『コンパートメントNo.6』と『小さき麦の花』について

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ここで須藤健太郎氏は『コンパートメントNo.6』を主題の面で批判していて、『小さき麦の花』をショット(「映画の原理」)という点で評価しているのだろうけれど、『小さき麦の花』の知的障害のある妻であったり、血を売らせたり、強制移住であったり、このあたりのジャ・ジャンク―が国際映画祭で評価されて以降の中国映画というような、社会の現状を寓話的なタッチなども交えて伝えようという時の出来上がった型から肝心なところではみ出していない(つまり驚きも刺激も最終的にはない)。ロバやレンガの撮り方や、たとえば夫が収穫で体力なく倒れる妻に強く当たってしまうショットから、手前で倒れている妻に対して、奥に難なく隣家の夫妻が麦束を運んでいるのが見えるショットへ繋ぐところなど見どころはあるが、こういうショットとショットを繋ぐ時に「映画の原理」はあるとしても、しかしそれも「映画の原理」を参照したにすぎないというか、ある評価される枠をはみ出さず学んだ結果という以上のものになっていない(ヨーロッパ映画化した中国映画というか)。ユスターシュの『豚』や『ペサックの薔薇の乙女』に比べたら、「原理」を参照しただけの型にはまったものでしかないように見える。
それよりは『コンパートメントNo.6』のロシア人の描写に須藤氏は都合のよさを感じ取ったのかもしれないが、ユホ・クオスマネンの映画に対する姿勢はもっと慎重ではないか。列車という舞台にある映画史を意識しながら(35ミリの選択)、またそこにいる男女の出自に今日的な主題はあっても、いま役者たちと対峙して映画を撮っている段階と主題が深く結びついてしまうものだという生々しい緊張感と、それゆえの危うさが伝わってくる。それに比べると『小さき麦の花』は「映画の原理」の参照でしかなく、緊張をもたらすことがない。『小さき麦の花』の段ボールから漏れる光よりも、『コンパートメントNo.6』の窓に射すオレンジの光の方にこそ驚きがあるんじゃないか。