『網目をとおる すんでいる』(清原惟)『手の中の声』(青石太郎)

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グループ上映会「発光ヵ所」の短編プログラムを見に行く。
清原惟『網目をとおる すんでいる』(2018年)は5年ぶりくらいに見直したが、ほとんどどんな話をしていたか忘れていた。「住んでいる」と「澄んでいる」どちらともとれるタイトルと、川沿いに立つ謎の網目の白いテントと、網戸に囲われた家屋の一室と舞台も二つあり、主に家屋で交わされただろう女性二人の音声が、白いテントで横たわる二人に重なり『わたしたちの家』『すべての夜を思い出す』と通じていく。白いテントは清原惟監督作のシェルター的な空間であって、同時に「ここに住んでいる人はどんな人だろう」と話すと「女の人が住むには危うい」場所だと言いながら、ふと「女性の格好をした男の人」の話へシフトする。こうした話の流れはまるで覚えていなかったせいか、5年前の作品にて、こうした話をする意識の鋭さに対して、言葉と声が像として結びつくのは誰にも許されているわけではないという繊細さがあり、そうしたおぼろげになっていく印象は瀬尾夏美×小森はるかの試みと今の方が関連して見える。
その流れで、やや頭が集中して見始められなかった青石太郎『手の中の声』(2022年)。キノコヤにて見た『時空は愛の跡』(2018年)は158分だが205分版もあるらしく、このような全編を集中して見きれるわけがない、一度では耐えられない長さの作品に対して、20分程度の本作は逆に一度では人間関係が頭に入らない。長かろうが短かろうが、どちらにしろその長さを目的としているのが(果たして本当に相応しい長さに収まっているのかはともかく)明らかである点は興味深い。
手紙を書く女のショットが端正な構図として収まっているのだが、そこで投函する相手とは別の人間だろう男が画面外にいる。同じ空間にいる男女は会話を始めるが、女のショットから男に対し切り返すことなく、カメラはパンして、台所でスイカを切り分ける男を映しては元の場所へ戻る。一方で男が切り分けたスイカを手に食卓前に座り込むと、カットは切り替わるのだが、その繋ぎはカメラ2台で撮られたというだけあって滑らかすぎるほどであり、音声の流れも途切れさせない。しかし男の動きは、手紙を書き続ける女と違って落ち着きがなく、男はすぐに立ち上がって再び彼女の側へ向かう。すると食卓前の男を中心にしていたショットは空間のみになり、彼女の収まっていたショットは彼の後ろ姿が重なって、パン以上に画面の均衡を崩す。それから一度見た限りでは記憶できず曖昧なのだが、ともかく二箇所に置いたカメラ位置を映画はあっさり捨て去り、向かい合って座る男女の(この世代の作家としては、おそらくさらに端正に見えるカメラ位置に置き直しての)カットバックへ移行させる。ヒロインを収める画面が彼女の「(彼は)虫も殺さないからね」と話す声と顔を、それまでの文脈の流れから置いてかれた観客にも耳に入らせる、つまり観客のぼんやりとした頭を向き直させる。やがて彼がカメラを手にして、前にいる彼女を撮るかと思いきや、彼女を撮る側のカメラ位置へ招く仕草と声を発する時に(この状況は『時空を愛の跡』と同じく作家の一貫した興味だろう)、画面に彼が映らないまま彼女を呼ぶ声の色気を印象付ける。
何も手にしていないはずの女が、存在しない本を手にとって男に見せた時に、その相手が本を見たかのようにリアクションする、その様子を切り返しではなくワンカットに収めると、ある芝居の稽古か、何らかの過去の再演に見えなくもない。一方で本を見せられることになる男の登場する瞬間自体は、彼女の側からの切り返しであることで、不意に彼女の視界に現れた幻覚か霊か、過去と現在の混濁か、そうしたものに見えなくもないから、本があるかないかよりも、彼が現にいるかいないかの方へ観客の関心は向かう。彼女は二人の男を相手にし、男も「〇〇さんが無理ならあなたと祭りに行きたい」など失礼なことも言う。彼女が手紙を出した相手は誰か、祭りに行くのはどちらか、その解釈は単純に見直せばわかるのだろうか。ともかくここでも彼の過去作にちなんで言うなら「交換≒交歓」への関心は継続しつつ、二時間三十分以上かけて目指す作品での円環よりも、判別つかなさ、解釈の宙づりに向かう。
冒頭を振り返ると、木に帽子が引っ掛かっていて、それを男に肩車した女がとって、男は帽子の裏の匂いをかいで「俺のだ」といってみせるが、実際「俺のだ」と言ってみせるのはエロティックな感覚への興味がある。映画のラストは、あえて木の風に靡く影を実像と切り返すように見せ、セットとロケーションを結びつける。その木の脇を歩くヒロインのロングになっていく一人の後ろ姿を見せる。そこに序盤に彼女を肩車した男も、スイカを食べた男もいない。彼女の歩く道沿いに木は生えていても、木の合間から部屋の男女を覗いていた動物も現実にいるかいないかわからない。

