『ブードゥーマン』(または『アンニー可愛や』のこと)

『アンニー可愛や』(25年)がよかったウィリアム・ボーディンの『ブードゥーマン』(44年)がアマプラにあったので見る(既にブロードウェイのDVDが出ていたのも今更知る)。なんと主役がB級映画専門の脚本家という設定(ブードゥー・ゾンビ映画の脚本も書いたことがあるという)かつ事件を追うきっかけが、プロデューサーから事件を取材して脚本にしてくれないかと依頼されたから(そして偶然そこが婚約者の住む地方だった!)という話だが、どこかコッポラの『ヴァージニア』を思い出さなくもない。そんな主人公が初めて現場へ辿り着いてしまうきっかけもガソリンスタンドの雑談の多い従業員との行き違いのせいなのだ。他にもひどく間の抜けたやり取りが多いのに、出来の悪さよりユーモアとして楽しませるあたり、さすがの演出力。何より初っ端からガソリンスタンドに隠された通信機、遠隔操作で移動する草木、そこへ地面に掘られた隠し扉から出てきた手下二人組(一人はジョン・キャラダイン)が人力で偽の通行止めと迂回路の案内を出し、怪しげな電力装置が車の動きを止める、この一つ一つの装置をワンショットで見せるリズムからして引き込まれる。ベラ・ルゴシ演じるマッドサイエンティストがゾンビ化した妻を元通り蘇生させるために、誘拐した女性をドナーと称して、ジョージ・ザッコによる儀式で魂を移そうとしているのだが、この儀式も二本のロープの端と端が動いて本結びになるというのが実に視覚的にわかりやすい。それにしても死んだ妻も、儀式によりゾンビ化してしまう女(主人公の婚約者のいとこ)も非常に美しく、彼女たちのアップや歩く姿で映画の格がグッと上がる。特にベラ・ルゴシも気づかぬ間に階段を下りてくる妻をめぐっての緊張感に対して、単にC級映画のように扱うのは勿体ない。このあたりにも『アンニー可愛や』の当時33歳のメアリー・ピックフォードをおそらく10歳前後の少年たちと同年代の仲間として登場させ、明らかに困難な設定を実現させ、なおかつ彼女が父を亡くしたことを同僚の警官から聞かされ涙するまでの感動的なカットバックや、献血の意味もよくわからず(ここに作品全体を貫く信仰の主題は関わる)死を覚悟したままベッドに横たわる感動的なショット(さらに彼女の残した手紙を読む友人たちのリアクションまで泣かせる)を成し遂げた力量が発揮されているかもしれない。一方、ベラ・ルゴシらのアジトに保安官らが辿り着いてしまうのが、これまた間抜けにも偽の迂回路を閉じ忘れたからというのを伝える並行モンタージュも、モンテ・ヘルマンがグリフィスと全く異なるリズムで『イグアナ』や『ヘルブレイン』でやったことに近いというのは言い過ぎか。ラスト、主人公は気絶して(そもそも彼は主役だったのだろうか)ベラ・ルゴシとその妻の生死の境を行き来しながら同じ場所へ向かっていくような結末が感動的だ。『私はゾンビと歩いた!』は43年だった。