7月中旬に見た映画(山本晋也、チャン・リュルなど)

『きれっぱしの愛』(フリーヌル・パルマソン)。『ゴッドランド』の監督によるホームドラマ。リンクレイターと同じ劇場で見れるから『バーナデッド』みたいな映画かと勘違いした。初っ端からキートンのアレを思い出す。まさか文字通り漂流して終わるとは(誰だか途中までわからず)。前半のパンダの活躍は凄いが途中から出番激減。さみしい。

『大統領のケーキ』(ハサン・ハーディ)なぜか東京国際映画祭みたいな気分になる。良いというのはわかるがラストシーンに乗れない。というか皆が良いっていう映画にしばしばある乗れなさがある(ツボがわかりやすい?)。ところで既に宣伝から想像したものと違うと多くの人が言っていて、その上で評価されてるというのは間違いか正しいか。それにしても船の行き来はたしかにイラクから自分が想像していなかった光景ではある。

 

山本晋也『狂った女神』(66年)。

冒頭の殺人シーンからサウンドトラックが異様。翌朝、同室の死体に気づいた男が一人芝居というか独り言で延々振り返り出すのに併せて、その場にいない犯人(?)らしき笑い声も響き続ける。上下の視野を狭めたようなシネスコ画面で限られた室内で人物が同じ場所を回り続けるような錯覚、殺人事件にセックスシーンと全てを見せられない題材や語り、そこに誰かよくわからない笑い声と相まって、悪夢のように全体を見通せずもがき続けるよう。

奥さんの裸の背中を撮るシャワーシーンと、シャワーから出た奥さんが旦那を見ているだろう主観ショットと、やたら「見た目はいいが心が冷たい」と奥さんに嫌な態度の夫という組み合わせが、ありきたりだが見ている内に何が正しいんだか、何を見せられているんだか、わけがわからなくなってくる。何の驚きもない犯人たちを見せるまでにかかる時間も、勿体つけているだけのようで、延々全体を見せない悪夢みたいな印象に。それ以上に主人公が犯人を止めにきたはずの場面での、どこから聞こえてきたみたいな声の重ね方に、犯人がカーテンあけたら窓全開で主人公が庭に立っているという状況と、そこをロングショットという判断と、全てが異様すぎて笑いも起きない。

「三角関係」というセリフが出た後に「サンカクカンケイ」という声がなぜか繰り返し響き続けるのも変。

そして何より『狂った人妻』くらいがちょうどいいタイトルを『狂った女神』という題がふさわしいくらいに飛躍させる。

 

山本晋也『ドキュメントポルノ 続痴漢』。

これはこれでヌーヴェル・ヴァーグぽい(中島貞夫とか)即興ぽい台詞に性犯罪が続く。最初はひどく恐ろしい暴行から始まり「これからこの映画が語るのはもっと違う行為です」とカジュアルに切り替えようとする。とにかくくだらないがなかなか楽しめた。やる気ないわけではなく、やはり器用な映画作家だ。「覗きの大家」が互いに双眼鏡で覗き合う切り返しはバカバカしい。マルチーズを抱えてるせいか音楽もワンワン言い出すのが自由だ。エロ医者が覗き見た部屋で流れるアニメが貴重な『ドラえもん』という有名な不条理を確認。夜中に働く下着泥棒を見ながらジャン・ピエール・モッキーの映画を見逃したことを思い出すエロベール・ブレッソンとかしょうもないことを言いたくなる。なお「痴漢の一つや二つできなければ出世できません」という最低のナレーションもあるが「エロベーター」で騒ぎを起こしたおじさんが「総務の〇〇さんじゃない?」と周囲から冷たく囁かれている状況を見るに、ピンク映画を観る人は現実と違うと理解しているだろうが線引きはちゃんとしなくてはという大人な監督の態度を感じなくもない。

 

チャン・リュル『ルオムの黄昏』を見直す。初見時に眠気で集中できなかったが、今回は酷暑のせいか、さらに寝てしまった気がする。しかも見終えたタイミングでTwitterを見たら、井上正昭さんがラウル・ルイスの発言を引用していて、その内容が本作も指しているとしか思えなかった。

「私が「退屈」への控えめな擁護を提唱するのは、おそらく、私が興味を持っている映画が、ときにこの種の退屈感を呼び起こすことがあるからだろう。マイケル・スノウ、小津、あるいはタルコフスキーの映画を見たことのある人なら、私の言いたいことがわかるはずだ」(ラウル・ルイス)

寝たのは単にコンディションの問題かもしれないが。チャン・リュルの映画に夢は付き物だが、これまで以上に夢のように呆気ない結末へ向かう。『春樹』の解放らしき感動とは異なる、ただ見て聞くしかない、これこそ擁護すべき「退屈さ」か。チャン・リュルの中にある二つの魅力が別々に発揮されていて見事だと思う。

