甫木元空監督『はだかのゆめ』を見る。
『はるねこ』もどこへいくのかよくわからず疲れたが『はだかのゆめ』も苦手だった。最初から最後までずっと息切れしてるというか、終わり続けているような映画というのか、ラストカットがまたあんな感じなので、全てがラストカットにできたような映画。そう書くと本当に全然見たくならない類になってしまうが。アルベール・セラみたいな退屈さの持続みたいな時間の作られていく豊かさとは違う。脈絡がないというか、こっちにはよくわからないから、すごくゆっくり過ぎていくというよりも、いつ終わるのかわからない。いまがどのあたりなのかわからない。おそらくそういう、どのあたりとか、いつ終わるのかとか(さすがに線路が出てきて、そろそろかとはなる)、そういうものでもない。カットがつながってないわけでもない。ただただ時間が止まっているということか? だから『グリーンナイト』の3倍くらいの時間が過ぎていく恐怖(つまり死ぬほどの退屈さ)を感じる。死者と生者の境もドキュメンタリーとフィクションの境も曖昧とかいうと、いかにも映画祭受けしそうな才気走ったものだが。ただこの一時間のなかに観客として一つ持ち帰ればいいかもしれない。「今年の冬をこえられるかわからない」という言葉が、世の現実とリンクし続ける。ただ本来全く似ても似つかないはずの『川のながれに』と『はだかのゆめ』のどちらもが青山真治監督の映画にあるのは間違いなく、そこが改めて貴重だったのかもしれない。

アマプラにてシャブロル『十日間の不思議』。不思議というか変。アンソニー・パーキンスオーソン・ウェルズが血のつながらない親子という時点で普通じゃないが。サスペンス映画という概念の破壊者か? 意外と配分よく十日間が過ぎていくのがまた、何らかの事件がもうあるのかないのかわからなくなる。スクリーンプロセスのような池に反射した逆さまの樹々なんか見たことない。

カイエのベストテンに入るまで、なんとなく忘れていたリンクレイターの新作『アポロ10号1/2:宇宙時代のアドベンチャー』がネットフリックスにあがっていた。周りで話題を聞かなかったので乗り遅れただけかもしれないが……。
なんだかよくわからないようで、もうすっかり「いつも通り」という言葉を使いたくなるクラスの監督だった(いや、それはネトフリだからか?)。もうちょっと驚きながら見るべきだったかもしれないが、やはり良い映画に変わりない。このまま行っちゃうんだ、行っちゃうんだなーとか心の中で言いながら見た。ジャック・ブラックの自分語りだか法螺話だか聞いてるうちに、その虚実がさほど危うくもなく維持されるうちに、じんわり来る。アルトマンをはじめ、むちゃくちゃに言及されまくる映画、テレビ、レコード以外なら『コンタクト』『トラベラー』『BIG-1物語 王貞治』を思い出した。

『川のながれに』

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国アカでの『WiLd LIFe』上映後の青山組同窓会トークでも面白かった杉山嘉一監督『川のながれに』を見る(過去作は未見)。立ちこぎボードでのんびり行く映画かと思いきや、女性三人ぞろぞろ出てきてアラサー男子のモテ期映画になって人生激流下りになるのかと驚き、そこへまさかの「生き返り」と出鱈目スレスレでも実に落ち着いた、笑って泣かせる映画。編集も監督というスタイル。
立ちこぎボードの落水した人を主人公がややドライなくらい冷静に「自力であがってください」という序盤から、これは映画館で見れてよかった。カメラがパンしたりどんでん返ししたりしながら、その場にいると思わなかった人を出すのが面白い。イラストレーターの前田亜季(いい!)が川瀬巴水の画の聖地巡礼の際に、松本享恭を木の前に立たせてスケッチしながら会話しながら真正面の切り返しになって、最後は横からのロングになるのもいいが、その後にバーベキューを経て、長いスピーチの間のアイコンタクトもリズムも笑えるが、火を囲んでのカットバックはさらに自然と感動した。岡本喜八が助監督らに新年会で「円卓を囲む人たちの会話のどこにカメラを置くのが正解か」と問題を出したらしく、答えは忘れたが、青山真治監督のツイートで「そもそもそんな構図は面白くならない」か「そんなところに一箇所置いても面白くならない」と書いていた気がするがはっきり思い出せず、見つけられない。その意味で言うなら、本作はそうした囲んでのやり取りでのカットバックのバリエーションとしても、この物語の題材としても、どこか一箇所の答えなんかありえないんだという映画かもしれない。中盤までは諍いになるとカメラは動いていたが、父親と席を交えたあたりからはフィックスに落ち着く。小柴カリンという女優がかなりおかしくて、彼女の登場からニコニコしっぱなしだった。なんだか他にも出てくる役者のバランスもよくて見慣れない人ばかりだが楽しかった。そして俯瞰ショットの数々は『夏の妹』をちょっと思い出す光景に『ピラニア』の話(ジョー・ダンテの『ピラニア』はヴェトナムに放流されるかもしれなかった生体兵器がアメリカの河に誤って脱走して暴れる話だ)に至る。洗濯物を畳む時にもアクション繋ぎがあったり、どこまでも見逃せない映画。

