『怪物』(是枝裕和)

是枝裕和の映画を見るのも今の日本を生きる人間のさだめと諦めて『怪物』。
わかりやすい誇張とそれっぽさの塩梅。映画内の細部から作家自身の視点まで含めて曖昧さを残すが、そこから導き出されるのは多様性もクソもなく漠然と収まるべきところに収まった感じ。三者視点の展開がそれに拍車をかけて、ますます穴だらけの印象でも成立したことになってるのが興味深い。
脚本上に矛盾があると指摘したいわけでもない。既に一回誰かの視点で撮った個所は、二回目以降は別のアングルだろうが極力繰り返そうとしないのはわかる。あの「お父さんみたいにはなれない」を車の音でかき消すという演出のわかりやすさからして、どうせ後半で繰り返す個所はここだろうと恥ずかしくなってくるが。ともかく、そのおかげで安藤サクラでの視点のモゴモゴと謝罪する瑛太というものは見ても、瑛太から見る(瑛太のことを犯人と決めつけて怒っている)安藤サクラという意識でこちらが見れたつもりになる映像が嵐の日の玄関までほぼなかった。特にこの安藤サクラ瑛太の両者を通すことで、一つの出来事に対し何らかの印象が変わるということをしようとしていると普通は解釈されるのだが、田中裕子演じる校長が卓上に亡くなった孫の写真を置く位置を、安藤サクラの側へ見えやすいように演出つけているとか、そうした誘導の手つきを見せるところはわかりやすすぎる。一方で少年たちの側から見た安藤サクラ瑛太という切り返しが成立しているかというと、「男らしさ」みたいなの組体操の練習とか「喧嘩」後の握手で口にしていたとか、そういう瞬間はあるけれど、その程度の切り抜きしかないんじゃないか。
第二部の大人だけでなく子供も誰も皆で瑛太を陥れる展開が「先生って大変」とか「子供って残酷なところある」とか、わかってそうで『告白』レベルのそれっぽい印象だが、それも辻褄合わせのフォローするかと思いきや、それもない。また笑いも緊張感も中途半端だからか、瑛太の理不尽な哀れさも演出しきれず、なのに三部構成のおかげで前後の繋がりが中途半端でも曖昧さが作家性みたいに救われる。BL本読む女の子のくだりとか中途半端すぎるし、クラスのいじめっ子も、中村獅童も結局放置するあたりもタチが悪い。中村獅童の言ったことを瑛太がやったことにされるという「つなぎ間違い」というのが本作の肝なのかもしれないが、結局それが映画として成立できていたのかさえ中途半端なのに、これでいいのか? 
まさかの是枝による列車事故が見れるのかという期待さえ、おそろしく半端に呆気なく終わる。瑛太安藤サクラの和解を入れるとか、それくらいの良心さえないくせに、あのラストは当然批判されても仕方ない。ぶん投げすぎというか、たしかにあそこまでぶった斬ると「現世には救いがないから、せめて」みたいなメロドラマというか心中モノの展開なくせに、登場人物たちにそれを否定する発言をさせて宙づりにさえすれば、自分はたいした作家だと思ってるんだろうか。しかし放置プレイには変わりない。田中裕子が岸部一徳みたいな顔なのは興味深いが扱いは吉永小百合以下の最悪さというか、暴走しているのか? あと猫の下りが大島渚『儀式』の引用なんだろうというのも質が悪い(大島と同性愛はわかりやすい)。ここ何年かの是枝でワーストだが、今後さらに堕ちていくのが予想できて、ただただ興味深い。