『少年と犬』『十月のレーニン』『65』『アダプション』『アフターサン』『春の劇』『暗闇の秘密』『殺し屋ネルソン』『TAR ター』

ひょっとして気圧のせいか、前夜の酒が抜けないのか、寝不足か、せっかくの休みだがやる気出ない。『ター』を見る気力わかず、L・Q・ジョーンズ監督『少年と犬』をシネマート新宿の大きい方に見に行くが、なんだかその判断が最善だったかわからない一日。別に映画に満足いかなかったわけではなく、単になにやっても不安になる。
ペキンパー映画に出てそうで出ていないようなドン・ジョンソンが主役で、ペキンパー映画ならボー・ホプキンスみたく命を粗末にしそうな若僧の佇まいだが、犬のアシストでもってサバイブする。犬とのやり取りはもっぱらテレパシーなので周りの誰かに聞かれることはない(いやジョンソンは独り言みたく喋る)状況で、犬の報告を受けながら賊を狙う銃撃戦はさすがペキンパー組の名に恥じない編集で視点と音が行き交う(後半の結婚式から脱出する際の奇妙さも忘れがたい)。登場する野盗はじめ、犬の一時退場後に現れる心ないジェイソン・ロバーツら地下の住人まで、言葉は解しても犬以外ほとんと話の通じなさそうな奴らで騒々しい。ヒロインのスザンヌ・ベントンの話を聞いてるんだかいないんだかわからない状態で彼女の仲間を見殺しにしながらアンドロイドを待ち受ける。犬の表情を彩るライティングの効果が素晴らしいのか。あの不敵な片目がいい。足をひきずりながら痛々しくも、地下へ降りるドン・ジョンソンを見送る時の顔つきなんか『ワイルドバンチ』のエドモンド・オブライエンみたいな味わい(もしくは監督御本人か)。スザンヌ・ベントンを前に歯を剥き出しにしたり、「性交は醜い」と寝たふりしながら、マットを揺らされてる場面など見どころたくさん。

アテネ・フランセにてミハイル・ロンム『十月のレーニン』。
見た気になっていたが全く覚えていず。常にアテネで見ると始まった途端寝てしまうのだが、一回寝ないと椅子に身体が馴染まない、たぶん。
レーニンが素性を隠して借り暮らしをしたり、人から「レーニンに会ったことあるか?」と聞かれたり、自分をハゲと言ったり、演説前に「カツラはいりますか?」と聞かれたり、ユーモラス、かつ最後は結婚式にでも間に合ったかのような大団円でもって、大広間を埋め尽くした同志たち総立ちの拍手喝采、そこで自分が少し前に隣同士だった相手がレーニン本人だったと初めて知った男が「普通の人だ」と、しかし実に感極まった顔で拍手、インターナショナルをバックにこちらへ向けて笑顔のレーニンという切り返しの簡潔かつ贅沢なラストに感動。
走行する車からすれ違いざまに撃たれ倒れる人のロングから、ワンショットの中で死ぬ側を撮り、柱の影に身を隠しての撃ち合いを撮り、広がる戦いの気配をあくまで限られたフレームから活劇として演出する。特に通信室でのオペレーターを挟んでの撃ち合いにて発揮され、そこでは電話の繋がらないレーニンは事態の中心ではなく、遅刻してきた主賓みたいなものだ。しかし廊下から(それまで行動を共にし部屋に住まわせた委員が隊列の動きを止めるときのガードがライブ会場の警備みたい)ついにレーニンが姿を現し、同志たちから初めて「レーニン!」の声が彼に向けて上がるときに、おそらくレーニン達にはスクリーンプロセスを用いて、足を止めて画面に背を向ける通りかかった男を配置する細かさに高揚する。一方メンシェヴィキの委員たちを退場させる場面は、ほぼ委員全員を収めたショットと、扉を開けて突入し会場を埋め尽くすボリシェヴィキのショットとの切り返しのみというシンプルさ。中盤、銃を渡すよう求められた男が断ったことで一触即発の事態となるシーンでも、限られた人物たちのやり取りから、そこへ駆けつけた各陣営が銃を手に画面を埋める展開に。映される人々の多さ、豊かさに対して、カメラは引いて、フィックスで捉えるという演出は、今なら北野武『首』に期待したいがどうだろうか。