全編にわたって猫や蝉の声が合いの手のように響いて、作り込まれた映画の持つ格調高さがこちらも眠気と戦って見る必要を感じさせる。ヒロインの置かれた町並みと、同伴者たちと、「画面外」とは何を指すというくらいの音と、それらへのリアクションを見る。以前聞いたようなやりとりを繰り返したり、挙動不審な行き来が挟まれたりするほど、そこに彼女たちへの演出および霊の存在は意識させる。これが割れたグラスの音や、ヒロインの分身にまでなり、映画が破綻する手前で、映画自体に潜む魔の存在を明かすようだ。

それでいていまおかしんじのピンク映画や、あるいは武田一成のロマンポルノのような、ここにベッドシーンが必要か不要かわからないがあってもおかしくない気がする。汗だくになっての目覚めや、人工授精をめぐる話が、直接的な絡みはなくても連想させる。

 

『オブセッション 災愛』(カリー・バーカー)。

どうにも最近は映画を見ても「よくできてる」というか適度に解釈しながら見てしまって(最初にヒロインの代役として絶妙な顔の女性を選んできたんだなと思いながら見てしまう自分が嫌になる構成)、上映後に人の感想を読んで終わりになる。そのせいか映画を見る時間がますます薄くどうでもよく感じる。

それでも本作も真剣に考えるほど、時間停止モノAVを見終えた時の救いのない、うしろめたい気分になる。原因ははっきりしているが向き合い損ねた結果、事情を知らない人が見たら単純に狂った女の事件となるんだろうから、精液を口から吐くように死ぬ男はろくでもない。最後の血まみれ姿が魅力的なのが救いというのも、また文脈としてうまいような。

また奇遇にもTwitterを開いたら三池崇史が『オーディション』について語る記事が載っていて、そうした映画の抱える問題を指摘しているのだろうとも頭ではわかる。

黒沢清の影響を監督が語るインタビューは既に話題になっているから、レストランのくだりで『CURE』だなあとよぎるし、そうなるとこのグッズのせいで『Chime』みたいに広がってるんだなあとなる(これは三池に対する黒沢の勝利か?)。

他にもフリードキンやらサム・ライミやらいろいろあると、みんな言っている。タイトルは『愛殺』(パトリック・タム)みたいだ。

 

 

KAATにて『巨匠とマルガリータ』(地点)。

原作は名前を聞いたことあるくらいで挫折しそうなまま読んでない。

意外と地点では珍しく物語らしきものを追えた(ように錯覚するのか)。上演前に舞台上のスクリーンに作品の成り立ちが映されているが、おそらくそうした前口上とは関係なく、原作の切り取り方によるものか。ロシアとイェルサレム(タイムリーの一言で済ませていいか)を行き来するスケールの大きさを馬鹿馬鹿しいほどシンプルかつ多様に見せる手動のスクリーンの存在もあるが(なぜか内側でZOOMというか衛星中継みたいなやり取りになるローテクさ)、もう奇妙にも思わないほど的確に誇張された発声の組み合わせもあるか。昨日見た『災愛』の逆再生になったり影になったりするヒロインも一瞬よぎるが、これを舞台上でやってみせる地点はやはり面白い。ラストの火がさらによかった。

『デッドマンズ・ワイヤー』(ガス・ヴァン・サント)

ガス・ヴァン・サント『デッドマンズ・ワイヤー』。
期待していくと意外に呆気ないというか濃くは感じない。『パラノイド・パーク』を見た頃に受けた印象を思い出す。もちろん呆気ないだけでなく最初から死と隣り合わせなのも、言われてみればこの監督らしいのだが。
ビル・スカルスガルドは袖をまくっているが、映画は2月だ。彼と人質のデイカー・モンゴメリー、そして寒さを逃れてフロリダにいるアル・パチーノが、この映画の季節から意図的にズレている。
早稲田松竹で『マスターマインド』(ケリー・ライカート)と二本立てできないだろうか。そんな具合に最初から緊張感は維持してるのに、どこかしら不思議と抜けているのが良い。いや、これは「緊張感」という語が相応しいのかもよくわからない。
ビル・スカルスガルドとアル・パチーノの過去をフラッシュバックするのではなく、むしろ当時のテレビ中継に見せかけた映像を挟んでいく。これが映画を見ながら複数の視点が行き来するというより、既に終わった取り返しのつかないことなのか、まだどうなるかわからないことなのか、感覚が狂う。しかも最後に映る二人が全然似てないのに、やっていることは雪で滑るなど再現していると伝わる。「そっくり」ではない。しかし彼らはそれなりに今の人物として振る舞うというか。エンドクレジットに入る手前まで、この二人の関係が実在の事件に基づいているという前提はあっても、こちらの不勉強から事件の結末は知らないし、最後の字幕を見る限り微妙に映画は違う展開かもしれない。というか、ビル・スカルスガルドとトニー・キリシスから感じる「狂気」の違いは、ガス版『サイコ』とヒッチコックの明らかなズレに近いか?
ジョン・ウェイン登場をきっかけに『ビデオドローム』から『誘う女』のブラウン管越しの画が近づいていき一気に生々しくなる瞬間があってハッとする。その後の解放直後にダンスするような音と仕草の組み合わせの、当事者の心情と一致している(いわゆる「エモさ」?)というよりわざとズラす奇妙さが特に印象に残るが、映画全体にトニーとリチャードへの共感というものは間違いなくありそうなのに、周囲の人物の連帯には意外と重きを置いてなく見える。むしろリチャード・ホールがトニーに何を思うか、もしくはホールがどういう人物か、その多くこそ説明しないのがいい。
冒頭のガラス清掃から、窓の内側にいる人の思惑と異なり、外側からは特に見られていないというズレはどこか映画を象徴する演出と思うが、あの最後の同じ姿勢、同じ向きの二人の切り返し、立場の交換、ただ相手は鏡を見ていたに過ぎないような錯覚、それでいて実際の事件と一致しているかの曖昧さ。窓の向こうにいて自由に見えるトニーだが実は収容されているかもしれない。そんな『キャリー』とも『夜よこんにちは』ともつかない夢のような印象もある。