デヴィッド・ロウリー『グリーンナイト』を見た。見る前は何もかも美しい世界とか連想したが、ああ、デヴィッド・ロウリーってこうだよねと気づく。久々に誰が何やら役者名もわからないまま見終えた。というかてっきり主役がアダム・ドライバーだと思いこんでいたから「じゃあ彼は何者なんだ?」と普段から役者の名前に疎い自分はそこから始める必要があったかもしれない。そして異常に魅力的な女優たちの名前もよくわかっていないまま。アリシア・ヴィキャンデルをもっと見たいのに、あえて平然と違う女がやってくるのもまた正しいかもしれない(あの寝起きにあんなことする女優のまさに肌の色合いが時空を超えて70年代くらいにワープしたかもしれない)。のっけからアヒルさんが活躍して『アンデスふたりぼっち』など南米の高山の映画が今作のライバルかもしれない。生々しいのか、作られたものなのか、その境の曖昧さ。何気にエンドクレジット終わるまで見逃せない映画だ(でもあの少女は誰だ?)。よくわからないが凄い映画だった。いや、よくわからないわけではないが、なんだかそういう話をするだけでつまらない映画になりそうで怖いのだ。別にデヴィッド・ロウリーはこれまでもただ凄いでは済ませられない地味さというか、ずばり批評性みたいなものはあって、今回も失われていない。なんだかんだ黒沢清の『モダン・ラブ東京』のキャンプと意図せず並走しあうとかいうやつなのか。個人的には『銀河』を思い出して、ジェット機が飛んできて『砂漠のシモン』というか『ア・ゴースト・ストーリー』のように時空が一旦飛んでしまったかのようだったというか、やはり夢オチというか、一人の人間としてのガウェインを見ているつもりが、やはり裏切られる。それが知的操作云々感じる人もいるかもしれないが、これが映画に人間がプレゼントや見返りや復讐心を求めるばかりでなくやれることじゃないか(いや、この辺の意味をさぐるためには「凄いなあ」から一歩距離を置かなければいけない)。それでもうっかり「一足早い(一年以上遅れた)クリスマスプレゼント」とか言いたくなる感じでもある。それより何より『黒衣の刺客』に匹敵する現代の何もかも新しい時代映画の傑作と言いたいが、僕が言うべきではない。キツネと巨人よかったですね。

ストローブ追悼のためかエッサネイ社のチャップリン監督作を見直したり、初めて見たりしながら、やはり見るたびに以前より充実していた。
フルサイズの人物が収まったフィックスのショットを行き来しながら、二人〜四人またはそれ以上並んだ人々が同一フレームに収まっての、互いに気づいたり気づかなかったりしながらのド突き合いというか連鎖があって、それが別のショットに分かれても連鎖してる。さらに一見つながりがあるか明確でなくなってくる時、どのタイミングで切ればいいか答えがわからない時ほど不思議と感動する。そういう時ほどサイレントになって当時の声のわからない、正確な会話や、そのときに聞こえた声もわからなくなってしまった今こそ、彼ら彼女らの設定上はちぐはぐでも現実には強固な結びつきが、ああ、これが「ショット」と呼ぶんだなと言いたくなる力で存在しているのかもしれない。それを撮って編集できたチャップリンの映画みたいにシンプルな行き来から、どの映画でも意外とバラバラな地点へ飛躍する跳ね方をするから、毎度感動する。あとはあのカメラが斜めになる時など、不意に主観的なものを導入する飛躍か。アルドリッチについて同一フレーム内に人を3人以上入れる時に、チャップリンの影響はあるんだろうか。たしかアルドリッチチャップリンを監督らしさはないが妥協しない人と書いていた。それがまさにダニエル・シュミットや、ストローブ=ユイレに通じるかもしれない。『シチリア!』の列車に向かい合った人々が二人かと思いきや三人いたときに、または何だかんだ『妥協せざる人々』でもメシの話を引っ張り出すときなど、チャップリンを思い出すが。