『すべての夜を思いだす』(清原惟)

予想していたよりもどう反応すればいいのか難しく、掴みどころがなく、壁のようなものを感じる。この捉えどころのなさを必要としている人々がいるのだろうと自分で言ってしまうと、本当にただ「興味が持てない」という酷な感想になってしまう。
すれ違う人たちがハローワークの受付、バスの運転手はじめ決して感じ良くもなく、違うルールやシステムの中で生きている異星人同士のような話が通じ合わない壁をヒロイン共々感じさせる。それが『ライク・サムワン・イン・ラブ』の奥野匡が出ていることでキアロスタミの映画と結び付けられるほど、日本の社会構造に触れていると断言できるほど力強くはない。(そこに居場所を求める人がいる空間であっても)話の合わない相手と会うというのは『わたしたちの家』の喫茶店の面接で会ったマスターらしき男性の感じの悪さにも通じていて、その状況は映画の外、たとえば映画館であったり上映スペースであったり、映画製作の段階でもありえることなのだろう。当然漠然と同じ時間を共有できているような間柄というものはあって、世代の近い女友達同士(ダイちゃんなる死んだ友人が間にいるが詳細は謎めいている)、または冒頭のバンド(誰?)やダンスグループ、ロングショットで並んでいく車の列を見ては、ここには映り込んだ人たちなりの時間が流れているのだが、そのやり方は少し単純すぎる気がする。今回は『わたしたちの家』とは異なりパラレルワールド(?)ではなく一つの町をあくまで舞台に三者行き交うが、バラバラな世界が点在している映画と解釈していくと、終盤のハッピーバースデー(予想した通り知人の名前を見つけた)に線香花火のバトンに至り、相互の時間は最終的には微妙にずれて、その視点が誰のものかをずらしながら共有させる。どの話したり踊ったりしている時よりも写真に映った顔が、異なる者の視点として可愛らしく見える。

