6/9の日記、ジョアン・ボテーリョを見た二日後に『東京公園』を見直す

国立映画アーカイブにてジョアン・ボテーリョ『リカルド・レイスの死の年』。遅れてきた人だから未見作ばかりのせいか(いや、オリヴェイラだって『繻子の靴』とか見逃したままだが)、予測できない(相当に奥深く豊かな魅力のありそうな)巨匠の一人の映画がようやく見れて嬉しい。あえて「ひたすら話して、時々女性とキスしたり手を触ったりして、そしてあの世へ行く」だけの映画と言いたくなる。真正面からではないカットバックだけで堂々と見せてくれたり、唐突にはさまれる劇中劇の動きがあるようで時間のとまったような捕り物とか、終盤になるほどペソア周りの霞のかけかたとかどうやっているんだろうか。それでもボテーリョがどんな監督なのか、これだけでは謎が多い。
『リカルド・レイスの死の年』を見てから『ユリイカ』最終日に行くか悩んでいたが、国アカで会ったとっとりさんから『七人楽隊』が上映されていると聞き、そのまま新宿へ。
『七人楽隊』はジョニー・トー参加のオムニバスとしか知らなかったが、かなり香港映画的に豪華面々の揃った映画で、珍しく抜きん出たものも、ひどいものもなく、どれもなかなか見てよかった。ツイ・ハークはふざけていたが。
そして何をやっても後悔しそうだから『ユリイカ』に行く。『七人楽隊』がどれも〇〇年とか☓年後とか出していたが、『ユリイカ』には一切なく、それだけでも見てよかった。やはり『最上のプロポーズ』の伊藤歩は、まんま国生さゆりだった。

『東京公園』を見直し、Twitterを検索して振り返り、やはり自分がいかに知人友人お会いしたことない方々に比べて、斜に構えていて遅れてしまったかと恥ずかしくなった。フィルムで見るか、デジタルで見るか、という選択があったことも思い出す。染谷将太に射す青緑のライトが変じゃないかとか、あれはフィルムで見ると悪くないとか、いやデジタルで見て変だと思うのがいいんだとか、話した覚えがある。今はパソコンの配信で見てしまった。以前ならテレビで見ていただろう。新文芸坐三浦春馬追悼上映でも見ればよかった、当時好きになれていたなら、絶対に行っただろう。当時の「これが一番好きだ」という知人の意見に反射的に否定してしまっていたが、今ならこれが一番好きかもしれないと思う。以前に見た時は海の撮り方に『ゴダール・ソシアリズム』の波だと思って、だがそれは言っても虚しくドヤってるだけだし、以前は皆そう思うことだろうから言う必要はなかった。そして今、初めて見たら連想もしない。一々反応した方が馬鹿なのか、何なのか、それだけでもどう人から思われて生きるのが醜くないのか、全然わからない。どうせ自分の文章は固有名詞の羅列に過ぎないと無視される類の文に過ぎない。エリック・ロメールについて青山真治監督の言うところの「官能的なカットバック」(と、みだりに自分が書いていいのか)が写真撮影と井川遥の追跡にて試みられているようで、あれほど偶然だか何だかわからない動きがあって、これが本当に正しい切り返すタイミングかわからないというものでもない。それなら『ユリイカ』のほうが、これが本当に正しい長さかわからないかもしれない。
ユリイカ』は見直して、これも以前から誰か言っていたことだろうけれど「戦後」といっていいのか。西部劇だって戦後と切り離せないだろう。清水宏の『明日は日本晴れ』を見たせいか、余計にそう思うが、名前を出す必要はなかったかもしれない。江角英明がいたことを忘れていた(ここでも顔がなかなかはっきり見えない)。清水宏の映画ほど、戦災孤児がいて、戦争によって何かを失った人がいて、それをかつてあった出来事として漠然と認識しているわけではない。明らかに第二次世界大戦で皆が同じように傷ついたわけではない、戦災孤児に対し酷いことをしたのも間違いないはずだ。自分が知ってる、確実に「被災者」「被害者」「加害者」というのがいるだろう事態について、積極的にかかわるわけでもなく、むしろ避けているといわれたら違いない、いまはまだ余裕ある人間にとって、映画内の出来事に過ぎないとはいえ「その後」を生きているという人たちも、まあ、身近にいたとして「そんな人はいない」と思い続けるだろう気がする。『ユリイカ』『月の砂漠』と、映画と現実(この二項で正しいか不安だ)の、官能的というよりはウンザリするような、その辺りも「予見性」とか言われる話だった。それが『東京公園』なら見つめ返されるのを避けられないし、見つめ返されたら何かせざるをえない、もしくは切り返さざるをえないカットバックといえばいいのかもしれない。『東京公園』の切り返しも官能的にはなれないかもしれないが、そんな漠然と画面ではなく主題らしきものの話ばかり思い浮かべても意味はない。
