『きれっぱしの愛』(フリーヌル・パルマソン)。『ゴッドランド』の監督によるホームドラマ。リンクレイターと同じ劇場で見れるから『バーナデッド』みたいな映画かと勘違いした。初っ端からキートンのアレを思い出す。まさか文字通り漂流して終わるとは(誰だか途中までわからず)。前半のパンダの活躍は凄いが途中から出番激減。さみしい。
『大統領のケーキ』(ハサン・ハーディ)なぜか東京国際映画祭みたいな気分になる。良いというのはわかるがラストシーンに乗れない。というか皆が良いっていう映画にしばしばある乗れなさがある(ツボがわかりやすい?)。ところで既に宣伝から想像したものと違うと多くの人が言っていて、その上で評価されてるというのは間違いか正しいか。それにしても船の行き来はたしかにイラクから自分が想像していなかった光景ではある。
山本晋也『狂った女神』(66年)。
冒頭の殺人シーンからサウンドトラックが異様。翌朝、同室の死体に気づいた男が一人芝居というか独り言で延々振り返り出すのに併せて、その場にいない犯人(?)らしき笑い声も響き続ける。上下の視野を狭めたようなシネスコ画面で限られた室内で人物が同じ場所を回り続けるような錯覚、殺人事件にセックスシーンと全てを見せられない題材や語り、そこに誰かよくわからない笑い声と相まって、悪夢のように全体を見通せずもがき続けるよう。
奥さんの裸の背中を撮るシャワーシーンと、シャワーから出た奥さんが旦那を見ているだろう主観ショットと、やたら「見た目はいいが心が冷たい」と奥さんに嫌な態度の夫という組み合わせが、ありきたりだが見ている内に何が正しいんだか、何を見せられているんだか、わけがわからなくなってくる。何の驚きもない犯人たちを見せるまでにかかる時間も、勿体つけているだけのようで、延々全体を見せない悪夢みたいな印象に。それ以上に主人公が犯人を止めにきたはずの場面での、どこから聞こえてきたみたいな声の重ね方に、犯人がカーテンあけたら窓全開で主人公が庭に立っているという状況と、そこをロングショットという判断と、全てが異様すぎて笑いも起きない。
「三角関係」というセリフが出た後に「サンカクカンケイ」という声がなぜか繰り返し響き続けるのも変。
そして何より『狂った人妻』くらいがちょうどいいタイトルを『狂った女神』という題がふさわしいくらいに飛躍させる。
山本晋也『ドキュメントポルノ 続痴漢』。
これはこれでヌーヴェル・ヴァーグぽい(中島貞夫とか)即興ぽい台詞に性犯罪が続く。最初はひどく恐ろしい暴行から始まり「これからこの映画が語るのはもっと違う行為です」とカジュアルに切り替えようとする。とにかくくだらないがなかなか楽しめた。やる気ないわけではなく、やはり器用な映画作家だ。「覗きの大家」が互いに双眼鏡で覗き合う切り返しはバカバカしい。マルチーズを抱えてるせいか音楽もワンワン言い出すのが自由だ。エロ医者が覗き見た部屋で流れるアニメが貴重な『ドラえもん』という有名な不条理を確認。夜中に働く下着泥棒を見ながらジャン・ピエール・モッキーの映画を見逃したことを思い出すエロベール・ブレッソンとかしょうもないことを言いたくなる。なお「痴漢の一つや二つできなければ出世できません」という最低のナレーションもあるが「エロベーター」で騒ぎを起こしたおじさんが「総務の〇〇さんじゃない?」と周囲から冷たく囁かれている状況を見るに、ピンク映画を観る人は現実と違うと理解しているだろうが線引きはちゃんとしなくてはという大人な監督の態度を感じなくもない。
チャン・リュル『ルオムの黄昏』を見直す。初見時に眠気で集中できなかったが、今回は酷暑のせいか、さらに寝てしまった気がする。しかも見終えたタイミングでTwitterを見たら、井上正昭さんがラウル・ルイスの発言を引用していて、その内容が本作も指しているとしか思えなかった。
