東映にしても、やっぱり映画は波から始まるべきかもしれない。『ゴダール・ソシアリズム』も『アネット』も波から始まった。『ポンヌフの恋人』に海を見たことがあるか、という会話は出てきたが、最近だとジェームズ・ガンスーサイド・スクワッド』のイタチが溺れる海はなんかよかった気がするが(スタローンがサメになり、「ヘンリー」が序盤で死ぬなど)、『アネット』の海も見たことないものだった。
人の指摘を読むまで、なんとなくプールのことをいいなと思っていたかもしれないけれど言葉にできなかった。そういえば『運び屋』も『ポーラX』も冒頭にスプリンクラーが出てきた。
アダム・ドライバーの舞台、煙の奥に何もないがらんどうを想像してしまうと、そこに人がいるってほうに興奮がある。自分自身客席にいるばかりで想像足りなかったが、そこに存在していて驚きがあるのは客席の観客のほうかもしれない。無論、そこに一人一人への単純な感謝があるわけではなくシニカルな、「人間じゃない」可能性はあるのだが。カラックス本の『メルド』組座談会にてボランティアのエキストラを集めていたら朝の7〜8時集合して昼2時を過ぎても休憩なしで立たせるから、翌日から有償のエキストラに変えて費用がさらに大きくなったなど大変な話ばかりで、さらに高峰秀子を裁判長役にキャスティングしようとしたらしく、成瀬巳喜男監督の映画の役者を呼びたかったらしいが、『アネット』の「群衆」成瀬巳喜男ばりにこだわりぬかれているに違いない。クリス・ロックジェイダ・ピンケット・スミスをジョークのネタにしてウィル・スミスから平手打ちをされた時も、大半の役者は観衆だったかもしれないし、一人一人のリアクションを重ねるほど、それが観衆というものの有り様なんじゃないかという気がしてくる。

 

実は初めて映画館で『ボーイ・ミーツ・ガール』を見た。やはり波から始まった。黒い水面を白い光線のように揺れる波。こんなに闇が間近に迫ってくる感覚はフィルムでの映画上映以外にありえないかもしれない。カラックスの映画の黒画面は本当に予測できない。川崎の話じゃないが、事故かと思う。いま、これほどあざとさもそれっぽさもなく黒を入れられる作家はいるのか。松村浩行監督が『よろこび』に黒を入れたのか、入れようとしてできなかったのか忘れてしまった(『アマルフィ』について書いている人はいたが……)。『アネット』のエンドクレジットにも暗闇の存在を感じた。『アネット』後に見ると、天井か壁紙か空か曖昧な星空も、託児所のテレビも異なる印象になる(冒頭の家を出た母子)。ゴダールの分身にして自演の先輩リュック・ムレに敬意を払っているのも忘れていた。それにしてもこんな凄いヒッチコックへのアプローチは他にあるだろうか(はっきり言う自信はないがエドワード・ヤン?)。カラックスの『勝手に逃げろ/人生』現場ルポに「君はローザンヌで何も見なかった」とあったが、レネ、デュラス由来の「何も見なかった」という言葉も自作を先駆けていた。それにしてもパーティーの客もゴダールよりデュラスの世界に近く見えた。というか幽霊にしか見えないざわめきとの切り離された方。ドニ・ラヴァンとミレイユ・ペリエのカットバックの予測できなさも「官能的」と呼んでいいんだろうか。『汚れた血』にも『ポーラX』にも出てくるガラス窓、『Holiday in Cambodia』が隔てる二人を結び付けているようで、エリー・ポワカールの音声と口元のズレは隠さない。