サッシャ・ギトリ『ある正直者の人生』

サッシャ・ギトリ『ある正直者の人生』。ギトリの出番は前口上とモノローグ、ギトリ夫人のラナ・マルコーニは1シーンだけ。主演のミシェル・シモンはギトリからこのように頼まれる。「節約のために一人二役を引き受けてくれないか」ミシェル・シモンは二つ返事で引き受ける。ギトリの頼みは誰も断らない(ラナ・マルコーニも街娼の役を頼まれ、快く承諾する)。
ギトリの映画には確かに節約精神があるだろうが、それでもここまで豊かな映画はギトリ以外なかなかない。ギトリにおける一人二役は父子であったりコスチュームプレイであったり世代を跨ぐ印象を受けるが、本作のミシェル・シモン一人二役で演じる兄弟の会話は、入口と出口の切り返しこそ危なっかしいが、メインは驚くほどシンプルに同一サイズのカットバックを延々続ける、この名優あっての安定というだけでは収まらない過剰さ、その内容はシリアスでもあるが、いつまでも見ていたい楽しさがある(ジャック・リヴェットによる『我らの親父ジャン・ルノワール』第二部のルノワールとシモンの延々続く会席と並べたい、二人のミシェル・シモンの終わらない対面)。それでも本作のミシェル・シモンには孤独さが付きまとう。弟は自らが役者やジゴロなど(正直「ジゴロ」が強烈すぎて他の様々な遍歴は忘れてしまった)一所に収まらず様々な職を転々としながら、それでも人生を自由奔放に満喫してきた(この語りにさえ漂う寂しさは今ならレオス・カラックスの『ホーリー・モーターズ』に引き継がれているだろう)、そのように兄である自分は生きていないという後悔。弟の「塞栓症」(心筋梗塞?)による死に、医者は「あなたもお気をつけて」と言い、兄弟は同じ病を発症しうるだろうという周りの眼に対して、それでも人生はどちらか一つの道しか選べないという酷な事実は残される。この後悔はあくまで本心は逆に近いとしても、弟の口から「兄のように生きたかった」と言わせるような状況も後に訪れる。夜道を歩くミシェル・シモン(このシンプルな画はある意味『監督ばんざい!』の人形を抱えて歩く北野武も少し連想)には、特にこれといって演じる身振りはなくても、ただ一人しかいない。その夜は灯火管制の夜ほど作り込まれた暗闇ではないが、特に亡くなった弟の部屋で彼が一人過ごす時間に『あなたの目になりたい』の視力を失いつつあるギトリの姿を想起させる。そこへ寄り添うように現れるのはラナ・マルコーニであり、どこかアンナ・マニャーニを連想させる貫禄さえ身についていて非常に感動的であり、これからミシェル・シモンが彼女と人生をやり直す話になるのかと思うと、事態は異なる方へ向かう。また家族との関係を再生させる、意外と毒のない結末へ向かうのかと、それはそれで『ヌーヴェル・ヴァーグ』のアラン・ドロンもしくはジェリー・ルイスみたく感動的かもしれないと思っていると、そうは問屋が卸さないとばかりに、ある夜の妻や子供たちの反応の変化から気づく。ある人物における表と裏での変化が一人二役という題材とあわさって扉入口に頻繁に配置された鏡の存在と繋がるのだろうか。
彼は弟から言われた、二人一緒ならもっとできたかもしれない「いたずら」、この「いたずら」こそ自らが引き受ける運命だったかのように動いているのだと最後にはわかる。本当にこれが最後まで見て初めて観客としても全てに諦めがついたかのように「いたずらのような映画だった」と受け入れるしかない。「あとのことは知らん」としか言いようがないのだが、それでもこの映画にはただただ後悔が付きまとう孤独感から、一切の悔いはないと言い切るしかない方へ転じる賭けがある(そうなるとラストカットのミシェル・シモンにはメルヴィル、ベッケルの映画の主人公に通じるダンディささえ感じる)。一人二役だけでなく、本作には序盤から「正直者」の話に対して、「嘘」というよりは、映画ならではの嘘という以上に「いたずら」と言いたくなる繋ぎがあった。特に全裸に近い姿を披露する使用人が台詞も反応も最小限だが確実に目の離せない存在で、彼女が廊下でミシェル・シモンに大胆かつ瞬間的にササッと胸を触られてから、一家の食卓へ扉から入って出ていくまで、これといって捻りはない単純なカット割りなのにどうしても何が起きるのか注意を向けてしまう。これもまた「いたずら心」がなせるテクニックなのか。

『夜明けのすべて』(三宅唱)