映画日記(7月上旬)

早稲田松竹にて『トゥー・スリープ・ウィズ・アンガー』(チャールズ・バーネット)と『ウォーターメロンマン』(メルヴィン・ヴァン・ピープルズ)。
チャールズ・バーネット長編3作目というのに驚く。最初から巧みで特に良し悪しつける気はないが、7年おきペースで映画を撮ることになっているが、そこがまた結果的に必要だったのではないか。初っ端からワンカットごとにガシッと掴まれるのが手作業の映画らしく、そこに奇しくも同年らしい『スポティニアス・コンバッション』とはまた別の幻のような炎が身体や家具を包んでいく。熱さの苦しみからあえて乖離した怒りに耐える反復。やはり日常のように犯罪映画的なことを淡々と繰り返す過去2作と同じく、呪いや祈りやしがらみのようなものが日常的な掟や縛りとして存在し、それが唐突に膨らみ上がり、また唐突に破綻する。トランペットの下手な響きが常に吹いてる彼の心情など関係なく存在する。それはノイズでありながら、鶏の首が切られるのを妨げるように、映画のための不協和音となる。そしてラストには吹いてる少年と、エンディングテーマを同機させて、暗転後の演奏をひたすらしみじみと聴かせる。泣ける話かわからないのに、これだけで泣かせる。彼が諦めたら上手になることなど一生ない。しかし下手にもなりうる可能性が許されるからこそ、本作のような淡々とした映画もありうる。
『ウォーターメロンマン』(メルヴィン・ヴァン・ピープルズ)二度目。改めて見直すとチャールズ・バーネットとはまた別にかなり良かった。コロンビアでかなり攻めてると言っていいのか気になる。インディペンデント的なものを、どんな規模であろうとブチ込む気概。これが白塗りの黒人という皮肉を作品規模に関わる力強さとして発揮させるというか。またはジェリー・ルイスのように顰蹙を買う精神。『悲しみは空の彼方に』と併せて見てもいいかもしれない。不協和音という意味では監督自身クレジットされている音楽はチャールズ・バーネットより凄いかもしれない。さらに不意にストップモーションになっての字幕の促す覚醒もガツンとくる。個人に起きた悪夢を引鉄にアメリカおよび人種差別自体の異常性を、つまり合理性のないリアリティをつきつけるのに、かなり強烈に成功している。嫌がらせをする連中の匿名性など古びてない。

 

エドワード・ヤン『海辺の一日』をようやく見る。
光と影の加減で人物の中で流れた月日も変えているのか。勿論髪型の変化も大事だろうけど、時制の行き来に複雑さとは異なる印象を受けるのも、この光と影の効果かもしれない。まるで違う映画のはずなのにビクトル・エリセの『瞳をとじて』に通じることをやっているのか。キャリア初期から単純に凝った見立てになどしない。それでいて複雑さにも挑むような構造で、夏目漱石の小説を読むように主人公も変化するが、それだけに収まらない入れ子構造にも驚く。異様に静かな喫茶店でのクロースアップにて表情の変化を切り取る内に、やがて夫の死を語る声はするのに、その重なった顔の口元は動いていない。これほど人物の「今」が揺らぐカットはない。幽霊映画となって語り出すような。直後の危険なドライブといい、睡眠薬の瓶の行方といい、夫よりも彼女の方が何度も、あの世への誘惑に囚われているのか。それでいて最後に語られる別の人物の死といい、彼女は生き延びる運命を繰り返しているような。喫茶店で彼女の細かい変化を追う映画として見ていると、後半になるほど彼女が動かなすぎて怖くなるカットもある。ある一日を追った映画かと思いきや(それは邦題にだまされただけかもしれないが)ベッドで眠る人物を見下ろすカットがいくつもあるくらい、何回も朝と夜を繰り返す。もしかすると同じ日が何回かあったかもしれない。時に二人。時に一人。時に片側の空いた一人。まだ若い彼女がベッドで半分ほど身を起こして横になっている構図は、時に起き上がって駆け出すカットもあり、決して明るくも広々ともしていないが何らかの可能性と不安を感じさせる。それでいて誰も年を本当はとれていない、映画としてのまやかしであり、なおかつ現実の写し鏡のような。この成長を伴わない変化の残酷さはエドワード・ヤンの映画を見る度に感じる。ラグビーで身体を鍛えようがデカい眼鏡をかけると少年のままに見える。終盤の兄の目覚めが『奇跡』の復活にも見えるが、これが水死したかわからない恋人の結末の曖昧さにも通じて、ドライヤーの『奇跡』でも直後に彼女は再び眠り死んでしまったのではと想像してしまう(それにしてもモノクロの美しさを強く想像させる映画だが、これを今から白黒にしてしまうなんて冒涜は許されないにしても妄想してしまう……いや、それは『恐怖分子』のポラロイド写真になるのか)。『ヤンヤン』終盤の葬式でも『奇跡』は明らかに引用されているが、祖母の目覚めとヤンヤンの潜水はセットだった。いつでも若返れる可能性、いつでも甦れる可能性、それは映画にしかできない。しかし映画には映画の「今」しかないだけか。
海辺のインタビューシーンはかなりおかしく、そこでの事件の再現は距離を置いた目で見るユーモアがある。それでいて音声のズレは男達と女達の距離に本作でもなる。女が男達のはしゃいだり、または男が浮気をしたり、両親と看護婦との間の愛人問題があったり、あるいは潜水して何か合図を送りあったり、そうしたやりとりに対して声は彼女に届かない。彼女は先に行かざるを得ない。しかし最後に「少女から大人になった」と言われる彼女はむしろ『指望』の自転車に乗れた少年を見るようでもあり、ピアニストになった女から見送られる側だ。またはかつての無言で見つめてくる母と兄嫁の存在も頭に残る。
その一方で序盤の兄の挫折を印象づける玄関から家屋への移動撮影も凄いというか、母娘の帰宅から、その先の床に散らばる破片まで見せるのだからギョッとした。
あとホウ・シャオシェンは役名さえわからないのに目立ちまくり。

