9/25

遠山純生アメリカ映画史再構築』(読み終わってない)を書くきっかけがマイケル・リッチーと読んでから数本見たり見直したりしようとして、結局そんなに見てないままだが未見の『がんばれ!ベアーズ 大旋風』(ジョン・ベリー)。トニー・カーティス若山富三郎(トニーとトミー?)の会食でのトミーのハラキリと前転が意味不明とか、電車に乗り合わせた澤井信一郎登場の名場面とか、パチンコ屋の天津敏とか、いろいろあるが相当奇妙な映画。序盤からテレビを囲んで語っていたはずのベアーズの面々が、いきなり誰とも知らない部屋でついたままのテレビに映ってるというつなぎから驚かされる。そこで二日酔いのまま目覚めたトニー・カーティスの荒んだ様を撮る(この辺とカサヴェテスは結びついていくのか?)。少年たちに囲まれてボコボコにされる猪木とか、東映テイストもあるが野田幸男ともまた違う印象。異文化の衝突、乱闘(それがギリギリただの勘違いに留まらない歪さ)が繋がらないもの同士をつなげてしまう映画のマジックという感じ。若山富三郎がいきなり英語を話し出したり、最後に日本語のエンディングが流れるところに感動したりする。

9/18~24

ジョン・スチュワート『スイング・ステート』まあまあ? 「まあまあ」という言葉が相応しい調子で延々良いのかどうかはっきりしないまま続くモヤモヤした映画。クリス・クーパーが思ったよりは渋くもなく、スティーブ・カレルもこれでいいのかよくわからないまま、差別意識についても映画からどれほど察するべきか掴みどころも難しく、最後もどんでん返しの種明かしみたいなものだからオチをつけなきゃ映画にならんというヤツかもしれないけど、それも含めてどういう調子で付き合えばいいのか最後まで困る映画。それでも下手したら腹が立ちそうな終わりも受け入れられたから、これはこれで面白いか。『ザ・スーサイド・スクワッド』とはまた別の屈折した感じ。

ロッセリーニ『ローマで夜だった』(60年)日本版VHSは見れないまま結局ネットで見る。『夜よ、こんにちは』の「夜」はここから来たと聞いた覚えあるが、個人の精神と集団の相容れなさというか(発作に近い身振りをイタリア特有の感情の爆発?からずらしていくような)ロッセリー二→ベロッキオの流れは頭ではわかった気になっていたが、特に音響面(と不条理)においてベロッキオが参照していたのか。人物間の言語の違いも無字幕で鑑賞することで時々その隔たりの中に入り込めたような気にさせる。アフレコ主流のイタリア映画の中で挑戦的な試みのようで、隠れ家から聞こえる風の音、沸騰する音など、これを越えるには同時録音へ徹底的に向かうしかないかもしれない。一度見始めたら止まらないほど続くのに、いきなり格子の中から覗く顔のアップが入るカットバックなど、覗きが介在する時は繋がらなくてもいいと言わんばかりの危うさも面白い。

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9/11~17

数年前に友人から情報を得て早稲田の藤井仁子氏の講義に潜って上映を見たことあったと思い出し(あくまで珍しい作品の話ではなく、本来日本語字幕付きDVDがレンタルできるくらいはアクセスしやすい映画でないとおかしいという基準からセレクトした作品を上映する授業)、ロッセリーニ『自由は何処に』Dov'è la libertà? (54)。藤井氏の「トトの演技が好きになれない」という一言のおかげで上映後は盛り上がりもしなかった記憶はあるが、見直したら当然ロッセリーニの他の映画と比べて何ら遜色ない。そりゃトトはアンナ・マニャーニと比べたりしたら「うーん……」かもしれないが、改めて見ると西村晃にやや似ている(シネマヴェーラの『怪談せむし男』上映後に抜粋の流れたイタリア語版VHSのクレジットには西村晃はじめ日本人俳優全員に出鱈目なイタリア人名をつけられていたのも思い出す)。
法廷を舞台にトトの言動に対して画面外の傍聴席からの嘲笑が被さる冒頭からして、テレビ番組を先駆けていたのか(いつからそういうことをしていたのかは知らないが)。「リュミエール」に翻訳されたホークスのインタビューを読み直したら「俳優たちは自分たちが面白いことをやっているのだと思い込むように」なった原因の一つとして、テレビの録音された笑い声を重ねたものばかり見ているからと話しているが、ロッセリーニは嫌がらせのようにやってるのか(字幕がないからわからないだけかもしれないが、別に芸をやっているわけでもない)? どちらにしても奇妙。そしてロッセリーニの映画の人物らしく主役はさまよう(やはり喜劇映画には思えない)。『ロベレ将軍』を予告しているような印象もあるが、終盤の刑務所へ逆戻りする一幕など珍しく(たぶん)犯罪映画らしくて面白い。

