『ゴールデン・エイティーズ』『119』

シャンタル・アケルマンの『ゴールデン・エイティーズ』をようやく下高井戸シネマで見る。
なんとなく見たふりをして知人と話を合わせてきたが、これでようやくスッキリ。
拳銃魔』のポスターやら何やら映画館に貼ってあって、今作はジョセフ・H・ルイスというかアラン・ドワンのような、B級のフレーミングにブレがない映画監督たちのことを思い出させる構え方でもって、バストショットも、複数人が歌い踊るショットもフィックスでキマってるなあと改めて。「彼女は頭がおかしい」なんてナンバーが良い。やはりアケルマンは窓枠とか撮る作家だけあって、今回はスタジオ内のショーウインドウに囲まれたショップが主な舞台なのも印象深い。試着室が懺悔室じゃないが、あの半端にカーテンで父親が息子を隠しているのもおかしいが、階段での行為を第三者が容易に出歯亀できるというか、隠す気があるのやらないのやらという感覚がおおらかに不倫を肯定しているかといえば、そういうわけでもない。行為を目撃した人間が次にどう出るかの舞台間の移動をワンカットで撮ってしまうような早さが印象に残る。最終的には両親(というかデルフィーヌ・セイリグの一種思いやりというか)が息子に捨てられたウェディングドレス姿の花嫁(あの走ってくる姿がなんだか悲しさを通り越しておかしい)を「一生苦しむより今泣くのがいいでしょう」などと言いながら現実の陽がさす街中へ出る。このデルフィーヌ・セイリグとジョン・ベリーに息子世代が絡んで行き着く苦さを、ここで自分みたいな幼い人間がわざわざ書くものでもないが。セットからロケへとつなぐ結末が、漠然とヒッチコックを逆向きにしたような感じというか、あのウィンドウに映り込む人物の揺らめきが見えた瞬間から、ここからは外に出るのかとざわついてくる。「あなたが海を幸せに走ってる未来が見える」といった話が重なるからか、それともこれから先は見えないのか。

 

すっかり行く機会も減った神保町シアターにて竹中直人監督『119』を見る。
物心ついた頃から鈴木京香といえば失礼ながら、おじさんたちがはしゃぐ相手という印象で、鈴木京香を前に照れてるおじさんを見ては「おじさんだな」と子供心に思っていたものだが、そして鈴木京香は毎度おじさん達とは結ばれることなく終わる。それは『119』でも変わらない。温水洋一が記念撮影ではしゃいで足元抱きしめたりするのを笑って済ますのが悪い意味で記憶にも残るが、それはさておき、最初から何を思ってるのかわからないが電車に揺られる鈴木京香が既にやたら魅力的に謎めいて撮られていて、ここに赤井英和竹中直人温水洋一も、特に爽やかな塚本晋也も可愛らしく(しかしいきなり襲われる目に遭う)、そして当然のように誰かが特に抜け駆けできるわけでもない。それでいて誰も彼も全力で走るのが良い。玩具の消防車を窓辺で動かす鈴木京香赤井英和と消防車に乗って子供時代を振り返りながらカメラが車窓越しに180度回り込むショットでのサイレンを押すくだり、竹中直人と二人並んで夜道を歩く後姿、何よりついに降り出した闇夜の雨に傘を差して歩く姿などが、撮影・照明・演出あってか、どれも妙なおかしさとセットでたまらない。小津や周防というにはさらにクドいんだか、あっさりしてるんだか、端正というには済まない脱線とか、わからない塩梅が全編ちょうどいいというか、役者の監督作らしいというか。なんといっても須賀不二男が素晴らしくて、竹中直人のコントというか掛け合いの中でも、鈴木京香が訪問してきて急に風呂を炊き始めたり、はしゃいでるのが見えたり、一転釣りをしている場面での鈴木京香と並んでの「面倒くさくなって」という話が出たり、何よりあの顔で退場というのも面白い。嵐の夜、署内の窓辺に、なんだか偶然かホークス『コンドル』のことがよぎって(若き浅野忠信のギターを手にした姿や、「津田さん」という台詞が多い津田寛治もよかった)、そこで鈴木京香竹中直人の別れがあり、その追いきれない切なさがグッとくるが、赤井英和と彼女の最後はどんなだったかさえ初見では霞むが、救急車の玩具を思い返すとさらに愛おしくなり(あの二階のカーテンを見上げる場面の色っぽさ)、一方でここについに誰か仲間が犠牲になる事件でも起きるのかと思いきや、なぜか猿との戦いになり、無意味に日の丸が目につく。そして久我美子は言うまでもなく見ているだけで感動させる。