ともかく染谷将太の霊をはじめ、宇梶剛士のいう、神様に川を一本、目の前に引かれた人たちの話であり(また画面の話ができなかった)、この死と隣接した悲しさとか悔しさとか嫉妬とかふくめ、やりきれない感情をどう向けるべきかわからない人たちというのは、別に今に始まったわけでもないんだろう(その変遷をちゃんと書くには本格的に見直さなければいけない)。どうすればいいかわからない感情というのは、小西真奈美がカメラを向けられた時の、初見では「怯え」のようだったが、いま見ると確かに怒りというか、やはり「どうしろというのか」と(困惑ではない)溢れ出るものであり、そこにカメラの暴力性というのは避けられなくよぎってしまうことだが、それが自然なものではないというのが(官能的な偶然ではないというのが)かえって非常に重要な引き出しだったんじゃないか。二人が抱擁し、そしてキスしないのかと思いきや、口づけを交わす(これを「官能的」と本来言うべきかもしれないが)。井川遥に気づかない三浦春馬らしく、やはり愛の成就とは別の感情のやり場のなさ(これは「ケジメ」なのか、その反対か?)が相応しい。「姉さん」とそれでも呼ぶことから『ユリイカ』海老根剛氏のインタビューでも指摘されていた「ニュアンス」の豊かさが、さらに激しいものになる。これは堀禎一監督が小津映画を「情熱的」と中央評論に書いたことと無縁ではないかもしれない。男二人と女二人の『妄想少女オタク系』での切り返しのようなものが『東京公園』にもあった。
またやり場のない感情というか、終わった愛というか、生き残るというか、残された側のもとにはドライヤーの『ヴァンパイア』のDVDがあって(紀伊国屋書店の『吸血鬼』ではない)、そこに霊はいて天井から涙を落してくれたとして、神がいるかはわからない。『金魚姫』『空に住む』と、もう作家自身が「生きながらえた」感覚と言っていいのか、生と死はゴダールトリュフォーじゃないがますます入れ替え可能に思えるが故に、一層残された側の死への意識は強くなる(それを老いた作家の「死の匂い」とは言わない)。それに世の中は物騒だ。斎藤陽一郎の追悼文にあるように、かつてのプライベートでの友人たちの死や精神的な病という出来事があったとして、それを一観客が想像していいものでもないだろうが、監督本人のことというと日記の印象もあって、実際に作家自身の健康状態というのは結び付けたくなってしまうが、それにもおそらく限度がある。それでも『シネコン!』にてデ・パルマを、プライベートに何かあったんじゃないかというのがわかりやすい作家の一人としていたり、『ゼイリブ』のカーペンターにも、プライベートで何かあったんじゃないかと思いたくなる、と話している。しかし自分の文章には青山真治監督から読まれるかもしれないという、見つめ返されるかもしれないという緊張感は、どうあっても出てこない。『わが胸に凶器あり』のペキンパー映画での編集のように光石研菅田俊に撃たれたような、すでに相棒の死の際に、誰が撃ったのか相手が捻じれ、そもそも別の場所にいた菅田俊の動向がカットインされ始めた時点で、光石研の死が予感されていたかもしれないという、いずれにせよ「深淵」とか「真理」とまでは思わないが、映画にはこういうことができると思う。『東京公園』では染谷将太が消えたり瞬間移動したりしていたが、『金魚姫』の草笛光子のように(『エンバーミング』に絡む鈴木清順か、実はストローブ=ユイレも元なのか?)予測できないタイミングでのクロースアップへのポン寄りによって、その人物が死と切り離せないというか、映画が霊や死をよぎらせるものと意識させるのは、いつからなのか。
ユリイカ』が長回しとコンティニュイティの映画として(いや、宮崎あおいの切り返しや、ジム・オルークと海のソニマージュに「海が見える」とかあるが)、『東京公園』もカットバックというか、それが残された側や、終わってしまった愛の話になる(そう書くと小津や堀禎一監督のことになってしまいそうな)ほど、どんな画だったかの記憶が曖昧になり、だからといって心が離れたわけではなく、むしろその逆だ。映画館で見直すべきだったかもしれないが、この画に集中するというよりも、その時間を一気に過ごしているという感覚が大事になる。それは『ユリイカ』なら使命感にも近いが(そして非常に大切なものだ)、『空に住む』の時には主役がむしろ榮倉奈々に近い多部未華子になって、三浦春馬もいない中、ますますその時間は避けられなくなっている。『東京公園』の最後、三浦春馬と誰が一緒にIKEAにいたかさえ忘れていた。小西真奈美だったと思い込んでさえいた。最後に公園の子供たちの声と店内が被さる終わりの、これまた誰かと誰かが結ばれたようで、全然そうではなかった。『ユリイカ』のラストもよくわからないといえば、どう終わらせるべきたったのかわからないのだが、『東京公園』のケジメというか終わりは一層ざわついてくる。