アムステルダムデヴィッド・O・ラッセルの映画は随分前に尊敬するHさんから「君はあんなごっこ遊び映画が見たいのか?」と詰問(というほどでもないが)されて以来すっかり遠のいてしまった。といいつつ『ハッカビーズ』や『世界にひとつのロマンティック』(最後にカーティスで踊るやつ)はかなり好きなのだが。今回はデ・ニーロが出てると知らず、彼の誕生日に見れたのはよかったかもしれない。ただ映画自体はたしかに「おおよそ実話」だけあって更に「ごっこ遊び」感は強く(僕はHさんではないのでわからないが、その悪い例が『ジョジョ・ラビット』で、良い例がウェス・アンダーソンになるかもしれない)、なかなかグダグダな印象になる。『ゲット・アウト』と『アンダー・ザ・シルバーレイク』の流れにラッセルもそういや近いか。いや、トランプ出馬表明の時代にあの終盤は必要なのかもしれないが。しかし珍しいくらい不意に人が出てきたり、窮地を脱したりするときの繋ぎがイビツというか、だんだんそれもわざとなんだろうと思うが、でもそれは下手な映画というか、まともにサスペンス演出をやる気がない監督がやるとさらにうまくいってない感が強まってしまうとか、つまんない正論ですかねえ、となる。アニャ・テイラー・ジョイはじめ役者はなんとなく見ていて楽しい(というのが「ごっこ」の良さなのか)。

サトミンにお布施のつもりで菊川にてどれか一本くらいは見るかと思っていたが、勢いで『恋や恋なすな恋』(内田吐夢)にする。たしかにこの配信でも見れるセレクションでデジタル上映で割引なしの料金ならどれか考えたら、自然と『恋や恋なすな恋』になるんじゃないかと思う。貧乏くさいことも考えていたが、瑳峨三智子をサガミンと呼びたくなるくらいにはサトミンを思い出した。好きな映画とそっくりの人になるというのはそれだけで尊敬できることだ。これまたお布施だと思ってパンフレットも買ったが、サトミンの序文が素晴らしい。僕みたいな心のさもしい人には書けない心意気のある文章で感動的だった。そして『恋や恋なすな恋』も久々に見て、あの序盤の赤い雲の話がフィルムで見ると退色した映画の話をしているようで何だかおかしいのを思い出した。そして始まってすぐ貧乏くさい邪念など消えた。デジタル上映が何の文句をつけたが、やはり戦後日本の最も大胆で美しいカラー映画の一つにちがいない本作をこうした空間で見るのも違った凄みがある。死んだ榊をわが身に宿したような大川橋蔵の仕草の記録として見入ってしまう。作り物の蝶々を追う大川橋蔵にあわせて、まるで波に乗るように穏やかに上下するカメラの動き。ドロンと煙をあげてアレが飛んでくるのにはやはりビビった。サガミン狐が葛の葉姫に化けるところの仕掛けは忘れていたから照明含め本当に不意を衝かれた。大川橋蔵が正体を知る時に家屋の側を回転させる驚きが、彼の狂気を晴らす。サガミンのベロ、あれは本当にエロい。日高澄子もヤバい。最後には「石がある……」と思わず呟きかけた。そういえば国立映画アーカイブで見た『蝶影紅梨記』という香港映画も作り物の蝶が、こちらはそっくりさんのふりをした本物との再会を果たさせるくだりがあった(これも素晴らしい映画だった)。

レア・ミシウス『ファイブ・デビルズ』。奇遇にもセリーヌ・シアマの『秘密の森の、その向こう』と共通項多い。娘が何らかの手段でタイムリープして、若い頃の母に会う映画。ただし魔女映画的なものに近い。というか、その批評か?(魔女が火炙りにあって現在に転生してさらに酷い自体に!という映画の筋をやや連想して、そこからのズラシ方が見所か?)。娘の反抗に最悪の結末を予想して「大丈夫か?」と不安になりダレるが、わりと良い感じに回避される。とはいえオチ(のようなもの)は好きになれない。