「私が「退屈」への控えめな擁護を提唱するのは、おそらく、私が興味を持っている映画が、ときにこの種の退屈感を呼び起こすことがあるからだろう。マイケル・スノウ、小津、あるいはタルコフスキーの映画を見たことのある人なら、私の言いたいことがわかるはずだ」(ラウル・ルイス)
寝たのは単にコンディションの問題かもしれないが。チャン・リュルの映画に夢は付き物だが、これまで以上に夢のように呆気ない結末へ向かう。『春樹』の解放らしき感動とは異なる、ただ見て聞くしかない、これこそ擁護すべき「退屈さ」か。チャン・リュルの中にある二つの魅力が別々に発揮されていて見事だと思う。
全編にわたって猫や蝉の声が合いの手のように響いて、作り込まれた映画の持つ格調高さがこちらも眠気と戦って見る必要を感じさせる。ヒロインの置かれた町並みと、同伴者たちと、「画面外」とは何を指すというくらいの音と、それらへのリアクションを見る。以前聞いたようなやりとりを繰り返したり、挙動不審な行き来が挟まれたりするほど、そこに彼女たちへの演出および霊の存在は意識させる。これが割れたグラスの音や、ヒロインの分身にまでなり、映画が破綻する手前で、映画自体に潜む魔の存在を明かすようだ。
それでいていまおかしんじのピンク映画や、あるいは武田一成のロマンポルノのような、ここにベッドシーンが必要か不要かわからないがあってもおかしくない気がする。汗だくになっての目覚めや、人工授精をめぐる話が、直接的な絡みはなくても連想させる。
『オブセッション 災愛』(カリー・バーカー)。
どうにも最近は映画を見ても「よくできてる」というか適度に解釈しながら見てしまって(最初にヒロインの代役として絶妙な顔の女性を選んできたんだなと思いながら見てしまう自分が嫌になる構成)、上映後に人の感想を読んで終わりになる。そのせいか映画を見る時間がますます薄くどうでもよく感じる。
それでも本作も真剣に考えるほど、時間停止モノAVを見終えた時の救いのない、うしろめたい気分になる。原因ははっきりしているが向き合い損ねた結果、事情を知らない人が見たら単純に狂った女の事件となるんだろうから、精液を口から吐くように死ぬ男はろくでもない。最後の血まみれ姿が魅力的なのが救いというのも、また文脈としてうまいような。
また奇遇にもTwitterを開いたら三池崇史が『オーディション』について語る記事が載っていて、そうした映画の抱える問題を指摘しているのだろうとも頭ではわかる。
黒沢清の影響を監督が語るインタビューは既に話題になっているから、レストランのくだりで『CURE』だなあとよぎるし、そうなるとこのグッズのせいで『Chime』みたいに広がってるんだなあとなる(これは三池に対する黒沢の勝利か?)。
他にもフリードキンやらサム・ライミやらいろいろあると、みんな言っている。タイトルは『愛殺』(パトリック・タム)みたいだ。
KAATにて『巨匠とマルガリータ』(地点)。
原作は名前を聞いたことあるくらいで挫折しそうなまま読んでない。
意外と地点では珍しく物語らしきものを追えた(ように錯覚するのか)。上演前に舞台上のスクリーンに作品の成り立ちが映されているが、おそらくそうした前口上とは関係なく、原作の切り取り方によるものか。ロシアとイェルサレム(タイムリーの一言で済ませていいか)を行き来するスケールの大きさを馬鹿馬鹿しいほどシンプルかつ多様に見せる手動のスクリーンの存在もあるが(なぜか内側でZOOMというか衛星中継みたいなやり取りになるローテクさ)、もう奇妙にも思わないほど的確に誇張された発声の組み合わせもあるか。昨日見た『災愛』の逆再生になったり影になったりするヒロインも一瞬よぎるが、これを舞台上でやってみせる地点はやはり面白い。ラストの火がさらによかった。