マチュー・アマルリック『彼女のいない部屋』あれよあれよという間に……(と黒沢清監督が書いていた)な映画で、よくわからないところもあるが悪くない、良い感じの映画だった。『バルバラ』もそんな映画だったが。マルセル・アヌーンの四季シリーズのことも思い出した。マチューの四季なら、じゃあ季節は何なんだとなるが。雪景色はとりあえず出てくるが冬という感じかもわからず。マチュー・アマルリックの映画といえば、これも青山真治監督のベストに入っていたのかなと思いながら見た。序盤の酒場で旦那の名前呼びながら後ろから客をハグするところがチョいとエロい。マチュー・アマルリックをベン・スティーラーと並べたくなることがある。『LIFE』ぽいから? でも監督としても役者としても似てない。単なる思いつきか。ともかくもっとマチュー・アマルリックに撮り続けてほしい。

左幸子『遠い一本の道』もアマプラにあった。鏡に映る左幸子の口元と音声がずれていき、左幸子の背中が映っているから余計に技術面の限界を逆手に奇妙な印象を残す(編集:浦岡敬一)。酔って帰ってきた井川比佐志が寝るまでに、家にいて迎えているはずの左幸子が画面外にいて、その場にいる人ではなくナレーションのように聞こえたり、それが彼女自身が監督ということと、その彼女の妻としての役割とが重ねられているような。軍艦島の音の出ないピアノが忘れがたい。窓に映り込んだ人物の語りも面白い。監督としての左幸子も凄かった。田中絹代左幸子マチュー・アマルリックも、役者でありながら重要な監督だった。終盤の1シーンしか出てこない西田敏行に笑う。

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まだパラパラめくっただけだが、ついにこんな本が出たか!という驚きはある。
アケルマン特集謎の人気ぶりは噂に聞いたが、結局なんだか「じゃあ今回は初見の人にお譲りしよう」と、まだよくわかってない人間のくせに見に行かなかったが、もしかすると渋谷ミニシアター界隈ではヴェーラ安藤昇特集以来の賑わいだったんだろうか。
それはともかく。
アケルマン特集毎日のプログラムが記載され、その日の各回に行った人の日記が載る。いや、映画祭日記ルポ的なものはこれまでもいろいろあるが、これはもう本当に映画祭日記というよりアケルマン特集期間中のある人々の日記なのだ。
まあ、アケルマンに関する文献として充実してるかはさておき、こんな映画ジンはなかなかない(どの特集でもできるわけではない)。
そして自分みたいな退屈な映画オタク風の中途半端人間はもう何もかけない。僕って魅力もないし孤独も知らないウザいだけの甘えん坊ですからね、そんな人の日記読んで心の支えになる人はいません。まあ、映画好きらしき中途半端人間というだけなら腐るほど居場所が仮想空間に用意されている。
嫉妬。それしかないが腐った記述にやはりなったが。記念に買って損はない。いや、そんな浅ましい書き方は望まれないだろうが。

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高橋ヨシキ監督『激怒』を見る。「意外と歪なのが面白い」と聞いていたが、本当にゴツゴツするところほど面白かった。そこらの映画(具体名はボンヤリ思い浮かばない)よりは本作やマチュー・アマルリックの映画のほうが面白い。まあ、マチューはまた撮るだろうが、本作みたいなことは何となく今後厳しい気がする。いろんな意味で嫌なくらい微妙な時期だから、最初で最後かもしれないが、映画を撮るとはそういうことかもしれない(いい加減なことばかり書いた)。
そして川瀬陽太を見ているだけで何だか面白かった。一本の映画の中でどういう人物なんだかうまく言葉にできないが。ともかく川瀬陽太という一人の人間と、映画が作った川瀬陽太(ビールをマシンのように飲んだり気づいたら土下座したり激怒したり腕から骨が飛び出したり冷静になったり鳥を見たり)が両方ゴツゴツ存在して、何がなんだか意外とわからない良さがあった。それは歪ということかもしれないが、映画を見ながら、もっとこういう役者と映画をめぐる謎に浸りたい。
中原翔子の署長がよかった。最初に暴力振るわれるのが吉岡睦雄なのもよかった。憎たらしさでは向かいに座ってるのが見えた時点で喧嘩するのがわかる、ダンサー相手にしつこく絡む刑事二人組(一人を足立智充)が断トツだった(妻夫木聡ぽいが)。あまり殴られてるように見えないのが残念だった。新署長登場の音楽は笑った。西山真来さんは残念ながら良い出番なかった……。