 
いまおかしんじ監督『死神バーバー』。
もう随分いまおか監督の映画を積極的に見ることもなくなってしまった気がするが、久しぶりに見ると、やはり悪くなかった。
死ぬ運命だった人間が生き直すみたいな話は必ず白けるし、そもそも見に行く気を削ぐ要素がちらほらあるのだが、それでもいつの間にかじんわりしてしまった。いや、『れいこいるか』を見た時も同じような感想だった気がする。
たとえば『箱の中の羊』と比べたら寓話としての出来は『死神バーバー』の方が上手いと思う。成り行きで知り合った女の実家に恋人のフリをして行く羽目になる死神という設定が機能するのは、母親の美保純や、なかなか憎めない元カレや、やけにデカい飼い猫らとの距離感がちょうどいいからだろうか。というか母親が美保純というだけで何となく良い。そして宇野祥平の全力エールと、直後に退場させる呆気なさにグッときた。このように傑作というわけでもないのに嫌味なく泣かせる演出ができることに驚く。しかもそのような時ほど画面の中にいる人達は笑っているのだ。
しかしガツガツしてなさそうなのに撮りすぎじゃないかと失礼ながら思いつつ、映画の台詞通り「人生は面倒くさい」ということか。

 

ホセ・ルイス・ゲリン『よき谷の物語』。こちらは最近どうしてたんだろうというつまらない心配と無関係に大充実。
おそらくカメラ1台で撮ったシーンでも切り返したり、音を途切れさせずに繋げたり、議論を連ねていく作り、さらに「移民」により構成された町という舞台にワイズマンの参照はやはり感じる。しかしワイズマンならやらないことも自由になる。最もワイズマンからかけ離れた序盤を除き、頑ななまでの手持ち撮影の拒否、登場人物として認識できる被写体、インタビューから始まる彼らと作家との関係性の構築、「食材」や「商品」としてではない動物や植物(バーと思われる室内のガラス扉から見える鳩の行き来)。特に飲み屋の3人組が植物や動物から話しかけられたら…というあたりにケン・ローチの新作みたいな光景とゴダールの『さらば愛の言葉よ』をミックスしたように見える。
12カ国以上の移民たちの構成する町というだけでなく、一本の映画内に様々な作家のやり方が詰め込まれる。それを当てるのが正しい見方なわけはないが、とにかく引き出しの豊かさが映画の枠を狭めない。ドキュメンタリーに違いないのだが、明らかに撮り直したやり取りには『ベルタのモチーフ』の頃からある窓辺や椅子など腰掛けた人物のバストショットとして見事とか思う間もなく贅沢に挟まれる。またデイジーをめぐるやり取りでは、移動撮影により娘の芝居をとらえる。ジョン・フォードすぎる教会に集った人の中にはハーモニカを吹く男がいて、一人一人に台詞はなく、心情を読み取るものでもないが、ここにはバラバラな人々が同じ場所に集う時だけある彩りがあり、これがワンカットで通じるか、カットを積み重ねた先にあるかの曖昧さには物語を感じる。それでいて『イニスフリー』のようにゲリンの目的はどんどんあってなきに等しくなるようにも見えて、そこもいい(オーディションは機能したんだろうけれど)。
サトウキビを育て、草木を運ぶ人々などを追うレールによる移動撮影の多さも、文字通り「移動」を撮ることに必然性を感じる。時にカメラは移動しなくても、窓の映り込みまで遠くから眺めているのもいい。それを見つめる黒人女性のカットと、そこで引き出された顔つきといい、演出も上手すぎる。
ラストに代表される「再現」の力強さにルノワールとかオリヴェイラとか言えるだろうけど、今回は『太陽の墓場』の暴動がよぎった。直前の様々なグループがひとまとまりに収まった賑わいを警察の知らせが追いやるあたり、『マックス・モン・アムール』とも通じる。どれもこうして書いてしまうことにより回路を閉ざすのかもしれないが、映画は開かれている。

