『花つみ日記』(監督:石田民三 脚本:鈴木紀子)

国立映画アーカイブにて石田民三監督『花つみ日記』。再見のつもりが、たぶん恥ずかしながら何一つ覚えているところなく、おそらく見たことなかった。
仲良しの高峰秀子と清水美佐子は一緒に刺繡を編んで葦原邦子演じる先生へプレゼントをしようと約束したのだが、肝心の日に高峰秀子は先に葦原邦子の家へあがっていて、人形をプレゼントしてしまう。遅れて着いた清水美佐子は、その人形を見て裏切られたというショックから怒って去り、高峰秀子に絶交を告げる。高峰秀子が「おかしいじゃないの」と言うと「おかしいなら笑えばいいじゃない!」と返される。自分も相手を怒らせたときに「そんなことで怒るなんておかしい」と言った覚えがある。だいたいこっちが怒ることに常に失敗して中途半端な態度にしかなれないのに対して、こっちが「おかしい」というくらい怒り出して、絶交に近い態度をとられる時がある。我慢させられているのはこっちだと常に言いたくなるのだが、おそらく自分が悪いのだろうと拗ねてしまうばかりで、本気で怒れる人というのが羨ましい。
そんな怒らせてばかりの自分のぼやきはともかく、この前後の高峰秀子の美しさは凄い。葦原邦子のピアノと歌を聞きながら、具体的に何を考えているかわからないが、ただ聞いているらしき高峰秀子(その近くには人形らしきものが見える)のショットをしばらく見る。彼女はおそらく清水美佐子の到着を待っているのだろうけれど、その姿が、あまり使うべき例えじゃないかもしれないけれど、これこそほとんど絵で描いたような美しさと言えばいいのか。もちろん、それは高峰秀子一人の力というよりも映画によって描かれた像に違いない(撮影:山崎一雄、照明:丸川武郎)。映画全体はむしろ清水美佐子の佇まいに惹かれるところがあるけれど(絵で見たような美しさもあって、それだけに収まらない風通しのよさというか、それは現在進行形の戦争が反映されているあれこれに対して、一目見て時間を越えて生々しい)、それでもこの高峰秀子の瞬間というには一定の時間おさまった姿、しかし微動だにしないわけではなく、あくまで自然すぎるほどわずかな内面を読みにくい程度の動きがあるショットのインパクトは大きい。清水美佐子を怒らせることになる前後のすれ違いのきっかけを高峰秀子の口から語らせるけれど(家の前で待っていたところを先生に見つかって招かれてしまったのであり、また刺繍の行方は終盤明らかになる)、具体的には省略したことも原因かもしれない。清水美佐子には高峰秀子の行動が裏切りにしか映らなくても、それ以上に清水美佐子も正確にはこちらの理解を越えている気がしてならない。高峰秀子に「おかしい」と言われるくらいに、そこまで清水美佐子が怒ってしまう事態を見ながら、観客も漠然と経験のした覚えのあるような出来事を、それでもわかってなんかくれないでもらって構わないという意思を映画から感じる(これは作劇の欠点などではなく、むしろささいな行き違いというものを誰の印象も損なわず映画化することに成功している)。その一連の絶交状態から、高峰秀子が学校をやめて芸妓になり、その頃には清水美佐子の怒りも落ち着いてしまう、こうやって訪れる感情の具体的に読み取るものでもない流れは(清水美佐子は繰り返し高峰秀子の下駄箱を見続ける)、それまでの二人の友情を捉えていたからこそ出来る跳ね方なのはもちろんだが、彼女たちの感情など言葉にして読み取るものでもないと受け入れさせるほどの絵のような高峰秀子のショットが予告しているかもしれない。いくつかの絵画的とやはり言いたくなるようなショットがあって、それは構図の完璧さとかではなく、そのショットに収まっている女性、ブランコに泣きながら座っている清水美佐子にしても、それを遠くから近づけない高峰秀子にしても、その空気や何かが時を越えて伝わってはきても、読み取るものではないという見事な近寄りがたさがある。
先生の前では歌うことのない高峰秀子も、後に芸妓姿でロープウェーに乗りながら歌い出し、一方で清水美佐子も彼女がいるとは知らないまま家族とハイキングをしながら歌っていて、別々のショットの二人の女性が交互に歌い継ぐのだが(歌う両者を一つのショットには収めないミュージカルというか)、その歌が台詞となって彼女の心情を代弁しているのかさえ読み取るのがどうでもよくなるほど、この絶交状態の二人の、それでも切れない結びつきのあまりの強さを本人自身が知るはずもないけれど、彼女たちは二人で一つの歌を唱っているのだという演出はシンプルだからこそ胸を打つ。離れていても思っていることは同じという単純な話かもしれないが、彼女たちは互いのコミュニケーションに失敗して絶交状態になって、だが二人は歌うことで繋がることを映画の世界だからこそ実現している。
高峰秀子は体調を崩し、死へと(天国へと)近づいていく。日中の街頭を俯瞰したロケーション撮影もある一方、日が沈んでから降りしきる雨の中、傘を差しながら高峰秀子が千本針を続ける、今となっては再現不能かもしれないセット撮影の強さが混在することに驚く。彼女が進藤英太郎から叱られながらもフラフラと座っていく場面や、または葦原邦子とともに歩く足元のふらつくショットや(同じ空間を溌溂と渡辺美佐子と歩く横移動と比べると、あまりに悲しい)、友人四人組が見舞いに訪れた場でも起き上がって不意に歩き出すのだが、これらの単に病んでいるというだけではない、この世のものと思えない姿に対して「幽霊」と呼ぶのは陳腐なたとえだろうが、それはヴェルナー・シュレーターの映画に出てくる存在に近いかもしれないし(「オペラ的」なんだろうか、しかし自分にはオペラの知識も何もない)、ある意味ではジャン・ローランの『猟奇殺人の夜』のラストカットの撃たれても倒れない男女のように、それよりは『ノスフェラトゥ』の狂気に囚われた妻や、『嵐の孤児』のギッシュ姉妹、他に具体的に名前を出せない自分の記憶力の弱さが嫌になるが、いくつかのサイレント映画にこうしたさまよいはあったかもしれない。彼女は死ぬこともない。それは衰弱した姿ではなく、あくまで何かを求めてさまよう姿であるからこそ、痛ましいというだけでは収まらない強さがある。