眠りの浅い日が続く。早稲田松竹にてカール・ドライヤー『怒りの日』と『ゲアトルーズ』を見る。
ゲアトルーズ』(だけでもないが)を見ると、はたして自分は必要以上に身構えてしまっているのか、集中しようとしているのに大事なところをわかっていないまま見終えたんじゃないかという気になるが、そもそもここで語られる出来事をわかったといえる日が来る気もせず、意外と笑うところもある(序盤のおばさんの訪問とか)。「大臣の妻になるという気分は?」なんて聞かれたら、これからどうする? 久々に再会した女性が、自由人というか遊び人的な若い芸術家に遊ばれているかもしれないとしたら? これ以上ない屈辱かもしれない。自分自身というものであろうとしても宗教や地位やキャリアやプライドや恋愛そして友情がない限りは人間としてありえないという、ぼんやりとは頭をよぎることが(その大半とまともに自分は向き合っていないが)、これでもかと語られる。演劇的というか、家庭・公園・どこかの会場・ベンチ・ピアノ、そして数十年後の空間での、もう何らかの生きるか死ぬかの境界みたいな(人生の突破口を見出すしかないというか)。
『怒りの日』にも一回だけ確実に笑うところがあったが忘れた。でも親子にしか見えない夫婦の、それがどれほどの教会の権威があったとしても隠し切れない間違った男女の組み合わせというか、母子が夫婦にしか見えない歪な二組で出来た家庭が、むしろ夫の死を妻と義理の息子のカップルが(一人ではなく二人で)願うことで、むしろ是正されるというか……。彼女が吸血鬼になったと言いたくなる、黒い衣装のまま歩く彼女を追ううちに影に化けかけるような画の怖さはヤバい。それでも誰かの死の翌朝というのは、あの霧に包まれかけた男女が水辺で座って語らう後ろ姿の不道徳も怖さもこの際関係なく、ざわつかせるが愛しくもある(そこに二人がどういう人物なのかを考える必要もないような)。
「一人ではなく二人で」というのは『怒りの日』でも『奇跡』でも大事なことだったと思うが、接吻もしくはそうなりかける男女の向かい合ったカットの後では、その男女の向きが何らかの仕方で入れ替わる(それはカメラ位置の場合と、実際に男女が動くことの少なくとも二種あって、その演出の差は確実に考えないといけないだろうが)というのも、「一人ではなく二人でしたこと」という印象に繋がるといっていいのか。『ゲアトルーズ』の三人で乾杯して「これからは各々一人だ」という時の凄さは何なんだろうか。
以前、ジョー・サルノが「ベルイマンは俺の映画の影響を受けている」(逆ではない)とDVD特典のインタビューで捲し立てていて、でもそこはさすがにドライヤーなんじゃないかと思うが、ジョー・サルノの斜め後ろに相手が立っていて延々と話すという構図もドライヤーからいただいているんだろうか。

自分はケチくさい性格だから、なるべく行きたくないケイズシネマにてオスカル・カタコラ『アンデス、ふたりぼっち』。「ふたりぼっち」って、そんなに普通に使う言葉なのか? 睡魔に負けて前半をほぼウトウトしながら老夫婦が拙く喋って生活してるなと思っていたら、S・クレイグ・ザラーの映画でも見ていたのか?(まあ、違うんですけど)という不幸が襲うので驚いた。食人族でも悪徳刑事でもなく、キツネか不注意か知らないが。カカシや石が印象深い。

『みんなのヴァカンス』を見る。ギヨーム・ブラック、まあ、いいんじゃないですかくらいの印象(失礼)だったのに、そしてたぶん見てないのもあるけれど、これは無茶苦茶いい。一気に唯一無二の大事な監督になってしまった。もう大したことは何もやってないんじゃないかというくらいなのに、パンフレットを読んだら役者陣との繊細なアプローチがあったからこそといった話が書かれていて、さらに感動。