序盤に連なる複数の会社の名前が経済的な事情で(金がないという話もしていた)、最後は4名に献辞を捧げる。
(不勉強からメカス以外の3名はよくわかってないが、親切な知人から画像をいただいたのでメモ)
Marie-Pierre Duhamel
ルイス・オスピナ
ジョナス・メカス
Ahmad Nachte 

『黒牢城』(黒沢清)

35分ほどの映画四本分と思えば大作らしさをなくして見える。『Chime』『蛇の道』『Cloud』のような「反復」(海老根剛)程ではないけれど、たとえば一瞬だけの信長も香川照之なら『クリーピー』かもというくらいには黒沢清という作家の映画に見えて、一話ごとの短さもちょうどいい気がする。これも先の3作を経て辿り着いたバランス? 四季ごとの物語も的確なたとえかわからないが、たとえばロメールやホン・サンスではなく『子供の四季』『石中先生行状記』みたいな撮影所時代のオムニバス映画らしさがあるのは演出か、それとも作品の規模によるものか。漠然と教訓めいたオチを挟んでいるようにも感じながら(しかし本当に教えはあるのか)、4話終わる頃には後戻りができない時点にいる。その形式をあえて戦国時代を舞台にすることで「異化効果」として機能させるといえばブレヒトもしくはロッセリーニと言えるか? 勿論殺し合いなどありつつ「生きる」「死ぬな」ということが「日常」(?)となるあたり、いかにもコロナ、プーチン、ネタニヤフ、トランプ、石破→高市と続く「現実」の反映っぽい映画というあたりも、黒沢清に求められる作家性か。と言いつつ我々下々の民の「日常」らしきものがあるのは最初のカットだけ、あえて見せて終わりというのもいかにもというか。『ドレミファ娘』以降続いている黒沢清らしいラストも、今回はなかなかじんわりきた。出番の少ない柄本佑の険しい顔つきが三宅唱に見えた。

映画日記(6月下旬 羽田澄子特集など)

羽田澄子特集へ。

『早池峰の賦』、神楽のダンス映画か。踊り手達が「百姓」と自称しているが、または役場のおじさんにしか見えないあたり、なかなか珍しい気もする(アステアだってハンサムではないわけだが)。衣装も色彩豊かで、鶏冠に見える被り物を出してきたり、実際に切れるらしい刃を両手に舞ったり、獅子や狛犬らが共生しているように現れたりする。しかし「えんもたけなわ」と皆で手拍子する長回しに一番異様なものを見た。

南部葉たばこというのは初めて知ったが、大きな葉を収穫する際にヤニがついてしまうという。出荷まで慎重に保管して、冬に乾燥させた葉を運び出し鑑定される。しかしこの手間のかかる労働もやがて失われる。こうした村を回す仕事に触れながらの180分、休憩挟んだ90分二本立てといえるし(疲れから集中しきれてないところもあるが)飽きずに最後まで楽しむ。終盤には「山から見られている」とエコーが響いたりするのにも驚く。

 

濱口竜介『急に具合が悪くなる』。フランス側の介護施設にいる役者たちの芝居がヴィルジニー・エフィラ以外はわかりやすいリアクションに見えて、見ていて魅力を感じないのが苦痛になる。何人かの見分けをつけようとする展開があるのはわかるから余計に「説明」というより、書かれた以上のことが映らない。いや、一人一人がどうのよりも触れ合うことというわけで、あえてシャワーで膝下を濡らすカットなど限られた介護の切り取り方や、終盤の手や足の触れ合いになるだろうし、そこにブレッソンやゴダールの手のアップが参照されていると理屈ではわかるが(『不気味なものの肌にふれる』でやってはいるが)、本当に手や足の動きが記憶に残るわけでもない。ヒロインたちの声が印象に残るからといってカバーするわけでもない。評判通りヴィルジニー・エフィラと岡本多緒はいいし、黒崎煌代と長塚京三の組み合わせもいいと思う。ただ黒崎煌代の配役は「森崎さん」の『ニワトリはハダシだ』のようで、今は大丈夫かとか余計な心配はしたくなる。長塚京三の舞台に上がる時に『愛の亡霊』のおすぎや『乱』のピーターのような存在に近いかもしれないが、だとしたらキャスティングの時点からさらに違うことができた気がしなくもない(ただ黒崎煌代はいいと思う)。

