『小説家の映画』(ホン・サンス)『インディ・ジョーンズと運命のダイアル』(ジェームズ・マンゴールド)

ホン・サンス『小説家の映画』を見る。
小説家が主役の映画でもあり、小説家が映画を作る話でもあるが、いずれにせよ『小説家の映画』である。
最初はもはや無の境地にでも達したような、何を見ているんだろうと置いていかれそうになるも、それでも序盤から映画のフレームには「これでいい」というような確信がある。小説家、イ・ヘヨンが書店の本に手を置くアップ、その店内から聞こえてくる店員を叱責する声という始まり。また、展望台に舞台を移してから、画面外のまだ登場していないクォン・ヘヒョについて(その人物に関する内容から男を演じるのがクォン・ヘヒョだと何となく想像できる)「隠れている」と形容し、その後、インしてきた彼に対してイ・ヘヨンは「なぜ、あなたは私を見て隠れたんですか」と問うが、彼は「いやいや、トイレに行っていただけですよ?」と返す。映されないものの多さ、もしくは映すものはもうこれだけでいいんだという、計算と無意識の境界を行き来するような映画の豊かさがある。
中原昌也さんが言うところの「雑木林映画」というか、もしくはその辺の公園で簡単に撮ったような映画なのかもしれないが、とにかく本作は映画が生まれてから成人を迎える前にでも戻ったかのようだった。そんなことが本当に実現できるわけはなく、またズームもパンももちろんあるけれど、たとえばチャップリンの作品について、もはやカメラが何もしていないかのように見えるくらいの意味での、さりげなさすぎるフレームの強度といえばいいのか。それでも映画全体に力みは一切ない。撮影はまたしても監督自身である。
キム・ミニとイ・ヘヨンが初めて同じフレーム内に収まり、同時にクォン・ヘヒョとその妻チョ・ユニという四者の収まったミディアム・ロング・ショットでの会話が割ることなく続くうちに、クォン・ヘヒョがイ・ヘヨンを感情的にさせてしまった間の、台詞を発しないキム・ミニとチョ・ユニのあの場の空気を滑稽に見せてくれるリアクションもおかしいが、結果クォン・ヘヒョ夫妻は退場し、新たな人物がインして三者になって、男女三人がその場から移動するパンになるまでショットは続く。充実しているようでもあり、不毛な時間でもあり、それでいてやはり肩の力は抜けているというか、そうした意味で会話の面白さは勿論あるのだが、なおかつ人物の滑稽な入れ替わりを単純なフレーム内外での出し入れを見る面白さは、どこかサイレント喜劇まで遡ることが出来る。
また小説家が「携帯カメラでもいい、役者の親密さが映されていれば」「ドキュメンタリーではない、私は小説家として物語を……」といった内容を話す、トイレ前での映画談義が始まった際のズームによるバストサイズへのリフレーミングの単純さ。このシレッとした次元にホン・サンスという監督が至った道程だけで彼の半生が費やされているといえるかもしれないが、100年以上の映画の記憶も無視されているわけがない。
窓の向こうから透き通るような目で見つめてくる少女が、トッポギがどうのテーブルを挟んでのイ・ヘヨンとキム・ミニの会話と関係なく闖入してくる可笑しさと力強さに対して、偶然によるドキュメンタリー的な生々しさとか、役者たちの即興という言及さえナンセンスに違いない。その場が偶然の呼び寄せた凄さだとしても、わざわざ映画はしばし後に平然と手前で酔い潰れ寝ているキム・ミニの背景で会話する人物たちという画面を撮って、映画をドキュメンタリーだけにはしない。ある構図における前景と後景の出来事が物語と切り離せないサイレント映画時代からの画を知る力が支えていると証明する。
でも結果として背景から漏れ出る何かが物語の整合性や滑らかさを逸脱しかねない映画の出鱈目さも記録されている。これはあっけらかんとしたコロナ時代の映画でもある。キム・ミニの役柄は「一線を退いた女優」という相変わらず現実の出来事を連想させるものであり、彼女による結婚行進曲とホン・サンス自身のボイスまで聞けるという、ある意味では『桜桃の味』に近い人を食ったような展開まで挟まれる。「光と物語」をめぐる『パッション』と異なり、平然と映画は出来上がってしまったらしいが、そこで小説家が求めた物語がどうなったか、まさかあのプライベート動画が「小説家の映画」ではないだろうが、まさかそうであったのかもしれないし、その答えはわからない。ただ屋上の喫煙所という場へイ・ヘヨンらが移ってから戻ろうとせず、またエンドクレジット後(!)のキム・ミニの反応を見るに、彼女らの試みは「失敗作」なのだろうか。
小説家という異業種の「カリスマ」が初めて映画を撮ろうという物語だが、デュラスやロブ=グリエといった偉大な「小説家の映画」たちは当然無視したかのように別物であり、異業種からの偉大な映画作家というならまだウォーホルのことをホン・サンスは連想させるかもしれないが、ホン・サンスはあくまでホン・サンスでもあるというくらい、同じような題材を繰り返し語り続ける作家として扱われている。ただ映画には、もしくはすべての表現には、それが初めて行われたようであり、既に何度も繰り返されていることでもあるという面もあり、それがホン・サンスという作家の主題の一つでもある(『次の朝は他人』『正しい日 間違えた日』)。

