『呪怨 呪いの家』(脚本:高橋洋・一瀬隆重、監督:三宅唱)

『未来の巨匠たち』より「三宅唱監督について」(田中竜輔)

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「楽しい三宅唱」(工藤鑑)

http://blog.livedoor.jp/mirai_kyosho/archives/51401613.html

「ワンピース!新旧バトル」について

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霊的ボリシェヴィキ』の流木を見下ろす「釈然としない」感じこそ近年の高橋洋の本領発揮だとしたら、今回もスッキリした解決もなく話そのものは終わった。だがその終わりは『やくたたず』はじめ三宅監督の映画らしく、この後もいくらでも続けられそうな「始まり」の予感を残した(実際「シーズン1」と書かれてはいるが)一応の終わりでしかなく、その意味で『呪怨』の前日談(?)に相応しい監督かもしれない。穴を掘っていた彼女が消されて終わりではなく何となく平然と7話へ続いてもおかしくない(『Playback』のラストカットか、もしくは不動の『バック・トゥ・ザ・フューチャー』とか何となく『ファンタズム』とか)。

それでももうしばらくホラー映画は見なくていい、新しく作られても興味は湧かない気がした。無理して幽霊らしきものを出したり消したり幻視したりする様を演出するのなんか無意味だったかもしれない。少なくともある時期までは映画に幽霊は出せたかもしれないが、実はもう撮れなくなってしまったのか、それか誰も人と幽霊の見分けがつかなくなってしまったのか。それくらい、いま目の前にあるものへの関心に振り切っている。いま映っていない何かの予感というのを排除する。かつての『呪怨』以上に、人が扉を開けて入るシーンを撮る。ただしそこから抜けられない。おそらく脱出という概念がない。『果てなき路』がよぎるのは三宅唱監督がモンテ・ヘルマンの家に行ったという話があるからだろうか(『キューブリックの恋人』なんか実話怪談っぽい)。急な人物の消滅も(すぐ連想してしまうのは『ツイン・ピークス』シーズン3の電撃だが)そこに叫びと振動と焼け焦げた跡を残す(ただこれも実話か?)。本当に突然消えるなんてことはない。ディスコの女の子二人も消えるというより、扉を開けて先へ行っただけのように、いつか姿を見せるだろう。『スパイの舌』第三部のようにモノクロ映像との切り返しもあり、窓の内と外が時空を超えて現在として結び付けられる(『マイムレッスン』の段階で少なくとも繋ぎは意識される)。あの家の時空が捻じれて、鏡が目につくのは(監督自身が映画秘宝インタビューに『マリアンヌ』を出しているように)ゼメキスをどうしても連想させる。

ゼメキスの映画は怖い。『ロジャー・ラビット』オープニングのアニメさえ怖いかもしれない。だが『呪いの家』は恐怖以上に、いやな感じが上回る。それはディスコなら渡辺護、若い娘の犠牲者ならウェス・クレイヴン、肉体と物体の融合ならクローネンバーグ(いや受話器ならウルマーか?)、窓ならジョン・カーペンターとか、あてもなく思い浮かべたところで答えになるかわからない。なにげにこの胸騒ぎが収まらない家庭は『王国』(草野なつか)に近く(足立智充も酷い目に)、問題の電話機と胎児を抱える松嶋亮太(『恐怖』『呪怨 黒い少女』『スマホを落としただけなのに』)は濱口竜介に見えなくもない(と知り合いが言っていた)。それでもこれは恐怖なのか宙づりにする感じは三宅唱×高橋洋だからこそ辿り着いたものに違いない。

やはり驚くほど(当たり前か?)三宅唱監督の要素は詰まっている。三宅監督の作品が増えるほど、ようやく何か言えた気になれるかもしれない。『スパイの舌』からはモノクロの窓だけじゃなく妊婦の腹(『ミュンヘン』?)も電話のコードも出てくる。交霊のシーンさえ三宅唱ならワンピースシリーズの焚火を囲む『2067年、東京』を思い出す(鈴木卓爾監督が「三宅監督はワンピースが1カットではなく、タイトルと映像の2カットの繋ぎによるものだと知っている」と評していた)。そもそも西暦のタイトルも、このいつまでも学生服の人物が動き続ける繋ぎを見るのも『Playback』どころか『1999年』(工藤くんが見たという噂の『ランニング・ショウ』?)から始まっていた。

それでも高橋洋の映画にどう言っていいのかわからないし、三宅監督の映画は感想がなかなか言えない。『一度も撃ってません』酔っぱらった殺し屋の夜を、もしくは『デッド・ドント・ダイ』闇に浮かぶゾンビの顔を、あと何度新作として見れるだろうとか、まだまだ若い癖に背伸びして感想を書きたくなるが、三宅監督の映画はそんな決定的な最初に立ち会えたような勘違いはさせない。あくまで現在。誰が『密使と番人』を見て「最後の時代劇」とか言って決定的瞬間に立ち会った気になるだろうか。『無言日記』のそれは一回限りか何度も繰り返させてきたことかは誰にもわからない。映画は荒川良々の研究者のようで、そうでもないのか、わからない。自分がなぜこのような「行っちゃいけない」場に選ばれ、立ち会う運命の中に生まれたのか、答えを言っていたのか思い出せない。そんなことにいつまでも興味を繋ぎとめない。毎週我慢する必要もなく暇さえあれば一気にラストまで見せてくれるネットだから、熱しやすく冷めやすいかもしれない。そして夜がそんなに怖くないのも、ここにはやはり霊と人間を、闇と光を、色彩の存在を見分けられる人間こそ消滅しつつあると、「映画とはこういうものだ」みたいに若者の悩みなんかどこ吹く風とばかりにやってきたことを、さらっと「それはできなくて仕方ないんじゃない?」と優しい声で絶望に突き落とすようにささやいているのかもしれないが、いや違う、見分けられないのは他でもない「これを見ているお前なんだ」ということだ。

映画秘宝高橋洋インタビューも読んだ。一番興味深かったのは「天皇崩御はあえて触れなかったのですか」という問いに「霊的国防」にまで話を広げると収拾がつかなくなる、そういう背景に触れないと単なる時代区分の記号みたいにしか思われないのではないかと外したという点だが、これは結構引っかかる。霊的国防版『呪怨』もぜひ見てみたいが、それは『共食い』ラストがラジオなら、こちらはテレビに文字が出てからの女子高生コンクリ詰め報道を経て禍々しい平成の連鎖は十分にアリかもしれないし、それこそつまらない発想なのかもしれないが。ただ「時代区分」というのを何としても避けたかったと解釈すべきなんだろうか。