2/12 リー・ルイジュン『小さき麦の花』ユホ・クオスマネン『コンパートメントNo.6』

リー・ルイジュン『小さき麦の花』一部高評価を聞き見に行くが、国際映画祭にて評価されたアジア映画(中国映画)という型の退屈さをどうにも超えるものには見えず(要はフィルメックスで見そう)、きつい。収穫やレンガ作りに中国には見えない画面の力とかショットの連鎖というのはあったかもしれないが(その意味でホアン・ジーの映画よりは見所あった)、勉強してるんだろうなという。特にロバの名演(ロングでチラッと振り向くカットバック)には不覚にもウルッときたし、ラストカットのロバ登場は変すぎて流石に予想できなかった。だから『やまぶき』(山崎樹一郎)みたく「馬の撮り方がよくない」とか批判はされないだろうし、たぶんジョン・フォードも山崎監督より見ているんだろう(失礼な憶測だが)。でも『やまぶき』がヤン・デデ、リモザンからの指摘など受けて切り詰めていった結果、『小さき麦の花』よりエモーショナルな映画になったと思うのだが…そのほうが価値があるんじゃないか。

ユホ・クオスマネン『コンパートメントNo.6』を見に行くと、初週の日曜日だからかわからないが満席で驚く。自分も見に行っておいて何だが、すっかり人気の監督なんだな。『オリ・マキの人生で最も幸せな日』は良い映画だったはずなのに、もうほとんど具体的に思い出せない。ただスコリモフスキの初期作を彷彿とさせるモノクロのボクシング映画だったはずだが、それも自分自身の感想ではなかったかもしれない。今回はヒロインがロシアへ旅をする光景にアケルマン『アンナの出会い』『東から』を連想させるものがあるが(彼女にはレズビアンの大学教授の恋人がいるが、彼女自身の性的指向は曖昧だ)、列車にて同室の男の佇まいにロシア人のステレオタイプらしきものでありながら、同時に前作の主人公もそうであったような(監督の写真を見る限り決して分身のような外見ではないのだが)不安定な内面を抱えた人物像を引き継いでいるように見える。両者の友情とあえて呼びたくなる関係を育むことになる展開が、題材の面で危なっかしくも(そこでの性とロシアの扱いはどうするべきなのか)、しかし列車という舞台も相まって古典映画的な恋愛関係の有り様を結び付けたくなる。監督自身にとっても型にはまるか想像の域を出ないものになりかねない男女を、どこか幼く無謀な面をもったままとしか思えない存在として留めているのかもしれない。それでも仄めかしや清潔感のある描写に抑えるようなことはせず、むしろ感情の域にとどまらない互いの肉体に見える反応と接触として、それ以前のある闖入者の登場(ここで物語上でも演出上でも重要な小道具の一つだったはずのビデオカメラを失う意味は大きい)と、食堂車へ移動しての時間(そこで交わされる一枚の紙がビデオカメラに代わる記憶を呼ぶことになる)から飛ばすことなく緊張感を一気に高める。ここでの涙と接吻を引き出す演出の、映っている人物の生のものに触れてしまおうとするような欲望と(「接触」というのは映画冒頭でもマリリン・モンローの言葉として、やや観念的に扱われる)、それを跳ね返さなくてはならないと抑えるような激しさは凄い。ここへ来て「友情」と呼ぶことも「恋愛」と呼ぶことも無理のある関係は、舞台をホテルへ移して、ツアー中の彼女のビデオカメラもなく剥き出しの顔に冷気の、風の、そして光の当たるショットこの光の輪の鮮烈さが『よだかの片思い』にて試みられて、しかし実現できなかったものではないか)、さらに両者が再会を決めてからの(それが作家の空想上の性善説に過ぎないという見方もあるかもしれないが)ただただ情の溢れ出ているような、それが氷となって滑り、雪となって役者にも画面にも迫って、あまりに激しくて死んでしまいそうな(スコリモフスキとアケルマンの出会いと言いたくなる)ことをさせているのに、それでも両者の維持され続ける状態は何と言えばいいのか。最後の親切心、人情でありながら心中でもあるような、破壊的かもしれないが、あえて愛というような。だがここでどう言葉にして解釈するか一人考えていても時間の無駄なんだろう。再会してからのやり取りの合間に涸れが「怠け者め!」と言うときのロングを挟む視線は繊細だ。ラストカットの光の色の変化に不意を打たれる。