配信にてジャック・ロジエ『Oh, oh, oh, jolie tournée !』を見る。ベルナール・メネズのツアーのドキュメンタリー映画。画面隅に時間の表示が出たままになっていて、あれの名前を何て言うのか(ああいうのが出るのは何となく知ってるんですけど)実はよく知らないまま生きてきた。最近物忘れがひどいし、何も覚えられないので、どっかで聞いたことあるが、ググるだけでは名前は思い出せなかった。まあ、編集の経験も、映画の現場の経験もないし、プロの書き手でもないのと、最近寝不足が酷くてそういうの調べるのが凄く面倒くさくて辛いんですよね(と甘えたことばかりは書ける)。ただあの時間をもっと集中して見ていると編集の複雑さをより意識できるかもしれないが、だんだん気にならなくなる。
ただこの映画がとにかく楽しいというのだけは思考停止しているなりに書ける。最初はツアーの記録くらいに見始めたら、どこへ行ってもあの歌(Jolie poupée)に合わせて踊るベルナール・メネズを繰り返し見ているだけで、楽しげなんだか仕事なんだか愉快なんだか、ちょっと疲れてくるのか、なんともジャック・ロジエの映画だなあと思う。要所要所の楽屋でカメラに向かって踊る黒人ダンサーたちのほうがさらにイキイキしていたり、壇上にあがらされた子供たちが全然踊りについていかないのもウケる。ベルナール・メネズがホテルの電話で起こされてから、風呂場での着替えや電話のタイミングなど、サイズもリズムも見事というか劇映画ともうここまで来ると大して変わらない。扉をあけてホテルのロビーにやってくるのを、ロビーの側から俯瞰気味に撮っているのなんて、本当に距離感が見事というか、なんかホームムービーみたいな画質でも余程映画を見ているという充実がある。自動車に荷物を詰め込んで走り去るまで撮ってから、メネズの車両を後ろについて追いかけるカットへ繋いでいたり(見てないが『情熱大陸』とかもこんな感じのことを実はやっているのかもしれないが)リアル『めまい』じゃないが、そのあわただしいけど、まさに映画という感じ含めて面白い。そして何か書類がないのか車を止めちゃって鞄をあけて探しているのを、何のタイミングに撮ったのか正面向いて白目とかやっているメネズ自身のアップを挟むのも面白いというかブレがない。メネズがペラペラしゃべっていることはフランス語わからないから何もわからないけど、その場で文鳥がピッピ鳴いているのに繋げて、メネズも文鳥も同じくらいいいなあって思う。ジャン・ルーシュの特集は大学一年の時に存在は知っていたのに、諸々うつつを抜かして一回も行かなかったのとかも後悔した。

クローネンバーグの新作『クライム・オブ・フューチャー』を見た。輸入盤を買った。しばらく公開の機会もなさそうなので、22年は何があるかわからない年だからと言い訳しながら、堪え性がないから見てしまった。
昇天。
まさに、イく!
クローネンバーグ史上最も増村的というか『華岡青洲の妻』か? いや全然、熱らしい熱はないが、カメラを手にした人々といい、何かが近い。
フューチャーといいながら化石から始まる。解体ショーに振り切れた映画かと恐る恐る見たが、やはりクローネンバーグは出し惜しみの精神を失っていなかった。
うっかりクローネンバーグを、品があってうまい、と口を滑らせたことがある。当然そんな作家ではない。つまり、やはり詳しい話はよくわからないが、とにかく字幕なくてもわかるくらい皆、興奮してる。おそらく性的不能者だらけだが、会話だけでもイッちゃってる。痛くてもイく。だからわかりやすい。もはや笑うしかない。ソソる(下品な言い方)のはやはりレア・セドゥだが、クリステン・スチュワートのおかしさはクローネンバーグ流のユーモアを体現してる(流行りの『チェンソーマン』の作者が好きそうじゃないですか)。クローネンバーグがイーストウッドの枯れた肉体を欲している可能性は今作でも否定できない(まあ、言わないがイーストウッドの近作を思い出す要素もある)が、代わりにまたもヴィゴ・モーテンセンがもはやエミネムどころかシスの暗黒卿みたいに声がれしてる。彼とレア・セドゥの食事の対比もわかりやすすぎるが笑ってしまう。
ともかくこの乾いた絶望というか、コロナの変異と核ミサイルの世界で、なんともこれまた2022年の気分に相応しいかもしれない。

