『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』『イーオー EO』

金子由里奈監督『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』を見る。
ロバ映画ではないが、ぬいぐるみの主観ショットはある。
自分が20歳くらいの頃に聞いた、台詞に「ちょっといい?」などのエクスキューズが入ったりすることで芝居が遅く長くなる、という話を思い出す。
あれから15年ほど経って、そうした良くないと思ってきた遅さがたまりにたまった分、ついに語るべき中心となったような映画。別に何もわかってないという意味ではなく、そんな「ちょっといい?」なんて台詞があるわけでもなく、ただただ「これは長くなりそうだな」と予感する。そこに意味があるわけだが。たしかに長過ぎるような、そもそもどうあっても長過ぎるというか、どう落とし所をつけるかわからない映画だが、ラストは意外ときつい。いや、見ている間も予想外に重い。『眠る虫』に続き独白とも、テレパシーで聞いてしまったような声のような、いろいろ飛び交うが、そのあたりの試みはまだうまく機能しきれていない気もする(その発声をどのようなものとして聞かせたいのかがやや題材によりかかっているような)。むしろ今回は独白のはずのものだった声をうっかり聴いてしまう話と、終盤のカットバックに至るのだが、この聴いてしまった話のほうが時制をずらして明らかになるというフラッシュバックの挿入が、何も省くことなく淡々と過ぎていたような時の流れを掻き乱す。この戸惑いが本作の最も胸騒ぎを起こさせるところかもしれない。

イエジー・スコリモフスキ『イーオー EO』。もう公開始まったばかりなのに周りでは感想が出尽くしたような気がする。
だがこれこそ、まずは見てみないとわからない映画そのもの。冒頭まさかの獣姦か?と思った。ロバってこんな早く起き上がれるのか。ロバの顔を正面から見た長さに合わせたスクリーンサイズ?というような1:1.50という不思議な画。終盤いきなり出てきたイザベル・ユペールの顔もロバに見慣れた状態だからか、ますます線対称の妙な顔を見たような。そして意味不明な皿割り。言葉も種族も壁を超えた演出が炸裂。なんのためにカメラ前で右往左往しなければいけないのか、誰より理解してるのか、最後まで何もわかってない憐れなロバなのかは、見ている誰にもわからないが。それは同じ人間でさえ何のために映画がなければいけないのかよくわからないが。動物園もサーカスもサッカーもある世に、それらの存在が揺らぐ現在かはわからないが、映画が自らの存在を賭けてロバを全力で走らせる! 蜘蛛の糸の美しさに、梟の妖しさにも惚れ惚れ。『戦火の馬』だってここまでやらなかった。予想通りに容赦ないラスト後の字幕で笑ってしまった。

一人の人間が複数の役を演じていく、もしくはその役でありながらその人自身でもあるということが、たとえば北野武レオス・カラックスにあるなら、ゴダールの犬ならそれでも彼の犬自身だったかもしれないが、EOは違う。逆といっていい。EOは5体近くいるロバそれぞれに名があり、ロバたちの名は一堂クレジットされるが、彼ら?が一体となってEOらしい。動物や子役では珍しいことでもないわけだが。しかしEOはドニ・ラヴァンが与えられた役とも近いかもしれない。サーカスの道化から始まって、その演じるという「虐待」から「解放」されてロバのあるべき形を求められたのか。それともこれからは彼自身であるよう呪われたのか。彼はロバではなく運動や、鳴き声そのものなのか。一方ある場面では死を演じかけ、ロボットにさえ化けるのだが、ある意味、馬への憧れさえ、そんなのを連想するのは映画を見る我々人間の勝手な連想と言われたらそれまでだが。これらロバに託したイメージと音の連なりみたいな映画。
ロバという生き物にはなぜだか、そもそも動くということ自体への疑問があるのではという気さえする。「イーオー」が鳴き声だとして、そこに『猿の惑星』の発した「NO!」というニュアンスとも違う。YESとNOの中間というほど曖昧なものでもない声。なぜ目的を持って動く必要があり、それに疑問を抱かないで従わなければいけないのか。動物が人前で何かをやって喜ばせるという行為はいつから始まったのか。動物は自分たちが人間の前で何をやればいいか、わかっているのか。サーカスという動物に役を与える舞台の延長として、動物たちは映画に役を与えられてきただろうが、そこで好き勝手でわけのわからない様を喜ばれてきたのか、餌と信頼のために身に着けた芸でもって喜ばれてきたのかわからないが、振り返るなら映画の始まりまで遡れる題材だが、彼らがカメラの前で、そもそも人前で演じるということをわかっているんじゃないかという時に人間が抱く驚きというか、不安というか、本当に意思が通じ合うなんてありえないほうが安心というか、何か土台が揺らぐものがある。人間でさえカメラの前でやることに納得いかずわけがわからないことがある。この映画のユペールが自分が何をしているかわかっていると、こちらが思いたくない何かとして撮られている(どこか壊れた人形のような)。だからロバにこの映画という装置がわかってたまるかと思いたいし、ロバは自分がどうしてカメラの前で右往左往するか分からないでいてもらいたい。だって、そもそもロバには映画を見る愉しみなんかないはずなんだからと。映画など見なさそうなナヌークさえ映画が何かをわかったがアザラシにわかるわけがないだろうというような。ロバ達は本作を見たのか? 映画も鏡も理解できない動物は、映画に出れても映画が何のためにあるのかわからないはずだと。だがどうも本作のEOとなった彼らにスコリモフスキは映画とは何かを、演じるとは何かを、人前で振り向いたり走ったりするとは何かを、撮影とは何かをわからない限りは映画が死ぬと言わんばかりの賭けがなされていたんじゃないかとも思いたくなる。その演じた果てに待つのが牛と共にサラミになる運命だとしても。人間達だって役名も誰かもよくわからないが、悪気はないがナンパにしくじる彼だって殺されるときには殺される。もしくは複数の人間が死と破滅へ向かうパズルのピースに過ぎなかったかもしれない『イレブン・ミニッツ』のようにロバと人たちが『イーオー EO』という生と死へ向かっていったのか。