4/1 『アネット』初日、カラックスには会えず

いま、カラックス来てんだなあってざわめきがするなか(いや単なる入れ替えタイムかもしれませんが)『モダン・ラヴ』(今度の黒沢清の新作とまさかの同じ題)タイムだった。別にうるさいとかじゃなく、なんか興奮した。
久々の『汚れた血』は記憶を上回る暗転の多さが、意図的に流れを断ち切るどころか、映画がいま目の前にあるという、「ナマ」のものに接している感じがする。もはや瞬きそのものに近い。絶対に人生で二度と同じ映画を見られないようにできているとわかる。かったるさスレスレのもっと見ていたい時間。謎めいた『キッド』終盤の夢がいきなり転用されて、その唐突さのせいか何故か見たのを忘れてしまうのだが、その謎に磨きがかかる。チャップリンの映画に出てくるフレーム内に収められた二人組の、隣人の行動にも、自分自身の粗相にも、観客に見られていることにも気づかない様子と同じくらい、ビノシュとラヴァンが同一フレームに収まった時の、目線を交わらない危うさは改めて凄い。さらにそれが実は見られていた(そして見られていたことをビノシュは知っているのか宙吊りにする)覗き屋カラックスの切り返しが入るタイミングも暗転と同じくらい予測できない。ここにピコリが混じると、さらに実はミスマッチかもしれないビノシュとの組み合わせが、一層危うくなる。彗星が近づいているから、雪は降るけど地面は熱いなんて時を、どう芝居すればいいのか。撃たれたはずの人が死んだふりをしていただけのように歩いていたけれど、すでにソファに血が流れていた時、こんな時に人は何を感じるか? 悲しくないけどアレルギー反応で涙が流れ(ちょうど今の日本が花粉症という自然からしっぺ返しを喰らう時期のように)、さらに死体からは涙がこぼれ落ちる。涙がこぼれ落ちるから死んでいるなんて。ほぼ演技ができるか、それとも演技しかできない状況で、ピコリと一緒にラヴァンの死を悼むはずのビノシュが、いま、本気で悲しいか、そもそも悲しむ演技をしていたのか、してなかったのか、本当はどんな顔をしていたのか、誰にもわからない領域に置かれている。三者の並びがありえない組み合わせに見える(この危ういバランスこそ「離陸」に向かう準備なのか)。
これをもうできないかもしれないからこそ『ホーリー・モーターズ』があると思っていたが、まさかの『アネット』終盤で、本作の主題にも等しい男の腕とともに顔の復活、危うく力強くカットバックしてみせる。
先にカラックス本を読み始めてしまい、あれやこれや知らないで見たかったのに自分は馬鹿だ、とか思っていたが『アネット』は何もかも想像していた陳腐な型に嵌るわけのない映画だった。思い出に酔うための幻と、それを許さない霊が分裂した人格のように現れる演出も、こちらの想像以上に明確だった。波から始まる映画(波長、海、そしてある人が言うようにプールか……)。近頃視力に不安を覚えるせいか『フレンチ・ディスパッチ』凄いと思いつつ、これに追いつけないままと悲しくもなるが『アネット』にもある暗転、闇の多さには救われるものがある。観客に「息をするな」と呼びかけるカラックスの声に始まって、苦も無く意外と見れたようで(ビョークのコスプレとか)、歌が中心の構成だからか、予想外の語りのリズムになっている。夢が先か、破滅が先か、時制が前後しているのか、一応は混乱もさせないが、因果関係があるのか納得もさせない。『ホーリー・モーターズ』後にそんなスンナリ物語ることはなく、何度も語られてきた愛と過ちが起こるべくして起こる。そのリズムが「ハプニング」抜きでもウィリアム・キャッスルの映画のように、何度見ても違う映画に化けるかもしれないし、ただ歪なズレとして残るのかもしれない。そして最後の展開は漠然と予想していたのに、もの凄い緊張感だった。これほど凄いものはもう見られないんじゃないかというくらい。
それにしてもアダム・ドライバーのコールアンドレスポンス映画としてだけでも全然いける。クレジットにも出てくるクリス・ロックのことなど予感も何もなく、それもまた起こるべくして起こることだった。恐るべし。カラックス本には青山真治監督からカサヴェテスの名前が出ていて、やはり真っ先に連想した。ロッセリーニ『自由は何処に』の面白くないトトの裁判中には笑い声が上がり続け、ハワード・ホークスはどれかのインタビューで最近の芸人はテレビで笑い声を入れてもらわないと自分たちがおかしなことをやっているのかさえわからなくなった、と言っていた。『監督ばんざい』の江守徹が「笑っちゃダメ!」と言いながら笑うに笑えないダンスを壇上で披露するのも凄まじい破壊力があった。『インランド・エンパイア』でもウサギの着ぐるみショーにも笑い声が被さった。『アネット』にも人形は出てくるが、そこに北野武と通じる興味はあるだろうが、ここまで人形は人形のまま動いていなかったし、彼を笑い罵る人々も「聴衆」としてはっきりとは出てこなかった。これをどう受け止めるべきなのか。それでも『メルド』の眼帯をした、女性器の形の目をした日本人たちよりも、批判的に扱われているだけには見えない。ただ彼らからのツッコミなしにありえない様がおかしい。マリオン・コティヤールとのセックスは『陽炎座』のように大事なところを隠しながらも激しい。
昨日は自宅にて『ポンヌフの恋人』を見直したが、本当に主要人物が3人しかいない。それでも二人、三人だけの世界とは言えない感覚を「ドキュメンタリー的」という言葉で片付けたくないのだが、『アネット』もほぼ二人だけ、三人だけ、みたいな世界でありながら、もはやジャック・タチの名前を出す必要もなく主要人物という概念など最初から捨ててしまいたい、それだけで底無しの深淵そのものだった。