『探偵マーロウ』『アル中女の肖像』『君たちはどう生きるか』

ニール・ジョーダンリーアム・ニーソンの『探偵マーロウ』を見る。
特に何も言う蘊蓄も思い浮かばないが、これは見て良かったんじゃないかなあ、と曖昧な感想しか言えないが、しかし探偵モノはやっぱり良い。
ニール・ジョーダンも70歳過ぎてるのか。
最近具合を悪くした後に、またクーラーで喉の具合が悪いのかわからないが、何をやっても調子が悪い気がして不安である。

 

ありがたいお誘いいただきウルリケ・オッティンガー『アル中女の肖像』を見る。これは、ただただ痺れるしかない。冒頭のモノローグがカッコよく、そして空港内のアナウンスからして素晴らしい。明確だろうがナンセンスだろうがキレのある言葉の数々。これは駅の階段という寝床にひとまず力尽きるまでの片道切符の話であり、酔っ払いの英雄談ではなく、平気で落ちる綱渡りの話であり、またナイフで髪を撫で合い(酔っ払いの男性なら井川耕一郎監督の『ついのすみか』にも髪を包丁で解いていた)、コップをはじめガラスは割られ続け、握手も挨拶もしない、窓を唾で拭き、料金の請求はあったかわからない。迷いのない画と、弛緩した時間。作り物のようで、それぞれにグダグダと生を体現する人々。ロバート・ダウニーの映画を見ている時のような掴みどころのない時間が過ぎていき、結局映画館での上映を見逃したキラ・ムラートワの『無気力症シンドローム』のことが悔しくなったり、一方で特集でも開催してほしい『クイーン・オブ・ダイヤモンド』のニナ・メンケスも見たくなったり、どう感想を言えばいいのかわからないままだがやはり面白いポール・シュレイダーの近作のこととかもよぎったが、まあ、そうした見事な肖像画のような映画の一つだ……という言葉で済ましていいのか。

 

なんだかんだ初日に宮崎駿君たちはどう生きるか』。
余計な感想を書いて見る人の楽しみを奪うのも不粋だが、そもそももはやどんな内容で、どんな作品か予告したほうがいいのかわからないくらい、やりたい放題というか、これはもう地味といっていいのか。
鈴木卓爾監督のTwitterでの妄想画が意外といい線いっていて、さすがタルコフスキーをネタに駄洒落を言わせたり、鳥人間を映画に出してきた作家の感性は近いところ行ってるんだなあと驚いた。当然ワークショップでの活動で本領発揮する作家と、宮崎駿では映画そのものは真逆の位置にいる印象だが。
とにかく宮崎駿に関心があろうがなかろうが、これを映画館で見ないで過ごすのは勿体ないはずだが、とにかく静かなんだかゾワゾワするんだか何とも落ち着いた前半に対して、同時に何を見させられているんだろうという後半ほど奇妙な時間も過ぎていく(一方でお父さんのいる世界のシーンに戻ってきたり、気絶して目が覚めての前後などの、二つの世界を行ったり来たりの描写がわずかでもあるのに少し驚く)。二時間ちょいだがクライマックスなどどこへ向かうのか、先が見えない不安。それでも『ハウルの動く城』に比べたら余程舞台も人物も限定されて、すっきりしてもいて、だからどんな話かよくわからないまま見ていた割には、意外と見終わった時には置いてきぼりは喰らっていない。それはほとんどがかつて宮崎駿の映画で見たことについてだからか?
もう少し思いつくことを書く。
まず空襲の夜。影のように蠢く人達。一方で確か窓から見えるのは、空から舞いながら落ちてくる欠片たちで、この段階から素晴らしい。「母さんの病院だ」という声。階段を這い上がり、何かしようという動きが映画の中にあったはすだが、彼らは何かできたのかわからない。ただ火の中を駆けるが、はたして彼はそんなことをして生きて帰れるのか。
それから時間は飛ぶ。まだ日は沈んでないのに、窓の見える部屋で横になっては起きて過ごす時間。なんとなく『魔女の宅急便』はじめ少女という印象だが、今回は少年がその時間を過ごす(それも彼は積極的にある行動でもって横たわろうとする)。いや、こうした漫然と過ごすしかない時間は意外と宮崎駿の映画には付き物かもしれないが、そうした時にただ寝て起きてしかできないというのはどこか潔い。この単調さの魅力が、あくまで戦火の影で父の力でもって許されているとも言えるし、それを自らの選択なんだと拒もうとしているのかもしれない。はたしてこの境遇を批判的に見るべきか。また、お父さんと、お母さんの妹の接吻する光景を、どういう撮り方といえばいいかわからないがシンプルに足元だけしか見えないのだが、だから続きを見てしまわないように四つん這いで引き返す場面が忘れがたい(冒頭の階段といい、彼の四つん這いはやや獣じみているし、そうした四つん這いになる存在のモチーフは初めてではない)。アオサギが「あなたお母さんが死んだの見ていないでしょう」と言うけれど、でもお母さんが生きていると信じ続けるわけにもいかない。ともかく彼の見れる情報は所詮、窓と、父と、母から残された本と、アオサギと、諸々あるが、それですべてが見れるわけでもない。一方で動物たちはただ動物のままでいられない。しかも鳥と蛙といった具合に何か種類が限られている。アオサギペリカン、インコ、カエル(『鳥』はともかく『吸血の群れ』か? 馬鹿な!)。彼らが妖しく動き出すのを映画の目玉というのは何とも地味だが、それも忘れがたい。寝床と横たわる肉体が液体化し、母の焼け死ぬイメージは火の娘となって、生死の境を時空の捻れに転じて、そこに救いを見出そうとしての別れのようで、それにしても母さんにそっくりな母さんの妹というのは何とも妖しい。しかもこの情報が明かされるのも曖昧なタイミングで、最初は単になぜか似た人なんだと思っていた。予告がないだけでなく、明かされることの順序が不思議でもある。また、やはりあのご先祖様の肖像画はポオにしか見えないが、そういうことなんだろうか。

たぶん『千と千尋』から主人公が「いま忙しいからまた後で」と言い出し、そのニュアンスの台詞は『君たちはどう生きるか』序盤にもある。なんだか『風立ちぬ』のマックスにこのスタンスに振り切れた後、本作でもこの台詞にまつわるモヤモヤは解消できていないままではある。
唯一前情報一切なくても声を聞いただけで誰かわかった柴咲コウのいかにもな姐さん。そして鳥、鳥、鳥の王様、鳥の糞、鳥の背中に包丁、火の娘、ジャム、積み木崩し、鳥の額に汗。扉からあれこれ飛び出すなんじゃこりゃな光景に続いて、寂しいくらい呆気ない夢から覚める感覚に相応しいラスト。それにしても「友情」というのが出てくるのは『紅の豚』以来か?