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堀江貴大『先生、私の隣に座っていただけませんか』見る。教習所の先生と黒木華が帰ってくるまでは、映画そのものが教習みたいな誰もが『めまい』を参照したとわかる作りの(ややデプレシャン寄りの?)安全運転映画。「私」の「隣」の「先生」が複数の意味を指す点にしても、最後に異なるタッチの画に上書きされる点も。かなり終盤近くまで東京芸大の卒制みたいな印象を拭えないままだったが、五人揃って(ドワイヨン寄りの)ラブバトル始まりそうで始まらない辺りで客席から笑い声が結構あがっていただけで、まあ、よかったんじゃないかと思う。ただこれはさすがに90分を120分に引き伸ばされた感じが結構きつい。

 

にいやなおゆきさんの新作『うなぎのジョニー』が「おまめ映画祭」の一本として配信されているということで、ひとまずにいやさんのを見る(13:16~19:11)。つづきは明日以降見ることに。『人喰山』『乙姫二万年』に続く紙芝居アニメの新作がいきなり見れてよかった。わずか5分だが今回も主人公の語りに乗せて画が一枚ごとに時間を飛躍させる。またしても火の手が上がるのだが、にいやさんの描く暗闇に流れる白い炎は「淡い」という字のように、水の質感がする。

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『モンタナの目撃者』あまり楽しめないまま見終わったが、後でTwitter見ると軒並み好評で、答え合わせでもないのにションボリする。殺し屋映画だともわかるし、なぜだか活躍する妊婦に驚くし、そういえばこれは確かに良い映画としか思えないのだが、なぜ僕だけボンヤリ楽しめないまま終わるのか。全然別物の殺し屋映画『ベイビーわるきゅーれ』も乗れないまま終わったが、やはり一部では好評だった。まあ、どうせ自分は映画を楽しめない不勉強小僧(ザイドルでも見てろって言われるのか)。ただ仕事がきついときは隅々まで意味ありげなもの(シャマランとか濱口竜介とか『フリーガイ』とか)以外は耐えられないのかもしれない。それは非常に虚しく寂しい日々。まあ、記号とかクソ食らえな映画のはずだから、いつかまた見直す、『モンタナ』。

 

『早春物語』改めて見ると「大家さん」とか雨の運転とか、次の『めぞん一刻』に続くのかもしれない。以前は多少原田知世を見ようとしていた気もするが、別に大して働いてもいないのに、境遇も重ならないのに、林隆三の声に聞き惚れてしまった。なぜに3階建てのボロアパートで屑鉄の行商をしているという話に心動かされるのか。戸浦六宏のカラオケも聞ける。原田知世はたしかに「よくそんな声出せるな」と言われるだけあってうるさいが、やはりカラオケの場面はなぜだか泣かせる。小林稔侍にアテネフランセの話を聞いてからニコライ堂付近を歩く原田知世が非常に綺麗に見えた。またしても死と稼業が絡む命懸けの恋愛。父と継母と三人揃う場面が最後になく、林隆三との別れに姿を見せるから、彼女は娘ではなく母の身代わりを完全に引受けて「過去」のある女になった。

 