別に珍しくもない堀川弘通あすなろ物語』を国アカにて今更見る。初見。原作は小学生の頃に途中まで読んで、ほったらかし。人生初の積読? 岡田茉莉子・根岸明美久我美子、ふだん考えたことないが全員好き。この世に永久機関というものが映画の中にだけあるとして(そういえばもう続きを読むかわからないチェンソーマンにも「永久機関発明できたと思ったのに」という台詞があった)別に永久機関ならOKというわけではないが堀川弘通の映画は永久に大回転もしくは「あすなろ」を続けられるかもしれない……適当な感想だが。この「黒澤明になれなかった男」とか言われかねない、しかし間違いなく重要な名匠の(その堀川の助監督でもあった恩地日出夫は「俺は東宝で黒澤の次に偉い」と言っていたと映芸の追悼に書かれていたが)もう良いか悪いかさておき既に見始めたら嫌でも入り込まずにいられない力があって、あの夜の岡田茉莉子は霊だったのか、根岸明美とともに海辺で(しかも『アネット』の漂着した島のような夜の月明かりに照らされた海辺の空間がロングで映ってから、なぜかバックに海辺が合成されたカットになる)横になって波が繰り返される時間を過ごしたり、久我美子の窓のギシギシいう音がやまなかったり、なんか逆再生でもしたのかという音が聞こえてきたり、今まで顔と名前が一致してなかった高原駿雄の演じる竹内さんがよかったり(金子信雄のそばで猫のマネとかしている)、なにか愛着がわく作風の監督でもないのに常にそのリズムが凄いといえばいいのか(今まで見れたところだと最高のリズムが『おれについてこい!』か?)。オリンピックの記録でも作れるんじゃないか? 『激動の昭和史 軍閥』はどう解釈するか?

書きそびれたというより黒川幸則さんご本人に確かめて言うべきかもしれないと思い、何となく書かないままにしてしまったが、ピンク映画デビュー作の『淫乱生保の女 肉体勧誘』が97年、その後は脚本作がJMDB見ただけで何本かあるけれど、おそらく次作の『感染病棟』『夜の語学教室』の2009年まで12年もブランクがある(この長編二作の間の12年はケリー・ライカートの『リバー・オブ・グラス』[94年]『オールド・ジョイ』[06年]と同じだ)。続く2010年の『ある歯科医の異常な愛』と三本の良いかどうかよりなかなか面白おかしい映画から(そのスタイルのさらに歪な変化も言えるのか)、あの『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』の公開まで6年間再び期間が空いてしまうが、なんだかんだ『にわのすなば』も6年ぶりの長編にあたるんだなあ、と思いつつ、短編やドキュメンタリーのこともあって(というより、この間にキノコヤにいけば個人的にお会いできる機会はありまして)久々という感じが薄れてしまっているが、もっとこの辺は突き詰めて考えるべきだったのか? でもしっかりと書き直す時間は(少なくとも公開までは)ないと思う。黒川幸則監督の六年ごとの映画は、その時々の何か(黒川さんご本人の現状に留まらないことか?)があるかもしれない。でもこの6年周期のことについて書いた方が、よほど批評になったと思う。自分の頭はいつも働きが鈍い。

クリスティアン・ペッツォルト『死んだ男』せっかく見たのに、おそらく肝心なところほど寝てしまう。こういう映画をバッチリ意識集中してアレコレ鋭いこと言える人になれば見直されるかもしれないが、どうせどうあっても負けてしまう。とにかく謎の女に見た目は冴えない男が引っ掛かって皆不幸になる話かと思い込んでいたから、終盤はかなりびっくり。ウトウトしていたせいで『ベッドとソファ』や『アタラント号』のちらつく話もあったように見間違えたが、上映後の質疑応答はむしろビリー・ワイルダーや『めまい』の話や、写真が出てくるのはヘルムート・コイトナーの映画だったりハズシっぱなし。

『チケット・トゥ・パラダイス』かなりウトウトというかボンヤリ見た。悪いものではないと言っても、まあ、かなり緩い、これはこれでパシフィクション映画だが、最後で不覚にもグッときてしまう。そういうユルユルだけど何かいいもん見たって映画は映画祭にはない。いや、別に優先して見る必要は一切ないが。