アダム・ドライバー主演『65』を見る。『グリーンナイト』の次はソラリスみたいな星から来たアダムが65億年前の地球に不時着して、同じく生き残った言葉の通じない少女と脱出のため宇宙船を目指す。虫がキモい。恐竜もヌメヌメしてそうで結構グロい。そんな中でアダムが走る。本当に今更だがアダム・ドライバーってブレない魅力あるのね。ちょっとキアヌにも見えたが。

メーサーロシュ・マールタ『アダプション』を見る。特集やるならヤンチョー・ミクローシュの方が先かと思っていたが。ヤンチョー、どうなんだろ、特集あったらあったで半分くらい通ったところでグロッキーになりそうだが。
そして夫婦の映画が似ている必要もないがメーサーロシュ・マールタの映画はヤンチョーと何一つ似てない普通に大人の映画だった。今は亡き岩波ホールで特集もありえたかもしれないが、客層も売り方も別物になるか。見ている間は「こんな木屑舞う工場でマスクもしてなかったら苦しそう」とか思っているうちにボンヤリ終わってしまう。去年ならラナ・ゴゴベリゼとか見たあとに近い朦朧とした気分であり、自分がいかにガキ臭いピンボケした未成熟野郎か思い知った。パンフを買えばきっと脳内もまとまるだろうが、それはもはや映画を見たのではなく紹介されただけというか、なんか美術館でボンヤリしすぎて画集だけ買ってみたような気分になりそうだから、ひとまずパンフも買わなかった。
別に悪い映画とは思わないが記憶になくなってしまったのは自分という人間が相当につまらない奴なんだと思う。
auスマートパスでピカデリー毎日1400円で見れると今更知ったのがショックで、なにがなんでもピカデリーで映画を見て元を取り返さなければと操られるように話題のシャーロット・ウェルズ『アフターサン』を見る。
ユリイカの表紙になるくらい話題の映画だが、A24配給以外よくわかっていなかったので、BBCとBFIのロゴが出てきて驚いた(監督もスコットランド出身)。しかも何となくニューヨークの話だろうと思いこんでいたがトルコでのバカンスだった。
そして冒頭から、ようやく予告を見たことを思い出し、何らかのサスペンスかと思いきや、本当に父と娘のおそらくほぼ最後に過ごしただろうバカンスの思い出をビデオで再生しつつ、当時の父と同い年くらいになった娘が脳内のイメージでもって相当に補いながら作り上げた映像というか。現在の娘もごく限られた場面しか登場しない。またしても私小説的な映画というか、閉じているとは言わないが。空や水面や映り込みや一つ一つ画が妙に凝っている(個人映画か)。終盤のデヴィッド・ボウイがエモいを通り越して、もう大したクライマックスがあるわけでもない映画にとって不要とは言えないが、フリッカーの凄さで迫ってくる。パパ誕生日おめでとうからのオーバーラップにはグッときたか。
というか、ここで自分が軽はずみな感想を書いたのより、他の人の評や、監督自身のインタビューを読んだら大体のことは書いてあった。

『アフターサン』に続きオリヴェイラ『春の劇』ドン・シーゲル『暗闇の秘密』『殺し屋ネルソン』。
映画は一日に四本も見るために作られてはいないんだなあと最近は思うようになった。『暗闇の秘密』は海辺の邸宅への前進も、海そのものも、果ては空を蠢く雨雲も、どれも距離感を狂わせるというか、目の前にあってたどり着けても手に取れるかわからない(ドン・シーゲルモンタージュ部門出身らしい奇妙な映像というか)。とにかく癲癇の発作で倒れたレーガンの前で吠え続ける犬のショットがいくつもあったり、また子供たちが拾った何かをレーガンが水辺で洗う手元に寄るから何か禍々しい物だったのかと思いきや、カメラは波紋を追って、浜辺に座って海を見つめるヒロインにオーバーラップするという具合に、何か事件が起こりそうで、意外とメロドラマに収束するのがさらに謎(昼に見た『アフターサン』にも父が夜の海へ入っていく不吉なくだりと、一転、娘の目の前に全裸でうつ伏せになる姿を晒していたりと妙なくだりが印象深い)。でもヒロインがふと振り向いて見せる涙の跡が窓からさす光に反射してるとかわかりやすいかもしれないが良い。
殺し屋ネルソン』は帰って『ショットとは何か』を読み直すことにする。