三宅唱監督『夜明けのすべて』を見る。
たとえ肯定的な意味であっても本作に対し「何も起きない」といった文言を読むと(またそれが男女関係に焦点を絞った上での話だとしても)少し驚く。そういえば三宅唱監督の映画は『やくたたず』を見たときから「何も起きない」というか、期待した何か(それは「新しい才能の発掘」みたいな驚きを画面から得ようという見る側の欲か? お披露目となった第六回CO2映画祭での「グランプリ作なし」という思い出もつながる)が先送りにされたように見えなくもない。同時に『夜明けのすべて』のラストには『やくたたず』で漠然と見た覚えのあるキャッチボールが10年以上の時を経て、朗らかになって、受け取りそこねたボールとして飛んできたような感慨深いものはある。
プラネタリウムでの解説をするという話が出てきてから、おそらくラストは(奇遇にも日本では同日公開のビクトル・エリセ瞳をとじて』と共に)上映の話になるんじゃないかと予想はできる。だが初見時の印象ではあるが、そこからが2時間以内に収めていても微妙に長く感じた。ただその開演がいつのことか(映画的にすぐ起きるのか?)迷わせるのもあって、確信犯的なものだろう。PMSが月毎に起こる症状で、主な職場の栗田科学には社員の息子たちが学内での上映に向けて撮影をしていて、大晦日の掃除をする場面もあって、メインの男女はいつまでこの職場にいるかわからない時期にいて、確実に時間の流れにいる。もし再見して本作の日替わりをチェックしようと集中したら別の印象も受けるだろうが、少なくとも自分含め大半の観客にとって何日の出来事だったかはどうでもよく見れた(おそらくそうした大雑把に見えてしまっても構わないようにする気配りがある)。そこには本来終わりという概念のない、自らの(または親族、同僚の)「病」との付き合いもあり、または遺族として「死」という概念さえ終わりではなく、そのことが最終的には感動に繋がる。受け取りそこねようが終わりはないキャッチボールの映画か。「夜が明けてほしくない人もいる」という感情もまた否定されず、この時間を受け入れる。
ただそうした感想を書いても、本作から正しい解釈をしたというだけな気もするし、実際そのようなことを伝えるために作られたのだろうと思う。サービス残業を肯定しているように受け取られなくもないが、システムや契約の中に収まりきらない善意の行動とも見れる(アメリカ映画的と言っていいか)。大半は善良な人ばかり出てくる優等生的な映画にも見えて、その病や死の原因であり排除しようとする側としての社会の存在もあることを明示はしないが意識はさせる(『エリ・エリ・レマ、サバクタニ?』の自殺者増加もウイルスだけが原因と一切断定されていないし社会不安と切り離せるわけがない)。そうでなければ彼らが手を取り合うことさえないのだろうともわかる。映画には今より良い状況を見せたいという教育的な役割はあるだろうし、そうした功績を知った上での映画に違いない(やるべきことはこれだと決めたような潔さはある)。
それが『ケイコ目を澄ませて』公開時のユリイカを読んだりすると三宅唱監督本人がそういう人だから、というふうに見えもするし(「ネットで拾える情報は大きな声の人のものだから信じるな」という台詞も原作にあるかともかく監督自身の意見と受け取りたくなる)、実際細やかな気配りのできる兄貴分という人柄の印象として読める(そうでなければ行き届かない細部があるのもわかる)が、そこに捻くれて何か言いたくなる気持ちもわからなくない。
同時に解決方法のマニュアルはないともわかっている。PMSの症状が出た上白石萌音に対して松村北斗が自動車の清掃をするように誘導する場面での彼女の「あ?」というリアクションがスケバンぽくて可愛らしいと笑ってしまう。現実的な解決への糸口はあるかもしれないが、映画として面白く見る。その見方、聞き方、考え方を少し変えて、外側へ向けてみようというのが根本にある。鏡の見えるヨガ教室での彼女の怒りも、それに対する後悔も、どちらも病としてだけでなく否定できない負の感情として存在している。

『瞳をとじて』(ビクトル・エリセ)