伊勢真一『いまはむかし 父・ジャワ・幻のフィルム』ひょっとして、やや出たがりの作家なのか?と思っているが、今回は娘のナレーションによって自らはほぼ被写体として父・伊勢長之助の戦時中インドネシアでの活動を辿る。伊勢長之助はじめ映画人に悪い記憶を持ってなくても、占領下を知る人にとって大半は「思い出したくない」。それはオランダのフィルムアーカイブの職員の祖父も生前インドネシアでのことは語ろうとしなかった。父の関わった出来の良いフィルムの美しさ(『マラリア撲滅』の楽しさ)が多くの声を殺してきたとも作家は語る(瀬川順一らを通して聞いてきたのだろう「独り立ち」の過程で戦死したカメラマンたちの存在)。敗戦間際の作品に音が重なりきってない事実に現実が記録されている。墓参りにて、どちらかといえば生前の父の身勝手さを憎んでいたとも語る(それもまた思い出したくはないのか)。フィルム自体は幻ではなく、ただ思い出したくない過去たちが隣にいる事実。

 

『シャン・チー テン・リングスの伝説』見る。ツカミのトニー・レオン(この最初のカットが一番いい気もする)からオークワフィナとかマカオとか経て、奥地に行くほど途中から飽きたが、最後にツイ・ハーククトゥルフ神話っぽさ(よくわかってないです)にドラゴンボールを混ぜ合わせたような無難な感じ(CGの竜が飛んでくる)を見ているうちに終わった。冷静に考えるとマカオで最後までドタバタやってくれれば満足じゃないかとも思うが。トニー・レオン見ながらカーウァイの『グランドマスター』って何だかんだ非常に美しい映画だったんだなあと今更思うが、別にこれはこれで悪くない。だがなんで妖怪だらけの話になるのか? オークワフィナが出てくる映画を見るのは三本目だが、実際魅力的な人なんだろうが、置いてきぼりもくらわず最後まで特技を活かして活躍し続けるのは(というかほぼ主役)一体何者なのか困ったが、まあ、それがこの映画の面白さなんだろうか。アル・パチーノに見えなくもない(見えない)ベン・キングスレーもいいんだけど何?『アイアンマン』見ればわかるの?

9/7~10 澤井信一郎監督作を自宅で見直す

自宅にて『Wの悲劇』再見。『野菊の墓』に続いて屋敷の出来事になるかもしれなかったのが、劇中劇になる。母に命じられたからか、娘が自分から進んで選んだ行動なのか、それとも女中でもあの場にいれば「誰でもよかった」ことなのか、役者になること即ち「身代わり」という認識から生まれるグレーゾーン。『野菊の墓』とともに組織の維持(芝居の、キャリアの継続)をめぐって、若者たち(薬師丸ひろ子高木美保世良公則)がズタボロになる。死体が衣服を身に着けて薬師丸の部屋へ既に移動している(『生きるべきか死ぬべきか』を澤井信一郎が語るインタビューは読み直した)。誰が高木美保に裏取引を伝えたのか(三田村邦彦なのか? だがおそらく一人の密告で済む話ではない)。グレーゾーンの発生と、映画のテンポ。記者会見のシーン。今更恥ずかしげもなく書くが、なんで見ているこちらまでどうしても泣いてしまうのか(死んだ犬か何かを思い出して泣けるものではない)。ただしっかり用意された本物の記者たちとの孤独な対峙の先に、身代わりであることも関係なく、孤独に引き受けた一人舞台が上演されている。前後を切り離して全然別の物語として成立する可能性のある時間。しかしそれを平気で切り離して成立すると考えて許されるのか。やはりここから積み上げた何かが一気に映画を動かしていくのだから、それは許されない考えだとはわかってる。世良公則が最後の方だけ見た舞台では、薬師丸ひろ子は舞台の始まりを種明かしとして再び演じる。世良公則が二度目の薬師丸ひろ子に、まるで初めから間に合っていたかのように追いつく。常にどちらかが何かに間に合っているかのように遅れている、これこそフィクションと舞台の、カメラの関係に近い。

 