 

 

 

 

ジェームズ・マンゴールドの『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』を見る。
スピルバーグやマンゴールドに対してはっきり好きだったと言えるかはわからない自分のこれまでの中途半端さはさておいても、やはりマンゴールドは本気だというのが伝わってきて胸を打つ。
150分という『フォードvsフェラーリ』の尺であり、しかしこの塩梅は実に心地よくも感動的な旅の(新幹線なら大阪くらいまでの)映画だが、やはり『フォード~』の6000回転?と同じく思わぬ次元へ向かう。
どうなってるか不安のハリソン・フォード若返りも笑ってしまうくらい潔く呆気ない。しかしこの「帰ろう」の感動がしっかり最後にフラッシュバックしてくる。
たとえば『ニューヨークの恋人』をまず思い出すタイムトラベルも『テネット』の逆再生や『エブエブ』のマルチバースに対する批評に思えてくる。またハリソン・フォードが列車の上を歩くのを見ながらトム・クルーズ(いや『ナイト&デイ』は忘れられない)やキアヌ・リーブスのガチスタントに対する「別に無理して本物でなくてよくない?」という(イーストウッド的な?)批評かもしれないし、オンボロ車のはずが凄まじいスピードで直角に曲がりまくるチェイスは『ワイルドスピード』の出鱈目さ以上の大らかさでもって興奮を呼ぶ。ガムでエンジンのヒートを冷ますのだ。
何より『ローガン』からの流れか、本作の敵味方問わず死にゆく者たちへの視点こそ真剣だ。ハリソン・フォードの盗んだ衣服に残された弾痕でもってナチスたちが気づく序盤から顕著だが、射たれて死ぬ将校といい、そこに傷が残らないわけがないし、殺す側も平然とはできない。何よりマッツ・ミケルセンが頭を抱えながら墜落しかける時に聞こえる「この古代人が!」という戸田奈津子の字幕にさえ動揺する。畳み掛ける死の誘惑に対して抗うようなクライマックスのカットバックに、やはり小津を見た者たちの逃れられない因果は『インディ・ジョーンズ』まで響き渡るのだという感動。しかも銃よりも拳だという姿勢がラストに涙なしに見れない愛の表現に繋がる。いやはや冷蔵庫のマグネットにさえ感動した。途中で捕まる少年の単独行動に至る失策さえ、人物を彩るドラマとして機能するから、やはり本気の映画なのだ。あの時空を超える旅に並行して、少年の初めての離陸・着陸をしっかり繋げるシークエンスも良い。