『エルピス』『仮面ライダー』『チェンソーマン』をそれぞれ一話だけ見てから、やはり見逃したままではいけないと思い、青山真治監督『贖罪の奏鳴曲』を今更ながら完走。大昔の知人の名前をクレジットに確認したが、どこにいたかは不明。第一話、二話と引き込まれ、第三話の川瀬陽太の憎たらしさ、なぜかわからないが酷いことであっても泣けて仕方ない少年時代の回想(こういう感じはたまにあるが何なのか)、展開の早い法廷!と来て、最終話での演劇での活動がこうして発揮されるのかと、三上博史とよた真帆の既に何回かかわされていたはずの対話がなぜかよくわからないがテレビドラマとか映画とかの枠も超えて胸に迫る。しかもその危うさが、特に終始いろんな意味で水と油な組み合わせな(そこがいい)リリー・フランキー(!)との会話さえも面会場面を経て変わる。演劇ではありえないが、演劇を経た生々しさを見ているような?録音の効果かボソボソ喋りでもいい。ここでのつなぎ間違いなんか、ある意味これこそニコラス・レイの映画で見るものに近いかもしれない(見ている間は思い出さないが)。染谷将太がまた演劇的とは全然思わせないのも面白い。

そして山崎樹一郎監督『やまぶき』を見た。勝手に『仮面ライダー black sun』がよぎったり、『紅葉』はチェンソーウーマンだったなあ、とか、警察署の標語がローカルでちょっと笑ったり、そんなものまで坂道を転がってくる展開かと内心ツッコミかけたりしたが、これは泣かせる。たしかにこの映画に関するいくつかの批評の言葉ほど確固とした映画なのかはわからない。これは良い映画なのか、ちょっと散らかった映画なのか? そういったことはもうこの際ともかく置いておく。なんだか最終的には「おーちゃん」と呼ぶだけで泣けてくる(なんでチャンスさんがそう呼ばれてるのかパンフ読むまでわからなかった)。とにかく皆書いてるがチャンスさんのカン・ユンス良かった。最初はこの人が主役?と不安だったが、取調室の背中と声と聞いている刑事の顔があまりにせつない(しかし元々この経験は笑い話だったらしく、そのニュアンスで聞いてみたい興味もあるが、まあ、それをしても半端に気取っただけになりかねない)。「走ろっか」もいい。「またね」も悲しい。いろいろ良いところある。和田光紗も良かった。娘も良かった。あのペットボトルの工作がわかるところもグッとくる。パンフにはリモザンとヤン・デデの助言あって97分にまで切り詰めて、結果、福島もオリンピックの話も明言されなくなった話とか、チャンスさんの役柄を掴んでいく過程とか、あのバーでの唐突なくだりとか、交差点とか、だいたいよかったところは書いてあった。最近なら『発見の年』の二分割画面には感動したが、この終盤にカン・ユンスと祷キララがようやく話したり、さらに終盤にお母さんの職業がわかったり、こういう展開にはなんだかんだ訴えかける力がある。

やめようと思っているのにズルズル抜けられないJAIHOにてラモン&シルヴァン・チュルヒャー『ガール・アンド・スパイダー』を見る。ジャック・ヒルの映画みたいなタイトルだが、数年前に話題だった(2013年だから10年近く前だった、ショック)『THE STRANGE LITTLE CAT』の監督だった。やはりかなり面白い。あらすじから、さぞ不穏な展開が待ち受けているかと思いきや、もはや全編通して不快だか快感だか判別つかない稀有な映画。およそ日常的な光景からは逸脱しないといっていい(さすがに異様なところもある)。というか人によっては「物語らしい起伏がない」と言うかもしれないし、単に息苦しく気取った映画として扱われるかもしれない。そしてその裏にさぞ意地の悪い含みがあるといいたいわけでもない(いや、およそ性格のいい人が作るとは思えない映画だが)。引っ越しの二日間。きっちり上映時間の半分で一日目というスタイル。おそろしくミニマルな始まりで、ある意味では徹底してミニマルなんだろうが、ほぼ全編バストショット、あえて人間同士の高低差はほぼ除外され、しかしカットバックは意図的に話者同士ではない相手へズラされ、画面外の音は会話や人が行き交い、幽霊が奏でているのかもしれないピアノが聞こえ、特にどんだけおこぼししてるんだと、これじゃ地面はガラスまみれの羽だらけの虫の死体に写真も水浸しか?と気になっていたら、最後のモノローグがまさに「海に浮かぶ映画館」ではないか! というか、たしかに深田館長の『ナナメのろうか』に近いスタイルかもしれない。とはいえ、受ける印象は真逆であり、むしろスコリモフキの『ライトシップ』のことなんかよぎった(蜘蛛といえば『アンナと過ごした四日間』になる)。「海に浮かぶ映画館」での上映作なら、たしかに羽毛には、うっすらと『操行ゼロ』感がなくもない(というか水に飛び込んだ幻影も出てきそうで、さすがに出てこないし、指摘したところで、だから?と言われそうだ)。ヘルペスと額の傷に爪も割れている彼女はスパイダーウーマンどころか日が沈むうちにゾンビガールへと変化しつつあるかもしれないけれど(ライミで言うなら中盤のお婆さんの変化もそれっぽいのだが何なんだろうか)、なんとラストカットは『デッドマン』かよとツッコミたくなった。

