www.yebizo.com

石原海特集@恵比寿映像祭へ。改めて映画として見ると、画の繋がりの歪さによるものなのか、アシッドさがクセにはなる。音声だけ聞くなら嫌いにもならないが、なにか映像に受け付けがたいものがあったのも事実で、演出も、編集も、画面も、明らかにコントロールしきれていない点を抜きに題材を語るのは、この作家について語ったことにならないんじゃないか。上映後の質疑でルイヴィトンと北九州という仕事の振り幅について聞かれたのも、ハーモニー・コリン!的と言えるかもしれないが、映像の美学をコントロールしきれていない、というよりも抗い切れていない気がしてならない。黒沢清の『リアル』に出てきたフィロソフィカルゾンビ風の存在が出てくる『狂気の管理人』も、その映像をコントロールしきれているか危うい。しかしコントロールできていない歪な浮き方がアシッドな印象に繋がるのも事実であり、『汚れきった天国』の移動撮影に、『愛は死より冷たい』や『花婿、女中、そしてヒモ』の、もしくはアケルマンの移動撮影のチープな転用としてふてぶてしい。GoPro使おうが、その技術として使うというよりも、カメラに備えられた性能に抵抗せず使われているんじゃないかという危うさはあり、画面分割にしても、それが漠然と10年前にイメフォかアップリンクでやってたかもしれないことの繰り返しとか勝手に印象付けたくなる使い古した装いも、題材さえも、最初はイラついても無視し難く、無謀さが作家としての特徴かもしれない。『重力の光』なんか天使の翼みたいな雲が実はCGだとしても偶然だとしても、どちらにせよ驚かない。すべては運命のようなものかもしれない。そこに本当にそんな雲があってもなくても、そうあらざるをえないくらい世の中は狂っている。海と渚の連想でいえば大島資料集にて学生時代のオーシマについて「派手好き」だからアカデミズムの世界にはいけないと止められた話も、なんとなく思い出す。『私はペレット』や『青春残酷物語』など初期作の色彩と、この作家のドギツさを重ねていいんだろうか。ただ、とにかくそれらに批評性があるかは怪しい(大島の赤は日の丸と切り離せない)。コマーシャルとしての映像を受け入れるのは何も貧富の差など関係ないんじゃないか。音声や文章だけなら興味深くはあっても聞き流していたかもしれないが、映像としてあると無視していられない歪な存在として目立つ。まずは字幕が目に入る。映画と字幕。字幕のない状態が常に映画の理想かもしれないが、字幕が「まずはじめに言葉があった」と記す。『ガーデンアパート』といい、繰り返される「愛」はドラマではない。ただ言葉だ。死ぬほどくだらないセックスができるくらい自明であるが見えない。生い立ちは語られても、言葉は費やされても、そのいくつかは言葉だけのものとして画面から抹消されている(『汚れきった天国』のカップルが途中まで姿を現さないのが象徴的だ)。もしくは既に画面のなかにしかなく今は消えているかもしれない。愛は撮れても、もう現実には失われかねない。それでも、どんな映画でも(それが映画として受け入れられなくても)存在してしまったものは避けられない。