続けて『早春物語』見るはずが、自宅のDVD見つけられず『めぞん一刻』見直す。
田中陽造の最高作かはわからないが、田中陽造脚本の映画化として最高の一本だと思う(よくこんな変な映画を作れたとも思うが)。澤井信一郎監督の映画でも一番好きかもしれない。田中陽造の世界とは何か?という一つの回答を見ているような、そのエッセンスが『Wの悲劇』にて試みられたように芝居として上演されているというか。そのシナリオの分析結果のような印象も澤井信一郎の作家性かもしれない。同時に「本気」とか「死ぬ」とか口にされるとき、マキノと田中陽造(具流八郎)というありえなかった組み合わせが果たされた気もする。石黒賢の「これで三度目ですからね!」に感動する。
野菊の墓』の民子の死、おそらく『早春物語』から浮上した再婚と死者の忘却(やはり小津なのか)という主題も引き継がれて、生死の境を行き来する。身代わりや男女の交換、犬と人間の立場の転倒も、田中陽造の人形という題材にマッチしているんだろうか。ヒロインに相応しい石原真理子にも感動するが、萬田久子も最も美しく妖艶に見える。

 

順番に見直そうという計画もグダグダに『日本一短い「母」への手紙』。天竜川での鮎釣りが出てきて、ここでは犬ではなく母猫との切り返しがある。年の差男女の恋愛にいくかいかないかのむずかゆいやり取りが、再会した母子になったとすれば、これは近親相姦へ踏み越えそうな不安と隣合わせの、血の繋がりさえ演技にすぎない危うさ手前であり、その危うさを長女の裕木奈江は許そうとしないのか。それ以上に十朱幸代は松田聖子らヒロインたちのその後であり(彼女が夫の小林稔侍を捨てて嫁いだ家の「御母様」が加藤治子というのも重なる)、そのかつての映画では死んだはずの子供たちとの物語かもしれない。男と別れた彼女たちは化粧と光によって変化していったが、ここでは化粧を落とし、光に当てられた年相応の姿こそむしろ美しく、病を抱えた身体で立ち上がって息子とその恋人のためにヤクザに啖呵を切る、やつれた姿が最も母らしい(姐さんというに近い)佇まいになる。しかし一方で誰もいない息子の部屋で鏡の前に座る姿の不思議な少女らしい愛しさ(その家に大人しく収まらない母らしからぬ姿が裕木奈江には許せないのか)。十朱幸代と裕木奈江の涙なしに見れない抱擁に『Wの悲劇』の記者会見がよぎるように、ついに危うさと共に「忘れたことなんかなかった」と口にして母の役を掴んだ彼女は(会話が続くほどに泣けて仕方ない、映っていないものが膨らんでいく)、同時に死の気配を濃厚に宿して、そして全員が健やかに集う場所に自らは不在でなければいけないと知っているかのように、やはり旅立っていく。ここでは十朱幸代の身代わりに原田龍二は横たわり快復したのか。それにしても電話をしている裕木奈江が、どうでもいい会話であっても魅力的なのは、それが家にいながら、この場に収まっていないかのような落ち着きのない姿だからか。

 

『時雨の記』。昭和天皇の容態を伝えるテレビに対して、狭心症を患う渡哲也は、家族を捨て、吉永小百合との終の棲家を西行にならって吉野に求める。ついに両者があられもない姿になる寸前で時間は飛び、次のカットでは救急車の移動を映す。たぶん珍しいくらい呆気ない。『Wの悲劇』の記者会見で聞いたような質問を、渡哲也の妻(佐藤友美)が吉永小百合に向ける。やはり腹上死を連想させるから?  その妻と別の側から吉永小百合もタブーに抗うように、回想とも幻想ともつかない、渡哲也の自死に近い別れが再現される。語り手になる林隆三の声が死の気配と、恋人たちの真実には触れられないという靄を漂わせているが、この距離感を思い出させる映画は?(感度が鈍く、素養もないから思い出せない)。予想できる猥雑さ、みっともなさを清く排した結果、それをいくらでも想像できる映画になっているかもしれない。しかし何をしても日本酒のCMに出てるように見える渡哲也。仮面でもつけたような変顔は微妙に怖いが。