山形ドキュの東京上映にてルイス・ロペスカラスコ『発見の年』200分2分割画面どん詰まりの酒場での老若男女の語りが続き、そのドラッグをめぐる話題も多く『チェルシー・ガールズ』かと驚き、これならいける!と思うが(実際参照したらしい)下手したら美術館のインスタレーションみたく最初から最後まで通して見るものでもなかったりして……ともよぎるが杞憂だった。話題は組合活動への不信をめぐる諍いから、時をフランコ独裁政権の終焉へ巻き戻す。このあたりまで実はフッテージ映画というか、いつの時か定かではないが、いま現在ではないかつてあった出来事というか…いや、それは撮られた時点で何らかの過去にはなるのだろうが、妙な距離、または再演されたものを見ているような奇妙さがあった。グローバル化による経済危機、92年スペインカルタヘナ自治州議会炎上事件そのものへ、そして分割画面が最終的に見事な切り返しとも溝ともとれるようになる。前半にあった酒場の人々の生々しくも距離のある感覚が、その顔が、不思議と一気に(その抵抗運動の当事者たちと共に)現在というものとして迫ってくる。この日本こそ確実にある分断を埋めるには、かつてあった団結を意識するためにも必見。

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フィルメックスのあたりの日記②

太田達成『石がある』または石ガール? 前作『ブンデスリーガ』も何がいいのかさっぱりわからない突き放しただけの映画だったが、これも死ぬほど退屈とまでは言わないが、かなり見ていてしんどい。加納土についていく小川あんという組み合わせが、微笑ましいようで、だんだんイライラ、不憫になる。それだけ。あとは石積み(賽の河原か?)の光の加減とか? それ以上の何かあるかもしれないし、別になくてもいいんだろうが、結局このような二人を見続けて、こちらも時間を虚しく費やしただけ。ノートの字が英語字幕抜きでは読めず、自分の視力が不安になるが、このあたりの何か話に奥行きありげな感じがさらに嫌いになる。「何がしたいんですか?」って聞きたいのはこっちだが、いや、何がしたいかわからなくはないが、もうこんなのは見る気が失せてしまった。正直こういうのを撮りそうな(失礼ながら)映画作家として五十嵐耕平も思い浮かんでしまうが、こんなのを見させられても観客には何の得もない。こういう映画から細々と美点を見聞きできる感性の研ぎ澄まされた人になるべきかもしれないが、どうせ自分にはできない。ただ自分は映画を見るセンスも学もないし、どちらかといえば人から教わる側なので、たいていどっかの誰かさんから「もう一回見直したほうがいい」とか「シネフィル的価値が絶対だと思いこんでる」とか「いや、こういうよさがあるんだよ」とか言われて「いやあ、僕は世間知らずなんで」としか言えないだろう。