しかし190分以上が資本主義に対する抗いだとしても、単純に見続けるほどの魅力は主要キャスト以外にない。何となくラストの舞台はベロッキオ『かもめ』がよぎるも、本気でそれをやろうとしたようには見えない。資本主義批判は向き合うべきだが、ベロッキオにおける教会権力のような「敵」は見せられない。あるいは鳥の糞といえば『バード★シット』の天罰のように死ぬ者もいない。あえてやらないのだろうが、そういう難しさに挑戦する映画が見たいのだが。最後は『フォレスト・ガンプ』の羽根1枚とかでいいような気もしてしまうが。

 

再び羽田澄子特集にて『痴呆性老人の世界』。本作冒頭の閉じた左手の指を自らの右手で一本一本広げようとするような、忘れがたい手のカットはゴダールやブレッソンを参照しても出てこない(とはいえ今はできないことをやらせないという介護の進歩と見るべきか)。また濱口竜介の映画にも『親密さ』『なみのおと』からか、人物がカメラ正面を見つめる瞬間は出てくるけれど、羽田澄子の映画にも印象的に挟まれる。この点でも羽田澄子の方が効果的というか、作品ごとに違いも感じる。『薄墨の桜』の、やはり鈴木清順かと疑う妖しいカットの連なり以上に「桜の木の下には死体が埋まっている」という話をする人物がこちら側へチラチラ目を向ける時の不気味さ。『住民が選択した町の福祉』でのキャップを被った老人が顔を覗かせて笑いかける子供のようなおかしさ。

鷹巣町シリーズ、『続 住民が選択した福祉 問題はこれからです』終盤に予期せず始まるスピーチには貰い泣きしてしまう。ものすごくアメリカ映画のような出来事が起きるような。

それから『あの鷹巣町のその後』『あの鷹巣町のその後 続』一作目(95年撮影)の段階で「自己責任」という言葉を議員の一人が用いていたけれど、あの頃はまだマシに見えた保守派の顔つきや喋りが悪役と化して、おそらく小泉政権による「構造改革」の後押しもあって北秋田市合併に動き出す。一作目・二作目と日本の歩むべき姿から、むしろ日本の縮図のように他人事ではなく、ストレス溜まり憂鬱になる180分だが向き合わなければいけない。介護用品の販売をしていた方が反岩川派に転じて、その合併推進派による集会での司会中の態度には幻滅する。腹の底に欲や悪意や怨念を抱えていそうな議員達の、町民、市民のことなど本当は顧みる気がない態度にうんざりする(「岩川氏は自分達の話を聞かない」と繰り返す割に新市長は選挙以外で商店街に挨拶すらしない)。

『続』になると、百条委員会など岩川氏を攻撃していた代表といえる議員の落選(後日インタビューをするのが凄い)と、商店街の人々に話を聞いて回る羽田澄子、そこで話す一人一人の姿にやや救われるも(「うんざりする」という声も聞けた)、この映画の後に岩川徹氏の不当逮捕を知り、今更だが憤りしかない。買物中のおばあさんがカメラを急に見たカットがおかしくも、選挙後の「見ている人はちゃんと見ているんだなと」という話が響く。あの「夢」と言われる日々に規模は異なっても『チリの戦い』のアジェンデ政権がよぎる。

『角屋七郎兵衛の物語 ベトナムの日本人町』朱印船貿易の営みから、鎖国政策により帰れなくなった人々。55分と短いが現在残る資料、絵画、家屋の構造(中身は中国の装いになっている)、墓碑などから辿る。秀吉から家光まで権力者たちをはっきり「独裁者」と呼ぶ羽田澄子の怒り。

 

今村紫紅展へ。

『竹取翁』にて光る竹を見せず、斧を置いて待機している緊張感。斧の刃の隅だけフレームアウトさせているのも、それを手に取るアクションを期待させる。

『もののけ』で一夜を共にした愛人を食い殺すという鬼の姿を見せず、靄と落葉により気配を出す。後に同じ伊勢物語の題材を書いた『芥川』では、塀を飛び越えてくる鬼と、見上げて刀を抜こうとしている男、そして女は彼の影に隠れて顔を見せない。「見せる」演出に変えたと言えるが、風の強さの変化からも伝わるように、これは『もののけ』から数分後くらいの続きを見るようでもある。『鞠聖図』の三匹目の猿をあえてフレーム外にしたりという遊びもある。

『文覚』の余白に見える滝が近寄るほど飛沫が書き込まれているわけでもないのに、轟音が聞こえるような気がする。

たびたび雲や水の流れや、くすんだ色の壁樹木の重なり、遠景の坂道など、奥行きや立体感を作り出す。鳥たちも『藤花小禽』では嬉しくて鳴いてるような表情が作られたりする。琳派の影響による屏風での金の使い方にしても、衣類や木々に陰影を与えて奥行きがあるような。

08年に法政の学祭で芦澤明子トークショーをやっていたはずだが、その時に「大琳派展」の話をされていたと思う。

映画日記(6月中旬)

下高井戸シネマにて『外と』と『眠る虫』。『外と』は新谷和輝さんの出演作で、なぜこれほど人から好かれているのだろうという謎は残る。「どこからどこまで映画といえるか」という映画をめぐる自由や限界に対する見る側・作る側にとってつきまとう問いが、フレーム外にある日々と切離されずありたいみたいな(?)漠然と感覚は伝わった気はするが、これは下手に代弁しても理解できてないと言われるだけか。