ビクトル・エリセ瞳をとじて』。

すでに知ったふうに本作を過去作と比較して劣ると書く文を見かけたが(そんなものに目を通す方が時間の無駄か)、たとえばカラックスの『アネット』のラストが凄いのと同じく、本作もたしかに最初と最後こそ最も感動的かもしれないが、しかし『アネット』同様にそれだけの映画ではない。それに、そのような劣った印象を与えることが現代まで生き残った作家にふさわしい態度かもしれない。

まずメインは会話劇だ。それを無駄と思う向きは何を求めているのか? 『ミツバチのささやき』といえばモンテ・ヘルマン『果てなき路』(もう十年以上前になる)での登場を覚えているが、ヘルマンにしてもエリセにしても過去作以上に長い旅の映画だが、しかしグリフィスにおっている点か、その長さは苦痛ではない。扉を開け閉めして、誰かと会って話す。その時間を省略しない。過剰でもわざとらしくもなく、時にあっさりと暗転しつつ、緩やかな時間が続く。3時間近い時間がなぜ必要なのかあえて問う必然性はなく、また答えるべき答えはない。ただその時間はたとえ観客の(たとえば年老いて)体力や集中力がなかったとしても自然と無理する必要はないんだと思えてくる。照明の力よりも、むしろすべてを集中して見る必要はなく、ただおそれに近い慎重さで繋げられた時間にまばたきしながら浸ればいいのかもしれない。話す人物同士をどのサイズで撮るかが間違いなく重要な映画で、一つ一つの画は練られて決まっているはずなのに、どこか緩やかなカットバックが息苦しくなく持続して見れる。ポン寄り、引きのタイミングに一々オッとなり、話の流れもあって興味を持つから退屈することはない。同時に「ここぞという時」という形容をすることさえおこがましく思えるほど、紛れもなく穏やかとは言えない力でもってクローズアップが入る。そのアップは互いに影響しあって、色が滲み合うような効果がある。そのアップへ繋げていく画面の奥行きはテレビモニター越しのジャンプカットや、あの映画館のスクリーンにまで通じる。まさに人に目があって前がある限り物語は前進し、目を閉じるときに一応の終わりを迎えるが、そこから記憶への新たな内なる旅が始まるのだろうか。まるで映画館の外に(本作で何度も印象深く降る)雨が止んで、夕闇ではなく明るい空が広がっているかのように、何らかの「その後」が各々に待っている気がしてくる。しかし背中合わせの両面に顔をもつ像のように、その目は前方を向くだけでは終わりがなく果てしなく背後(過去、内面、記憶)への目を忘れ去ることはできず、捨てきれず、リフレインされるようでもある。

ウェルズやアンゲロプロスだけでなく大江健三郎もよぎったが、『王国(あるいはその家について)』や『カルプナー』と共に「未完成の映画」を挟んで2時間30分近い時間にわたり、過去・未来が避けられないテーマになる映画でもあった。