アルベール・セラ『パシフィクション』今回はピンチョンと聞く。いや話半分に受け止めるべきか? ただひたすら陰謀の香りが漂う島にいながら、数少ない場面を除いて、ほぼジャケットを着替えることなく過ごす中年太りしたブノワ・マジメル(『引き裂かれた女』の彼が!)。陰鬱ではなく、騒々しくもなく、あくせくもせず、苛立つこともなく、危ういバランスを保ちながら、しかし映画そのものは歴史に名を刻むだろう野心の塊。まさに徹底的に優雅な退屈さへの冒険。心ある観客がこぞって「また見たい」ということは、これこそ映画の成し遂げた偉大なユートピアかもしれない(『パノラマ島綺談』というとさすがに興醒めだろうから『金色の死』というか、この映画を永遠に上映し続ける島があるかもしれない)。おそらく何一つ似ていないだろうが真にロジエに匹敵するのはセラだろう。それでいて彼がかつてのコピーに留まるわけがない。『ジョン・フォード論』の年に、また映画にとって辛く痛ましい別れが相次いだ年に、本作もそのシネフィルたちの記憶に結びつけられ、何十年と忘れ去られることはない。その記憶が失われた時が映画の死を意味するに違いない。
そんな見た人の話を聞きながら、自分も見ることができたっぽくメモとして書いた。

ホアン・ジー『石門』も散々引っ張ったわりにラストそんなもんかよと、やはり150分くらいの映画なんて大半は観客にとって時間・金銭・精神的余裕がなきゃ無理だろうというダラダラした一本で僕も一刻も早く映画関係者らしきなにかに転職したいと思いました。

リティ・パン『すべては大丈夫』個人的には全く乗れず。イメージの話をする割には随分安直な切り返しのために節操のない使い方でブチ込んでないか。前作『照射されたものたち』の死屍累々虐殺てんこもり画面分割に『ある夏の記録』の朗読を被せればほだされる人々は本当にチョロくてリテラシーのかけらもないだろうが、本作も人形だけで30分なら遥かに見るべきものに仕上がったに違いない。たしかにイノシシや猿が人類の罪深い記録映像に感化される様は面白いが、それでも『月世界旅行』を見るくらいに使用は留めるべきじゃないか。これらの記録はリティ・パンがたいした批評もなく自作の中で見せるための映像ではないだろう。スマホを掲げたイノシシ像もちょっと笑ったが。『消えた画』や『S21』のほうがイメージに対してもっと距離のとれた映画だったと思う。

エリン&トラヴィス・ウィルカーソン、つまりウィルカーソン一家によるドキュメンタリー『核家族』を見る。昼飯を食べようとしたら注文が抜かされていたため諦めて、メシ抜きで見る。そのせいか眠気はないが集中力は落ちる。『核家族』といっても内容はレイ・ミランドの『性本能と原爆戦』(未見)みたいなニュアンスの、核の時代の家族というか。トラヴィス・ウィルカーソンの以前の『殊勲十字章』ののらくらっぷりに続いて、本作でも核実験施設のいい加減な管理というか、国の施設ってどうしてこうもという話が作家自身の語りでつらつらと笑うに笑えない感じに続く。終盤になるほどだだっ広い景色にフクシマ・デイジー(要は放射能汚染による畸形)に、インディアンの虐殺の歴史を踏まえて(何てったって西部劇の映画に関わった人々が被ばくしたのではという話は信ぴょう性があるだろう)、すでに核戦争後の荒涼とした世界へ曖昧に移ろいつつある時をいきる一家のダンスを、もはや絶望もなく眺めて終わる。ハイゼンベルクがリスクを訴えたところ独裁者の鶴の一声で原爆開発が中止になったのではという逸話(信憑性はあるのか?)に触れつつ「しかしアメリカの科学者たちはやめなかった」という展開は来年のノーランの映画では扱われるのか? ただ映画は南部におけるネオナチの存在にもはっきり触れている。

ジャファル・パナヒ『ノー・ベアーズ』初っ端からブライアン・デ・パルマもシャッポを脱ぐに違いない驚愕のワンカットらしき謎撮影から変な映画で、この不可解さが理不尽かつ生きにくい世界そのものと言わんばかりの映画。しかも初期デ・パルマが志向しただろうヌーベルヴァーグというかリアリズムを維持したまま成し遂げたのだ(作中人物の水に飛び込んでの自殺がなされたらしいという溝口的なニュアンスでのリアリズムもある)。ついでに言うならゴダールを除き(いや、それも本当に成されたかはあやふやだが)ヒッチコックロッセリーニを同時にやるという野心の代表はキアロスタミだろうが、それをデ・パルマまで視野にキアロスタミ以上の変すぎる映画を、しかし生生しく実現した。つまりパナヒはフィルメックスの常連では唯一最大の偉大な前進を続ける作家である。しかしパナヒは早く自由になるべきだ。人間として、当然の権利だ。