『眠る虫』は久々に見直すとバス・ドゥボスぽいか? 変な存在から話しかけられやすいのは若い女性というのは接客業やってるとさらに感じる。

この作家(ユニット)が撮影時に発生する権力関係からいかに縛られずに作れるかを志向しているはずで、演技経験のあまりない人達へ遊戯の延長のように身の回りのものを用いて演出し、それが童心を刺激しつつ、失われる時間を意識させる。やがて映画だけでなく視界から消えていくもの(映らないもの)として見せたり、あるいは既に消えたはずのものを映したりする。結果、画面の内外を曖昧に行き来するように見える。その曖昧さはルックや音の被せ方によって、どこか平板で、手作業らしきものが失われている気がする。むしろ「手作業」でもこれほど今はできると言いたいのかもしれないが(※6月22日修正)。

 

七里圭監督『清掃する女 亡霊』を見る。七里監督が何でそんなに母娘の話をやりたがるのか、映画だか映像だかよくわからないところへ行くのか(それは「生き残り」を賭けたものなのか)、自分はよく理解できていないまま。若い世代と言葉を交わす姿勢にはいつも驚く。

今回も上演の記録映画というか、羽田澄子特集の延長で見れると思いつつ、さとうじゅんこのシャウトが一番凄いような、スクリーンに映し出されたものを再度撮ることでゴダール以降の紅葉みたく朽ちていく平面としての映像と、拭いても拭いても綺麗になるかわからないトイレ=舞台=映画だかよくわからない空間と、ポスターからして唐十郎も蜷川幸雄も死んでしまったし、一度も間に合った気がしない「アングラ」演劇の世界や、トイレの匂いがする劇場の疑似体験かと思うと、さらにトイレもクソの匂いもないAIの次元へ吹っ飛ぶ。『春の劇』の「黙示録」的な飛躍同様のステップだろうし、『ツインピークス』のシーズン3でやったことはファンミーティングとAI時代の橋渡しみたいなものなのかなあともなる。まあ、そもそもあんなポリゴンみたいな映画は単体では成り立たないだろうという意味でリサンドロ・アロンソ同様に二本立てみたいな感じもする。

 

 

崟利子『ゆっくりあるく 川村浪子、84歳のダンス』。猛烈な眠気が襲う。さすがに海辺の長回しは蔡明亮を思い出してしまうが、そのような構造や規則性から漏れ出た妥協点のような歪さのような、やはり変な映画にかわりない。
ガマで踊らないのは小田香への批評になっているような(もちろん撮影条件的に厳しいだろうが)。
映像自体よりも不意に画面外から重なる言葉の方がストレートに響く。そのあたり只石博紀の画面に全部捉えきれず音が漏れ出てるような印象と通じて、こういう作品を見る時に映画と映像の境目みたいなのがある気はする。

 

リサンドロ・アロンソ『エウレカ』。

これでヴィゴ・モーテンセンとキアラ・マストロヤン二主演といったら詐欺かもしれない。

何となく感想を書くのは躊躇してしまう。たまたま見た回の映写環境が悪く、なぜか3分ほど長くなっていた。そのせいで序盤の撃ち合いのキレが物足りなかったのか。ヘンリー・キングの西部劇でも見るようで、簡潔な殺しと、さらなる暴力と官能を予感していると、舞台は田舎の警察二十四時に変わる。これがまた暴力の予感に満ちているようで、時間はゆったりと過ぎていく。さらに『君たちはどう生きるか』から出てきたような鳥に導かれて、やはり資本主義批判というか。『黒の牛』などよりは遥かに淡々と飛躍することに成功している映画に違いない。

『TOCHKA』(松村浩行)

松村浩行監督『TOCHKA』を久々に見直す。

今回ようやく終盤の展開を『ボーイ・ミーツ・ガール』と重ね合わせられることに気づく。少年少女でもない、年齢差もあり、愛とは言い難い男女の出会う映画だが、『ボーイ〜』の星空を描いた壁紙のように、『TOCHKA』の壁は風とも炎ともつかない音の響きをバックに、たとえば牧野貴による粒子状の映像を想起させる宇宙にも見えるが、同時に壁はあくまで壁であり、またドニ・ラヴァンだろうが藤田陽子だろうが、相手の元へ走ることがラスト・ミニッツ・レスキューにはならない。『TOCHKA』の男女の目線がなかなか結ばれず、切り返しもアフレコも、同じ場所と時間に2人がいないのではと疑わせる点からも、結局彼女と彼のすれ違いは一貫しているかもしれない。藤田陽子は既に同年代の恋人らしき男の死に間に合っていず、今夜もまた同じ別れを繰り返している。