オリヴェイラの『春の劇』は久々に見た。そして見直すうちに、あらゆる点を盗んだほうがいい映画という印象は強くなっていく。英国ドキュメンタリー映画傑作選も仕事で見逃したが、こちらも再見しておけばよかったと序盤から思う(『ドウロ河』や『画家と町』といった優れたドキュメンタリー映画の監督なんだと改めて)。一つ一つ強烈なものが目に入る。何の試合か、中年の男二人が荒々しく木の棒をぶつけ合う。牛車が前進し、牛の角が視界を覆う。その牛車の車輪の音が耳障りになる寸前の鋭さでショットを跨いで響き渡る。一方では牛同士を闘わせあい、歓声をあげ、鍬やら傘やら何か手に上げている人々。どれも一つのフレームに収まりきらないものがあるが、こんなのは序の口である。ロバの嘶きが響いて、川を跨ぐ橋のポン寄りがある。床屋の前で新聞を読み聞かせる男へカメラの位置が寄っていく一方、羊の集団が橋を渡るショットにキリスト役の声が重なる繋がりなんか、いくらでも真似すべきなんだろう。役の衣装に身を包んだ女性が壺を手に家の外へ出た後、追って出てきた夫からの主観と思われる、彼女が頭に乗せた壺のアップ。その後、壺を乗せた女性が通りを歩くショットを繋ぐ際に、老婆が彼女に目を向ける切り返しが挟まれる、妙なおかしさ。そうして彼女を追っていくうちに、井戸に辿り着いて水を汲む彼女の手前をキリストが横切って話しかけ、すでに芝居がかった彼女(これは夫との決別か?)も最初から彼の問いに対して芝居の台詞でもって返すのだが、不意に彼女の反応が驚きに変わって、『奇跡』のヨハンネスじゃないが、走ってキリストの到来を声に出す滑稽さ。これは芝居じゃないのか? 漁師が網を手にしているカットから、彼女の声に顔を上げる時のアクション繋ぎというかギリギリのポン寄り。こういう細かいところに映画作りの妙な魅力があるんだろう。一方で、やや粉をまぶしたように白い花が樹に生えているショットが忘れがたいように、春の訪れが映画全体に満ちている。自然だけでなく、人々も行き交っている。唐突に車の外見も映る前から運転席からの主観ショットとして、ローマ兵の衣装を身にまとった集団とのすれ違いが挟まれて、声もまだ出さず、音声としての情報はほとんどないのに、車中から降りる若い娘の素足や、そこへ触れる男の手のアップは色っぽく繋げられていく。このあたりで自分の記憶はさらに危うくなり、省略するが、受難劇のくだりでの日の傾き、日が沈み、そこでキリストの声の震えも、また十字架を引き摺る音も、あの顔を拭くくだりでの歌声と、行列の手前と歌い手自身の境界を行き来するような、寄っては引く画の連なりも、ポンテオ・ピラトが出てきた後の、これまた滑稽にお役所仕事というか官僚的というか、ガタガタ行ったり来たりする集団の不毛さと(その間に疲弊しながらも女性たちは確実に目的地へ進んではいるのが生き様としてもすれ違う)、そうした上演として地続きの時間として構築されながらも、村の時間を日の傾きや季節の光で、空間を傾斜の加減によって、人々をアクションと音で彩るように編集したドキュメントであって、このどちらかしか目指さない映画が大半かもしれないから、いまだに古びていない。そして終盤の下から見上げたキリストの身体と日が陰っていくうちに、一気に、やはり必然的に現代へ結びつけられる。そこに主題の面では奇跡はなく、ただ、かつて村にあった奇妙な出来事のようでもあり、今もそれは繰り返されながら(ある意味、深沢七郎の世界に近いか?)、映画そのものの古びなさ、はからずも永遠であること、消せないこととして残り、銃声も原爆も子供の泣き声も古くなるという概念と無縁に響き、それらの連なりをできるかぎり繰り返し見なくてはならない。

 

直前の仕事の電話により調子を狂わされたままトッド・フィールドの『TAR ター』を見る。
たぶん自分合わないんだろうなと思っていたが、やはりそういうものほど見て確かめなければとなる。しかし頭の中に余計なあれこれが始終邪魔をして、ほぼ集中できず。そうすると160分は意外とあっという間だった。ひたすら不安。もうちょっと違うフォローないのかよという。特に結末。アルトマン特集行かなければ。
人の感想や評を読んで、なんか自分が見たぼんやりした時間自体はどうでもよくなってしまった。