2/11、12上映の『self and others』(監督:當間大輔)について

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12日

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self and others』(監督:當間大輔)は今週末11日(日)・12日(月、祝)上映。

様々な例外はあり得るだろうが、基本的には映画は黙って見るほうがいい。喋りながら見ると筋を追いきれず、他の観客の集中も妨げる可能性が高い。

この映画の男女は密室にて声を失い、動くこともやめていくが、その状態になるタイミングで意外とあっけなく男女と縁のある第三者たちがただならぬ事態を察して介入する。その生い立ちが具体的に明かされることはなくても、周囲との関係は断ち切れない。一方で彼女が彼と共に再び声を失う過程を映画で見ることになる観客(私)としては、スクリーン越しの存在が私に話しかけられるわけもないし、私の声だって映画の中へ届くわけがない。そんな映画と私との当たり前の関係こそ、どうも田舎から都会の喧騒へ移ったことが発症の原因と思われる物語よりも、この男女の症状を加速させているように見える。

牛腸茂雄の写真を改めて渋谷の松涛美術館で見て、そこからまるで声が聞こえないという感覚になる。一方で会場では『SELF AND OTHERS』(監督:佐藤真)でも耳にして強く記憶に残る「もしもし聞こえますか」「私の声はどのように聞こえますか」というテープの声も聞こえてくる。「自己と他者」もしくは「画と音」または「こことよそ」という言葉が次々よぎって、その意味を嫌でも突きつけられ、同時に「私」がどちらの側にもいられないからか、うまく答えられない。この「私」の置かれた状態を、または写真と声の関係性を、當間大輔の『self and others』は声を失う男女として見せているかもしれない。

男女のこれまでの生い立ちも、二人のいた空間の記憶や痕跡を辿ることも、この映画では追い足りない。たとえば本作よりも『SELF AND OTHERS』を連想させる『王国(あるいはその家について)』(この題名は写真家・奈良原一高の作品「王国」を元にしている)は現在製作中の映画のようでありながら、既に起こった出来事の記憶や痕跡を辿るようでもあり、目の前にないものを見ているような顔をしていく人物の記録にもなる。

むしろ『self and others』は彼らがどうしてこうなったかよりも、こうなった彼らの声なき言語(シャンプー、米粒、煙草といった異物に対する反応も含まれる)を観客として目で受け止めいくしかない。「今日は具合がよさそう」と言われる彼女の単純な動きを見る時に、スクリーン越しの存在が観客にとって近しくなるのか、それともまるで「写真」となってしまったように、さらに遠のいていくのか(『ラ・ジュテ』を意識したのではないかと想像する)。この距離は本作を通して見ることで、観客一人一人の言葉になるかもしれない。

 

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