冒頭から根室のトーチカを必要最低限の舞台として存在させ、単純に「行って帰るだけ」の藤田陽子の歩みをフィックスの限られたショットで捉え、そこに海へのパンも挟むあたり、短編時代のグリフィスを見たような気にもなる。また背後を飛び交う鳥たちのコントロールされてなさは映画初期からある豊かさの残滓に見える。海へパンしたショットにインするタイミング、または男女が会うトーチカのある海辺へ進むほど舞い降りてくるという目指す方向の近さ、さらに気がつくと意識に入り込んでくるような鳴き声、どれをとっても映画の中心ではないが野次馬のように存在を消せない。

『YESMAN NOMAN MORE YESMAN』のように藤田陽子の「足を使う」探索は反復として、シンプルな行き帰りになりそうで行動の順は見る側の記憶を曖昧にさせる。藤田陽子が子供時代の帰り道について「ありもしない記憶」を語る長いモノローグを聞きながら、そうした記憶は自分にもあった気がすると容易に重ね合わせたくなるが、これまた本当にはないのだろう。どれが決定的な場所か終盤まで宙吊りにしていたようにも見えるトーチカの群だが、茶色いトーチカへ素早く入り込む(最もベケットを見るような瞬間)、あるいは吸い込まれる菅田俊にハッとする。

トーチカに背を向ける菅田俊と、トーチカの側を見る藤田陽子だが、二人が正面へ顔を向ける時に、視線の先に相手ではなくトーチカか、もしくは映画を見る自分達の側があるという落ち着かなさも消えない。「なぜ男は(女は)根室のトーチカにいるのか」というサスペンスとしては結果的に先が読める(ゆえに救いがない)物語に過ぎないが、しかし謎としての緊張感を徹底して維持する(なおかつ映画が終わろうと続く)映画だが、藤田陽子が「お父さんが最近亡くなられたんですね」と見当違いの答えを出して「あなたは面白い人だ」と菅田俊から言われる手前で二人の位置関係を呆気なくロングで見せるのは、本作の数少ない(しかし根底にある)ユーモアかもしれない。

藤田陽子がトーチカについて(アメリカが攻めてこなかった以上)廃墟を建てたようなものというのは、『秋刀魚の味』の笠智衆が「でも負けてよかったじゃないか」という返事が来そうだ。しかしトーチカでの父の焼身自殺は少年期の菅田俊にとって「戦争ごっこ」の終わりであり、一方でラストに連なる写真は廃墟ではなく実用化されようとするトーチカにも見えて、今の上映を現在の日本の歩みと重ねようとできる不安もある。菅田俊の自死へ向かう長回しが、ゴダールの映画における自死をどうしてもよぎらせるが、また09年に見た頃は堀禎一『憐』(08年)の、焚火を前に一人が死に至る長回しを思い出した気がする。三者が話す内に至る他殺とも自殺ともいえる結果を経て修整された未来では、元号が昭和のまま続いている。この二作のスタンスに近さを感じたくなる。

久しぶりに見直して、犬に続いて少年が抜け出すのを、菅田俊が少年に戻ったようにも解釈したくなった。だから彼は車の運転をできたのだと(にしてもサイズ感がミニチュアが動いているかのように狂う)。本来は呪いのように連鎖するかもしれない忌まわしい見る・見られる関係が、ただ呆気なくバトンとして移行し、今は存在しない記憶のように忘れて、別の人生の可能性となる(あるいは終わらない「昭和」のように続くだけか)。ただその後の暗闇に浮かぶ煙草が、そうした解釈などかき消してしまうが。

いま映画を見て「活劇」という言葉を自分程度が使っていいと思えない。しかし『TOCHKA』には「活劇」という要素も感じる。というより、この廃墟は「活劇」のための舞台でもある。戦争に使われなかったからこそ舞台性を備えているかもしれない。既に菅田俊は初めて姿を見せたカットから(『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』について言われるように本当の初めてのカットは少し前に遡るのかもしれないが)、まるでスコープ越しの画面は照準の先にいる標的にも見える。ある知人から『殺しの烙印』No.2を焼き殺すくだりを思い出す映画という感想も聞いたが、たしかに終盤の移動撮影には、映らない何者かが銃眼に見られないように這う動きを追うようにも見える。

またコーヒーを入れようとする藤田陽子の舌が見える時の唐突な妖艶さ、そこに壁越しというより背後から聞こえる菅田俊の声、やはり舌を見せてはいけなかったかのように(または「妖艶」などと感じてはいけなかったと見る・見られる側を共に罰するように)恐怖する藤田陽子、手元に光るナイフ、挿まれる出入口のショットのアングル、たとえば時代劇における襖越しに忍び寄るサスペンスみたいというか、空間の特性を活かしたアクションであり、暗闇の中でジャンルも時空も飛び越え、また菅田俊の気配をフレーム外に広げていく。

さらに気絶した藤田陽子がフェードアウトした後に目を覚ました時、「灰に見えた」「だが砂だった」というモノローグにしてはただ見たままを語るような、しかし「美しい」声が響く。そこに砂を掴む手という、昨今の日本映画を見渡しても唯一に近いブレッソンに通じる声と言葉と画の関係を、彼女に「モデル」あるいは「職業俳優」の境界を行き来させながら、トーチカに射し込む謎の灯りから浮かび出させる。