『WALK UP』(ホン・サンス)

一軒のアパートのみを舞台に、あとは画面に出てこない済州島が気になる。ハングル一文字のタイトルが出て、文字の構造自体が映画そのものを現しているかもと錯覚する。

画面外についての映画という話も聞くが、『小説家の映画』同様、画面内にギリギリ全てを入れているんじゃないか。画面内と画面外のどちらに重きを置くかと拮抗し合う力関係の高まりが、引きこもりとも世の縮図とも言えるアパート内で突然に起きているような。ズームの見当たらない画面も、空間の息苦しさ、逃げ場としてのベランダ、人物同士の距離を意識させる(ただ会話の内容も何回か脳裏を余計な仕事のことなどよぎったせいで追い切れていない)。ついでに、いかにもZOOMを使うシーンが出てきそうで出てこない。他の映画にはあっただろうか。ティルトアップ、ティルトダウンや、大家がトイレや風呂場を直してくれないというやり取りにケリー・ライカートの『ショーイング・アップ』を思い出した(ところで両作品を見たヒューマントラストシネマ有楽町も男子トイレの自動ドアがいつまで経っても直らないけれど、どうなっているのか)。
これまでになく近寄り難い、新しい職場や、知り合いのいない飲み会に混じったような、既に出来上がった関係性のある空間に入って挫けそうになった過去を思い出した。入り口は開け放たれている。しかし中には暗証番号による鍵のかかった扉があり、そのロックを解除したり、できなかったりする音が面倒さや不安と共に耳に残る。そもそも飲めば打ち解けたようで、翌朝以降はわからないのがホン・サンスの映画ともいえる。同じ空間に住むからこそ煩わしい。一方、さりげなく頻繁にかかってくる電話の存在が、必要なはずの距離を壊しにかかる。心の声も気がかりなあれこれから人を離さない。また人物同士の距離についての映画だとしても、この作家の映画だからか、フロアや場面が移ると時間も内面も何もかも変化しているのではという不確かさがある。それでも観客としては、もはやどうとでもなれと、振り回されているのにも気づかず時間の流れに任せようかと眺め続ける。
ホン・サンス版『死亡の塔』かと思いきや『テナント』みたいな…いや、全然違うが。