『熱のあとに』

『熱のあとに』を見る。ある出来事を経験した「その後」を生きることから始まる映画ではあるが、それでも127分という時間が長すぎないかと苦痛にはなる。
彼女が過去に男を刺したこと、そうした実際の事件を題材にした映画でありながら、観客として知っている前提で見ようとする側をあえて煙に巻くように(ナンセンス志向なところもある)、どこか断片的である。お見合いをした男が違う職業、違う名前、そもそも結婚する気なんかないという話をする切り替えに対して、その流れに乗せられてか、彼女が軽くはないが、呆気なく過去のことを言葉にする場面では窓を開けて車の運転中ということもあって風の音を重ねる。台詞の強さに対して、そこに没入するだけではない距離を与えようとはしている(特に終盤の母親が泣く子をあやす声は印象に残る)。また後半になると彼女の台詞としては聞かされていないホストに貢いだ過去を、夫が口にする場面があって(そうした出来事自体は昨年問題になったが映画として予想外なものではない)、映画ではオフにされていても登場人物たちが知らないわけではない。
どちらが懺悔するかわからない懺悔室が出てきたり、引っ越しや駆け落ちなど特定のパートナーを選んだり、一か所に落ち着くことがなさそうな人物にしたりしているのに、型通りの田舎と都会から抜けられなかったり、そもそもヒロインはじめ主要人物に地球に染まりきれない宇宙人らしきものを感じさせたりと、共感を拒み、空間を目に見える以上に抽象的なものにしようという「作家の映画」だと思う。
「その後」をどうやって生きようかという話ではあり、一本の作品として演出が一貫し、脚本に人物の目指すべき社会との対峙の仕方があったとしても、終盤のボートや包丁の使い方など人物の内面から出たというより筋立てやシチュエーションに落とし込んでいるだけに思える。プラネタリウムの場面も明転すると周りが何事もなく帰っていくのも、どこか安易な落としどころに見えるし、ラストの台詞にしても、その後を見せず最後の画ありきになっているように見えてしまう。
二時間以上の上映時間に対して、見る側の関心を裏切ろうとする意思はあっても、見る側のモチベーションを持続させようとせず、どうにも付いていくのがつらい。

2/11、12上映の『self and others』(監督:當間大輔)について

11日予約フォーム

https://0211kinokoya.peatix.com/view

12日

https://0212kinokoya.peatix.com/view

 

self and others』(監督:當間大輔)は今週末11日(日)・12日(月、祝)上映。

様々な例外はあり得るだろうが、基本的には映画は黙って見るほうがいい。喋りながら見ると筋を追いきれず、他の観客の集中も妨げる可能性が高い。

この映画の男女は密室にて声を失い、動くこともやめていくが、その状態になるタイミングで意外とあっけなく男女と縁のある第三者たちがただならぬ事態を察して介入する。その生い立ちが具体的に明かされることはなくても、周囲との関係は断ち切れない。一方で彼女が彼と共に再び声を失う過程を映画で見ることになる観客(私)としては、スクリーン越しの存在が私に話しかけられるわけもないし、私の声だって映画の中へ届くわけがない。そんな映画と私との当たり前の関係こそ、どうも田舎から都会の喧騒へ移ったことが発症の原因と思われる物語よりも、この男女の症状を加速させているように見える。

牛腸茂雄の写真を改めて渋谷の松涛美術館で見て、そこからまるで声が聞こえないという感覚になる。一方で会場では『SELF AND OTHERS』(監督:佐藤真)でも耳にして強く記憶に残る「もしもし聞こえますか」「私の声はどのように聞こえますか」というテープの声も聞こえてくる。「自己と他者」もしくは「画と音」または「こことよそ」という言葉が次々よぎって、その意味を嫌でも突きつけられ、同時に「私」がどちらの側にもいられないからか、うまく答えられない。この「私」の置かれた状態を、または写真と声の関係性を、當間大輔の『self and others』は声を失う男女として見せているかもしれない。

男女のこれまでの生い立ちも、二人のいた空間の記憶や痕跡を辿ることも、この映画では追い足りない。たとえば本作よりも『SELF AND OTHERS』を連想させる『王国(あるいはその家について)』(この題名は写真家・奈良原一高の作品「王国」を元にしている)は現在製作中の映画のようでありながら、既に起こった出来事の記憶や痕跡を辿るようでもあり、目の前にないものを見ているような顔をしていく人物の記録にもなる。

むしろ『self and others』は彼らがどうしてこうなったかよりも、こうなった彼らの声なき言語(シャンプー、米粒、煙草といった異物に対する反応も含まれる)を観客として目で受け止めいくしかない。「今日は具合がよさそう」と言われる彼女の単純な動きを見る時に、スクリーン越しの存在が観客にとって近しくなるのか、それともまるで「写真」となってしまったように、さらに遠のいていくのか(『ラ・ジュテ』を意識したのではないかと想像する)。この距離は本作を通して見ることで、観客一人一人の言葉になるかもしれない。

 

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