トップガン』は我慢し(やはり見直したほうがいい?)、吉祥寺にて『WVlog:personal』、新宿にて『MADE IN YAMATO』を見る。
『WVlog』過去作見ているからか斎藤英理『またね/see you again』は映像ではなく驚いた。割れたスマホから聞こえる留守番電話と、封筒に入った手紙かと思いきやInstagramにかつて投稿された文と、カラー写真いくつか。質のよくない印刷がむしろ映像作品でのノイズが宿るほか、留守電を聞くために床にひざまずく自分の身体のことも妙に意識させられる。実際の留守電により物語の構築されていく手段にジャン=クロード・ルソーの『閉ざされた谷』がよぎって(いや、もっと気の利いた名前を思い出したいが、何分ウンチクがないから……)あちらは恋文だが、こちらは急な引っ越し、生徒手帳の紛失、親戚が送り先を間違えたメロン、そして父の声。留守電特有の要件を伝える調子から、親族の声(その父と祖母の声の違いに国境を意識すべきか?)、それらは7年前のものであり、手紙にされたInstagramの文面が7年の時間による変化らしきものを示す。

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『MADE IN YAMATO』。山本英監督編の撮影だかピクニックだか謎の公園での時間が思ったよりあっさり〇〇さんが消えて終わり(やはり立場の交換と消失がテーマになる)、久々の冨永昌敬監督編のこれまた一気に終わる密度の短編に続き、三話目の竹内里紗監督編から一転して時間が延びていき驚く。この長さに匹敵するような、ウェブの海老根剛氏の評が読めてよかった。同時に、改めて自分は映画と向き合うように見ることはできないし、できる気がしなくなった。心がボンヤリ離れてる。『トップガン』にもすぐに駆けつける気になれないまま。別に映画への興味が失せているわけではなく。そりゃもっと普通に面白い映画が過去にあるに違いなく、それでも何か今後に賭ける気になれなきゃ駄目なんだろう。別に名画座通いがしたいわけではない。大した根拠もなく酒を飲めば気弱さ意気地のなさをごまかすようなことをネットでやらかし、他の誰かが良いと明らかに言わないようなものを自分がどれほど言ったり見たりする気になれるのかわからない。宮崎大祐監督編も意外に?なまま一気に終わって、清原惟監督編はやはり近寄り難さこそ印象に残る。

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夜は『トップガン』を我慢し『TOKYO EYES』を北千住ブルースタジオへ見に行く。別に物心ついた頃に見たとか大した思い出があるわけでもないが、たしかにこれが生涯のベストの一本とか選びたくなるかもしれない。だが見直すと別に傑作とか完璧とか、そういうわけでもない。本当はここで語られている「やぶにらみ」とか、なぜ武田真治があんなことを日々やっているのかとか、しかも思い返すと大して痛快でも何でもなく中途半端じゃないかと、これにははっきり言ってモヤモヤするが、彼自身がこのお仕置き?を「ワクチン」と呼ぶのが(別に自分は反ワクチンでもないが)、最も古びていないかもしれない。そういう主題について考えるべきなのかもしれない。でもこれほど主題を追う気が失せて、ただ吉川ひなの武田真治を見ているだけでいい、というのもありきたりな感想だが。初見では何かしらのセンスにグッときた気もするが、もはや吉川ひなの武田真治、しかもそれは二人の魅力という以上に、あくまでこの時の、この男女に賭けているような刹那的な感じというか、ひょっとしたらこれ以上に生々しく感動的な選択肢もあったかもしれないが、だがこれでよかったと関係者でも何でもない癖に感動してしまう。吉川ひなのの「びんぼっちゃまくん」とかどうやって出てきた言葉なのかわからないが、そのとらえどころのない危うい一挙手一投足一声全部が愛しい。その愛しさが、たとえば当時好きだった人を見る感じとは全くの別物なのが、またいい。徹頭徹尾記憶ではない。ついでに杉本哲太はどれもたいてい何となく良いなあとか、大杉漣がもういないのが信じられないとか。杉本哲太水島かおり吉川ひなのを愛しているのだろうが、武田真治も当然吉川ひなのを愛しているのだろうが、この愛が結局何なのかを徹底して宙づりにするのも、ありきたりな話だが「日本的」なことなのか、それともこの宙づり状態が新たな可能性なんだろうか。別世界のようで(『ヤングヤクザ』ばりにイカつい漢だらけの場所は何だったのか怖い)、むしろここで映されているよりも停滞もしくは退行している東京は何なんだろうか、そしてなぜ東京が選ばれたんだろうかとか、本当は問わずに答えを自分で出すべきかもしれない。でもその答えを出すのが正解ではなく、それらは『TOKYO EYES』が作られるまでの足跡であって、あくまで『TOKYO EYES』という映画があるからそれでいいという気もする。不思議と最後の再会を経ても泣かせるドラマがあるわけでもない(リモザンなら『NOVO』の『晩菊』に捧げるラストのほうが忘れられない)。赤と白の縞々の壁を背景に歩く吉川ひなのに射す陽の光が何よりも残る。正しい見方か、そこに自分がテレビで吉川ひなのを見ながら何の関心もなく、武田真治は何となく好きだが何ともわからない日本人であることが関係しているかもしれないが、どういう見方をすべきかわからないが、映画とは物語を追うものでもなく、不思議なものだと何度でも感動させてくれるだろう。
ここでの「目」の話に『MADE IN YAMATO』がよぎり、人の目を見ることが、その目が何を見ているかではなく結局は、滅多にじっと見つめられない誰かの目の動きを見ていられるという胸の高鳴りが勝るといえばいいのか。そういえばアテネ・フランセ青山真治監督も登壇したベッケル『快盗ルパン』シンポジウムの一人はリモザンだった。意識していないだろうというより、意識していようがいまいが関係なく、『TOKYO EYES』のやぶにらみのレンズと、あの最後のルパンの目か、手つきか、彼女の気づく時と妙に近い瞬間に思えてきた。武田真治か吹き替えかゲームのプレイする手や、画面外の自転車がガタンと倒れる音とか、さすがに銃声に気づいた違う階からの物音を聞いて、ゲームの映像を再生させて誤魔化すところとか、そんな画面内外の出し入れも記憶に残った。

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