9/6

澤井信一郎監督の訃報。自宅が散らかったままだから『映画の呼吸』も山田宏一インタビュー集も、蓮實重彦の『シネマの扇動装置』も部屋から見つからず。
勢いで『野菊の墓』。早いリズムの映画といっていいのか。矢切の渡しですれ違う民子と政夫の名高い冒頭に続いて、政夫は走っている。食事中から「何をそんなに慌ててるんですか」と言われてる。それでもトリュフォーのようにせっつく感じではない。誰も止まらない。大抵の場合、常に何かをしながら話している。それは経験の浅い役者が主演の場合の常套手段、演出上の技術なんだと思っても、誰もが自分からやっているわけではないだろうし、誰もが完全に言われた通りやってるわけでもなく。ただ講演やトークで見せる「教育的な厳しさ」といえばいいのか、そんな印象と重なる。それでも、こんな常に2つの動きが同時発生しようとしている豊かさは習得できるものなのか。
皇室をめぐる云々や、自民党がコロナ対策以上に熱をあげる権力闘争のことなどよぎってしまう。(小室圭氏の人柄の話は関係なく)この川辺の屋敷にて若い男女の物語を中心に、離脱する樹木希林さえ、周囲の誰も一貫して優しく見守るわけもなく、それが悲劇に辿り着けば皆が泣いて帰りを待っている結末も、そうやって家は存在してきたんだろうとなる。それは原作や木下恵介の映画にあったエッセンスかもしれないが。その面々の魅力が引き出されている。政夫と民子に対して何を考えてるのか下手したらちぐはぐになりかねない態度でもって支配する加藤治子はもちろん、せんだみつおっぽい湯原昌幸、女性中心に回して見える一家の中で男性らしく収まる(おそらく「卑劣さ」とも指されるに違いない)村井国夫、口うるさいが存在を前に出しすぎない赤座美代子、何もしてやれないに等しい愛川欽也・白川和子夫妻、麻生太郎を彷彿とさせる丹波哲郎、自分の与えられた役を誰よりもわかっているに違いない北城真記子。憎まれそうな時ほど、あえてワンカットだけ寄りさえするリアクションの演出が一人として退屈な役にしていない。役者への演出だけでなく、その容赦ない映画の早さが、全員を罪深い存在へ追いやっていく(はたして民子を死なせたのは軍人の宿した子ではなく、政夫の子という可能性はあるのか、しかしおそらく軍人たちは認知しない)。誰も討ち入りに行けない任侠映画の世界に違いないが、その悲しみも苦しみも罪滅ぼしもできない構造が際立って、役者の演出「それだけ」では辿り着けない領域に今もいる。
雑巾がけのくだり(マキノ由来の芝居の松田聖子が、鈴木清順の映画に近い時代・空間での行ったり来たりを経て、障子をあけると鈴木則文が繰り出しそうな不意打ちを食らう)、時間を停止させるようなりんどうの花、今日も誰かの死を悼むような夕焼け。わずかしか出てこない学校生活など(始まりの矢切の渡しからも、たとえば『丘陵地帯』の2~3ショットしかない風景・作業のように、おそらく限られたショット数の豊かさ)。それらに支えられてなのか、最も困難かもしれない男女だけの時間が、それでも何より美しかったように思えるのが凄い。一場面ごとに丁寧に分析するのにふさわしい映画と同時に、そうやって止めてしまいたくない(それも優れた映画ほぼ全てに通じる印象に過ぎないかもしれないが)。

9/5

エリザ・ヒットマン『愛のように感じた』。『17歳〜』にもあった移動する車内の反射と映り込みが、ビー・ガンかゲリンがやったように激しいとか、言えるかもしれないが、それとは別に美しくなく、ただ攻撃的。ラング『リリオム』や『暗黒街の弾痕』に見た男の道連れになることを自ら選ぶ女の物語もよぎるが、それを選ぶのはあまりに酷な年頃。そのズレが成長談や悲劇や目覚めとは異なって、ただただ傷であり消失である。白塗りの顔と仮面の舞台に挟まれて、彼女の話は教訓でさえなく、そこに「感じる」ことから距離が引かれている。『17歳』のヤジが飛んでくる冒頭から期待した学園コメディの予感が容赦なく破壊されるように、エリザ・ヒットマンは「異化効果」の作家なのか?(『プロミシングヤングウーマン』はより露骨だが)。
最後の失われた表情をもってブレッソン(確かに佐々木敦氏がその名前を出したのに僕も引きずられている)やユスターシュやドワイヨン、曽根中生(非行少女は取り返しのつかないことになる)といった名前を連ねて済ませていいのか。先達の語る困難な方法(「ファーストカットなど犬に食わせろ」)を語る演出家にエリザ・ヒットマンは、たぶん見えない(それさえも男性的な振る舞いなのか?)。ブレッソンのインタビュー本に繰り返される「大いに即興をやるつもりだ」というフレーズも思い出すが、エリザ・ヒットマンが「即興」の演出家なのかは知らない。

