フィルメックスにて見逃していたホン・サンス『川沿いのホテル』を配信で見る。『イントロダクション』でもあった実際の製作期間を告げる冒頭だが、ここでは役者が読み上げる。ホン・サンスの映画でのモノローグは近年ではかなり少なかったと思うが、今作は妙に多い。そして滅多にないフラッシュバック。本作(のまさかの結末)を経て公開中の二作での、天への祈りという心の声が聞こえてくることになるのか? 三脚に置かれていない撮影だと、ズームがフェイクドキュっぽいというか(そこに窓越しの猫を追う時間がフェイクでさえなくなる)。キム・ミニふくめホン・サンス映画でよく見る気がする役者がホテルへ集う(たった5人だが)。ホン・サンスと扉の演出というのがいつからなのか、それでも舞台的な感覚がある。終盤の居酒屋での女性陣・男性陣の分け方も、そんな声を出したら聞こえちゃいそうだが、ここにも舞台的な要素を感じる。ともかく扉の気になる演出。事件でも起きるのか? 諸々の(少なくとも近年は)やらないオーバーラップなど、これはもうホン・サンス組の自主映画か?という(これはなぜか『あなたの顔の前に』でも感じなかったことだ)、ある種ファスビンダー的というか、「韓国のロメール」とは今更誰も言わないだろうが、青山真治ブログにて以前書いていた「韓国のシャブロル」度が強い(その後のインタビューにてホン・サンスはカラックス並に唯一無二になる)。前半は酒らしいものも飲まないから、より不吉な冴えわたった予感がする。ついでにホン・サンスといえばハングル三文字のクレジットだが、本作では漢字三文字の名前の話が出てくる。不思議に愛らしい記号としての名前から、意味への変容。ピンボケの風景(そこからパンして人物にはピントが合うという技巧あり)というさらに奇妙なこともあって、ここに誰に届くかもわからない言葉が語られる。それは親から子へ? それとも居酒屋で美女二人(しかしキム・ミニの顔は特徴的というか90年代の日本のモデルっぽい)を「天使」と称して託すものか? それと美しい手がトレードマークらしいキム・ミニだが本作では手を火傷している。『浜辺の女』以前を見返さなくてはと思う。

国アカにて石田民三『むかしの歌』。未読のノエル・バーチによる論考にてカットバックがほぼない、同じアングルからのショットに同一シークエンスにおいて戻ることがほぼない、つまり経済的じゃない撮り方をしている点が指摘されていると、ご一緒できた方から聞いたが、たしかに見ていて、没落した士族の娘の家の前である視線に気づくシーンや、その士族の家の横移動など、セットをいくつ作ったのかなど素人目にも苦労を感じる。またはどことは具体的には言えないがロングショットのいくつかや、襖の外の階段での出来事など。冒頭の船、風車、折れた傘、そうした水を横移動する物が壊れていく。壊れたものでも水は運んでいき運動になる。そして最後に花井蘭子を見送る実の母の頭髪が白髪ともつかない雪の粉により白くなっていくのに言葉にし難い感情がこみあげ、それをなんとも言えない花井蘭子の笑みが応える。一方で花井蘭子を乗せた人力車は外の運ばれていく音と映像が分離したように、彼女のいる車内は運動を停めて、ただいつ暗転するかもわからない時間、歌い続ける。彼女は流される運動と拮抗しているのか? しかし77分とは信じられない密度。これがまたある意味で、経済的ではない、というのは凄いことだ。そのうえでまさにシスターフッドとは、こういうことなのか? 本当は彼女たちに交わされるいくつかを細かく覚えたいが。
『あさぎり軍歌』もなんだかんだで花井蘭子の死に様に持っていかれる。ここでは戦争が画と音、実景と後景(円谷英二)とに切り離され、船が逃れる人を乗せて水を横切り、その最も忘れがたい結びつく点に花井蘭子の亡骸が横たわり、見つからない兄弟の死を語りながら、軍歌を耳に愚かな戦災の場に佇む。
付け足す。花井蘭子の出す音がどちらの映画でも外にいる人間から嫌悪されるシーンがある。『あさぎり軍歌』の花井蘭子の死は、その音になる弦が切れた時にわかる。先に音から入り、画が亡骸を映す。しかし花井蘭子の死因は弾丸なのか、それとも自殺か、実はよく見えなかったが、これが自分の理解力の問題かどうか。

朝、職場に行き、夕方から働く合間にシネマヴェーラにて中平康『狙われた男』を見るが、外の暑さに負けてほとんど寝る。主演男優の牧真介が新谷和輝さんに似ていると思い、黒川さんの新作を早く見たくなった。
中平康岡本喜八はあまり見てないくせに見る気の起きない苦手な、というか誰かの後一押しがないから見てない監督だが(そんな誰かのせいにすべきではないくらいの監督だが)イマヘイも二人の蔵原も見てないので、なんだか日活が実は苦手なんだろうか。