大森立嗣『グッバイ・クルエル・ワールド』。『激怒』と続けて見たら、何人か同じ人が出ていた。奥野瑛太はどっちも主人公にとって何の役にも立たない弟分で、どちらもよかった。特に『グッバイ~』の西島秀俊の過去を語るところが映画としてもよかった。『激怒』は署長以外発砲しない設定だが、『グッバイ~』は終盤になるほどほぼ全員撃って撃たれて出血。全員、身体に穴が開いてると思う。これもタラ風だったら嫌だと思ったが、各々の素性が明らかになりシブくなる。石井隆が亡くなって、北野武の新作がどういうわけかお披露目されない年の一本という感じだった(もちろん深作欣二中島貞夫のことも忘れていない)。さすがの鶴見辰吾片岡礼子だった。玉城ティナ宮沢氷魚の鉄砲玉ぶりが意外とはまったり、微妙に思ったりと、見守るような気分になる。良いか悪いかさえはっきり言えないくらい頭の中がモヤモヤしているが、でも全員主役だって思えれば、多少の微妙なところもどうでもよくなる。だってあそこありえないとか微妙とかタルいとか何とか言われても、まあ、みんないろいろあるというか、食うか食われるかではなく、誰もが食われていると伝わりはした。群像劇を目指せばいいという話ではないが。

映画館で見れる時にとも思ったけれど、結局ディズニープラスに加入してロバート・ゼメキスピノキオ』を見る。カラックスとゼメキスが人形映画を近い時期に撮るなんて、とこじつけたくなるが、質感は全然違う。昔の映画とほぼ同じ(らしいが、そもそも本当に見たかも怪しいくらい覚えていない)はずなのに、評判通りゼメキスの映画。冒頭の時計からして怖い。悪ガキとロバも怖い。そして酒と魔女がまた出てくる。引きこもりのトム・ハンクスも雨の日に今回は外へ出ざるをえない。『キャスト・アウェイ』以来かもしれないトム・ハンクスの溺れるシーンもある(ということはピノキオはウイルソン君か?)。25~30分近くの時間を飛ばさずに続く冒頭のシーンに対し(このあたりも昔の映画と同じなんだろうが『マーウェン』といいCGによるミニチュアと実写の世界が繋がって、じっくり進む時間が作られていく)、その後のわずか一日だけの凝縮された旅、前作の魔女映画に続く始まりと終わりの構造も相まって、もう元の場所へは帰れないという気にさせる。褐色の人形遣いピノキオの交流が終始とにかく泣かせるだけに、その合間に出てきた悪ガキとロバ頭の怖さがまたおかしい。

高橋洋『ザ・ミソジニー』そうきたか……という。リモート映画を経てのヒロシヴィッチ流「上演の映画」解釈の現時点での到達点? もう怖いとかおかしいとかトゥーマッチな印象もどうでもよくなって、ただただ「そうきたか…」と繰り返し心のなかで呟いた。その意味で「ミソジニー」というタイトルのことも見ている間は忘れた。舞台へ行くまでの森が素晴らしい。根性悪い女も出てくる。河野知美とは何者なのか? かつて『大砂塵』を「最も狂った映画」と書いていたり、『YYK論争』はじめ沖島勲の映画の母・女優・女について語っていたことなど思い出した。ともかく高橋洋の世界には置いていかれても、しかし映画自体は「そうきたか…」の試みの連続で、その役柄や舞台の変化が興味深い。