9/3

入江悠『シュシュシュの娘』見る。ミニシアターへ捧げるというか、長回しのない『勝手にしやがれ 英雄計画』? 違うか。なぜか、かつての挑戦的なテレビドラマを映画館で見ているような気になった。決して、これは映画じゃないとか、ミニシアターの役回りはテレビに流れない番組をかける場所なのかとか(まあ、頭をよぎりつづけてるが)、そこまでいうつもりはないが。移民排斥法案、公文書偽造、赤木さんの自殺、ちくわ(忍たま乱太郎?)。わかりやすすぎる。関東大震災に乗じた朝鮮人虐殺を語る老けメイクの父の死から曼珠沙華まで繋げるところなど、暗さと音への試みが面白かったり、いわゆる「ショットの映画」なんだろうけど、しかし入江悠の映画はやはりちっとも心に響かない。なぜか? 脚本? ドラマの薄さ? いくらでも志高く撮れそうな映画なのに、小器用な印象に終始する。近頃の話題を継ぎ接ぎしただけなんじゃないかと疑う。居酒屋で最後に殺されるのがお局というのも順序として微妙。これなら『東京クルド』や『東京自転車節』を見るべきか(見てないが)。『ザ・スーサイド・スクワッド』や『オールド』のような映画があることと比べて、我が国は惨めだ。

横浜聡子『いとみち』見る。『シュシュシュの娘』とも重なるところはあって興味深いというか(「シュ」と連呼するとか)。しかし今年入ってから日本映画の新作に関して特に引っかかるものはなかった気がするが(『ドライブ・マイ・カー』とか、見逃した瀬々敬久監督のとかあるが)これは何だか非常に良くて、なぜか宇田川町のユーロに帰ってきたような気分になった。津軽弁が無字幕の映画を見ているようだ、という評判は聞いてきた。そこまで難解ではなく、むしろこれはアテネフランセ堀禎一と現代映画の特集にて見てきたコミュニティに近く(冒頭の授業にて駒井蓮の発声はクラシックのようだと、ただしバッハでなくモーツァルトだと言われる)、一方「見様見真似」「複製が世界を救う」と人物たちが(主題の説明として、ややしつこいくらい)語り、授業や見学を通して歴史が、娘の死が、空襲の記憶が語られるように、「話を聞く」「語り継ぐ」ことでもある。もはや実体験の歴史を持つ自覚のない現在でも、見様見真似でもいいから引き継ぐ。異なる二人が並んでワンカットに収まるように、イロモノみたいなメイドカフェも「絆」という言葉に反して、むしろぎこちなく存在する感じが面白く(自宅にてメイドの仕草をやってみせる箇所がいい)、そのままなくてはならない場所として収まっていくのが愛おしい。それにしても黒川芽以に髪をとかしてもらう駒井蓮の泣き顔。母と重なる役割だとわかってはいても、この顔を引き出す、カットを割らないのは素晴らしい。
縁のある木村文洋監督『へばの』(長谷川等さんが良いのだが、西山真来さんも大事な役で出てきてもよかったのに)だけでなく、あの玄関先の賑やかさには『六ケ所人間記』のことがよぎりもした。

『シュシュシュの娘』と『いとみち』どちらもに出てくる「シュ」の連呼は、『いとみち』においては「御主人様」の「主」であり、遠藤ミチロウが「イスト」と詞にした「主義者」の「主」を指す。二作とも「差別主義」という言葉は出てくるが『シュシュシュ』が人種差別なら『いとみち』は職業差別を指す。この発声しづらい「シュ」の含まれる主義者も御主人様も、自らを名乗る言葉ではない。相手を指す言葉になる。かつて鈴木則文中島貞夫による『どえらい奴』に、霊柩車の宣伝を罰当たりとした人々から「シュギシャに違いねえ!」と罵られるが、この「主義者」とはアカのことだろう。だから何だと、相変わらず結論は保留のまま書いてしまったが、それは「主体性」をめぐる話に変わるのか。