれば、最後まで読んでないものだらけだがジャン・リュックだけでなく大江健三郎のことがよぎる(あとはたしかに前田さんが言うようにラス・メイヤーかと言わんばかりのブンブン手回し走りがおかしい)。『夏』の冒頭もだが『冬』はシェイクスピアの話も出てきてウェルズとの接点はあるのか気になる。『風の向こう側』や『フェイク』や、国アカで断片やった『ヴェニスの商人』に近い感じはあったが。どちらも映画がどの時点か掴めずさ迷い疲れる。『春』になってようやく見やすくなった気がしつつ、やはりロンズデールよどこへ行くと言わんばかりに振り回される。おそろしくとりとめのない展開の割に、異様に編集されているが、それは計算済みのことなんだろうか、わからないどっちつかずさが物凄く面白いところなんだろう。何にしても感度が鈍く誰とも一言も喋った気がしないまま全ての身の回りの物事から置いていかれる。知人友人らしき方々はたくさんいたが、どなたと話したらいいかわからないうちに何も話せなくなるが、自分程度にはどうせそれくらいが相応しい。誰からも映画の話をする相手として生涯見られず、しかし何を自分はしたいのかも何が何だかだが、とにかくマルセル・アヌーンに疲れたのはショックだ。

アダルトサイトにアップされているので注意ですが。ジャン=クロード・ルソー『Le Tombeau de Kafka』(カフカの墓)。同志社でのルソー上映会にて見逃した新作の感想を知人が「学生が撮ったら講師から叱られそうなくらい凄い」と言っていた覚えがあるが、それはこれではないだろうけれど、ようやくそのレベルに間違いないのが見れた。スマホで撮ったのか? あの醜くマイナスにしかなりそうにない機能すべてが、壊れかけの機械をあえて使い続けるような、フィルムの手つきのような粗さがあって、たぶん他の誰も到達しようと思わないだろう、あの光の加減で黒板にも暗幕にも変わるカーテンの色彩なんか、ほぼ直感か? 序盤の不思議な暗転が妙に愛しいし、音楽の使い方もなぜいやらしくならないのか。ルソーはマーヴェリックより凄い。メリエスの映画でも見るようなワープに暗転が挟まれ、帽子と読書の合間に、蜂や馬が出てくる。

渡辺謙作監督・脚本『はい、泳げません』を見た。冒頭のアレがクソに見えるくらい気持ち悪かったが。でもこれは泣いた。清順組、デ・パルマからのトラウマケア映画というか……。とにかく綾瀬はるかがよかった。美容師の阿部純子もよかった。彼女と長谷川博己の出会うきっかけが特になくて、彼のヘアスタイルが垢抜けているというだけなのが面白い。長谷川博己は好きになれないのに『半世界』の時から、この人だけはどうか幸せになってほしいといつの間にか願ってしまう(そして『散歩する侵略者』のように、またしても二度死ぬのだった)。講義場面に協力した学者のカメオ出演も笑った。折り返し地点くらいの動物の活躍もなんだか可愛かった。それにしても見ている間は物凄く感動したはずだったが、今は書こうとすると、どうにも冷めた調子になり悲しい。

『シン・ウルトラマン』も本当に思ったよりは面白かった。期待値を下げれば下げるほど、特に何も求めないほど楽しめる映画かもしれない(いや、それはこの世のほぼすべての出来事がそうなのかもしれないが)。何より冒頭がよかった。斎藤工もよかったと思う。屋上で目覚めて終わりがいくらなんでも呆気なさすぎるけれど。ひっかかるところはたくさんある。冒頭の斎藤工がまだ人間だったなら、変化してからの違和感に初対面の長澤まさみ以外誰も触れないのはどうなんだとか。まあ、斎藤工なら普段からおかしな人でも納得はしてしまうが……。斎藤工の亡骸を斎藤工が見下ろしている山林とか嫌いじゃない。

国アカには行けず久しぶりの『Helpless』を見に柏へ行った。あの始まりも、いまだとマイケル・スノウ『中央地帯』を見たような気分だった(だが微妙にコマが飛んでいたが、それもよかったことにする)。もちろん引用だとかネタ元の話ではなく。『中央地帯』や『←→』にこんな塩梅の蛇行というか危険運転というか振子の動きはなかった。または吊るされた状態を想像する。ヘリから吊るす、『スカーフェイス』や石井輝男の『私刑!』じゃないが……。それと『エリ、エリ~』では浅野忠信がホースを振り回して出す音も(それを壊れた扇風機に固定してハーモニーになる)、『Helpless』冒頭の黒画面から既に聞こえてくる。『東京公園』でも榮倉奈々のおかげで三浦春馬井川遥の公園めぐりを高橋洋に、手で円を描いて伝えていた(でも渋谷の『北の橋』は見直さなかった)。番組企画の人気投票一位じゃないからと完結までテレビ放映してくれなかった『メタロー』やタルトタタンのMV『しょうがないマイラブ』でも球体が出てくる。同時に重要なのが金魚鉢が出てくると光を投射するように、球体には球体の動きがあって、真っ先に『人情紙風船』の水平の動き、『驟雨』ラストの夫婦が互いに力をぶつけ合って、その力を打ち消しながらも行き交う紙風船もよぎるが……ともかくボールなんかだと数える気が失せるほど映像に記録されてきただろうけど、でも正確には三浦春馬が描いたのは円ではなく渦巻(それはアンモナイトを指すらしい)であって、ホースを回して音を出す、画面には映されないが想像できる行為も円を描く、渦を巻く運動に変わりない。渦は点と点を結んで円を完結させるのではなく、飛ぶ可能性を持ち、それが空撮や扇風機や埼玉のIKEAに結び付く?というのも、ここで書き飛ばしては所詮、自分は早漏野郎かもしれない。『Helpless』には諏訪太郎のぶん殴られる禿げ頭と金属バットがあったが、そんな今更なことを書いてもしょうがない。

『東京公園』を見直した時に三浦春馬榮倉奈々に「死ね」というところ(その榮倉奈々浅野忠信に「きさんくらわすぞ」と言われた斎藤陽一郎に連なるウザい絡みといえるかもしれないけれど)は、別に傷つくほどでもないけれど、おそらく確信犯的なものだが、それが正面からのカットバックだから当事者間こそのヌルい「死」が軽さを失って居心地悪い。ある種の、もう「その後」ではないというか、この口にするにしろ耳にするにしろ居心地悪さは生きている限りは到底避けられない、という感覚。『最上のプロポーズ』では斎藤工の口から、死を口にしたことをいつか後悔する、といった怒りが吹き出す。こんなことをポンポン書いている自分はやはり軽はずみなままだが。自分のことにしろ、他人への陰口にしろ、まあ、軽々しく「死」を言葉にするもので、誰かが亡くなった時にあれこれ実際に会っての思い出が大してない時ほど言いたくなってしまうのも、死の話をしたくなる悪ノリが否定できずある気はする。そして言ったことを冷ややかな目で見られて後悔するが遅い。