神保町シアターにて澤井信一郎監督作品を見直す

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澤井信一郎特集スタートしているのに乗り遅れて、二週間逃す。随分久しぶりの神保町シアターにて澤井信一郎監督『福沢諭吉』。哀川翔のことしか覚えてなかったが、火野正平もなんかよかった。男だらけの話だが女優が出てくると一気に色っぽくなるあたり、さすが。南野陽子をうなじから見せたり、信じられないほどエロい。少年時代のエピソードをいきなりカット割らず長回しだけでやってみせるのだが、その岩のアップから少年たちのロングの芝居へ移行するスムーズさというか、これほど簡潔というか違和感のない(演出と不可分なものとしての)長回しはもう他にできる映画は当時としてもなかなかないんじゃないか。かなりの率で「ワンカットワンシーン」と言いたくなるような見事さで話を運ぶが、おそらく『めぞん一刻』にて炸裂した演出であって、『めぞん一刻』なら田中陽造脚本のエッセンスをアンソロジーのように編んだ映画だったが、『福沢諭吉』は笠原和夫ではなく、あくまで(どうも脚本家だけでなく監督も企画当初は興味を持ってなかったらしい)「福沢諭吉」という存在にまつわるエッセンスを引き出したがゆえに出来た構造の映画ではないか。岡本周吉(勝野洋)が福沢諭吉柴田恭兵)のもとへ来た養子の話を代わりに引き受けることを自ら提案した後、夜に妊婦となった妻・若村麻由美が勝野に学問ではなく出世の道を選ばせることに悩む柴田恭兵に対し、彼女が柴田に勝野の選ぶ道を進ませる決意を促すのだが(そこに苦いものはかなり含まれているのだろうが)、その次のカットは赤ん坊のアップになり、次に若村麻由美と既に農民の出から武士の衣類を身にまとった勝野洋が共に赤子を見ており、そこから勝野を送り出す流れになる若村の礼と柴田の画面奥からのイン、というまでをわずか3カットだけで構成していて、その簡潔さのためか、それとも若村麻由美の礼になのか、こうした時に涙腺を刺激される。

『17歳 旅立ちのふたり』も劇場では初だが、フィルム上映とはいえ元はビデオで撮られているからと最初はちょっと安っぽい気がしても、海辺のヒロイン二人への照明の繊細さなのか、過去の名作傑作に対して決して見劣りしない画に引き込まれる。
特に少年の主観からの藤本美貴の後ろ姿の入れ方がもう必要以上にドキッとさせて、それから走り出した少年を石川梨華が追うショットの繋がりの落ち着きっぷりはさすが。
というか、公開当時も言われていただろうが、藤本美貴ってこんなにいいのか。
石川梨華と父・村上弘明がついに会ってからの、私はあなたの娘をやめます、といった言葉を言わせる時の、そして村上弘明がまた「当然の罰だ」と受け入れる時の、役の上での変化が、役者そのものを見せるという言葉で済ませていいのか、しかし「石川梨華」というのでもないという、あの映画としての演出の凄さこそ人が「澤井マジック」と呼ぶ時でもあり、同時に何らかの演出術として受け継がれそうで、しかし澤井信一郎だけのものにおそらくなってしまった謎かもしれない(トラックの荷台で待つ少年の、いかにも『キッド』らしいが、帰ってきた石川梨華とのやり取りもよかった)。思い返すと『福沢諭吉』はまさに福沢諭吉周辺でそうした事態が次々と起こっていて、そもそも柴田恭兵が見事に福沢諭吉という存在になれているとか、柴田恭兵が「あなたが福沢諭吉を作ったのです」と言ったのに対して榎木孝明演じる奥平外記(この微妙に架空の、歴史に残った人物に対するコンプレックスを隠せない存在は『滝廉太郎物語』にも現れるだろう)が「福沢諭吉は俺だ」といい、柴田が「戦って死ねなど私には教えられない!」に対して仲村トオルは「しかし私は身体が動いてしまう」と返すことになり、それでもラストの戦場にて失明した仲村トオルを見つけた南野陽子と互いに名乗る際の、あの仲村が藩ではなく「慶應義塾!」と声を上げる時まで、こうした役柄上の変化のタイミングに、本当に目の前で何者かへの変化、もしくは何者でもなくなったかのような姿を記録できたような凄みが澤井信一郎の演出なのだった。
『日本一短い母への手紙』も改めて見ると裕木奈江が可愛い。まさに澤井演出の女の子であって、この良さを例えば前田敦子でもできたはずだから、『蒼き狼』が最後というのはやはり寂しい。
ヤクザ二人が食堂にやってくる場面を挟んで、原田龍二鈴木砂羽をトラックに乗せるまでの時間の流れや、裕木奈江小林稔侍を回想する場面の挟み方とか、猫との切り返しとか、どこか滑らかとは言えない時間経過だが(こうしたことは『福沢諭吉』ではなかった)じっくり見させる。なんとも音楽も台詞も騒々しくなりそうで、気にならなくさせる。
やっぱり十朱幸代がいい。病院にて精密検査が必要と告げられてから特にいいのだが、息子の恋人を強引に連れ去りに来たヤクザ二人に啖呵をきる場面、彼女が咥えていた煙草を捨てながらやってくる時の佇まいが東映任侠映画のエッセンスを感じつつ、あくまで女侠とか極妻とかではなくスナックのママとして生きてきた上での振る舞いというか、「私はこの子の保護者よ!」という迫力にはむしろ新宿芸能社の母さん・中村メイコを思い出す(森﨑東と澤井信一郎というのに繋がりはあるか)。
十朱幸代が内縁関係の夫の母・加藤治子のいるホームへ訪れる場面は、盲目の加藤治子が息子の死を語る時に笠原和夫山下耕作の『女渡世人 おたの申します』のこともよぎる。
原田龍二の助けた猫の呆気ない生還から、確実に原田も生き延びるだろうと、そしてここはむしろ十朱幸代と裕木奈江の和解こそ肝だろうと何となくわかっているのだが、澤井演出だと見事に二人が18年の時を経て母子の関係を回復したと、このカットだけは確実に母子になっていると思わせるから凄い(泣きじゃくる裕木奈江の目の涙を拭く十朱幸代と、その二人を捉えるカメラの派手すぎない動き)。
電話をかける女優の芝居のバリエーションとしても、タバコ屋の公衆電話をかける十朱幸代、夕飯に友人を誘うが誰も乗ってこなくて癇癪おこす裕木奈江ときて、別所哲也のリアクションなどなくてほぼ独白というべき裕木奈江(まさに澤井信一郎の映画)を引き出してから、最後の母子の電話での別れ、かつ見事な受話器越しの非凡な切り返しに至る。
車の窓からの原田龍二への別れの言葉にも、まさに母であるがゆえに息子の名前を呼びつつ、それが決定的に別れでもあるという、ただならぬ状態にゾクゾクした。
小林稔侍が父というだけで『日本一短い母への手紙』と『珈琲時光』を繋げるのは乱暴かもしれないが、この作家にとって割とストレートな小津への敬意としても(小津とマキノの文脈が交わる時というか)、また木村大作撮影という正直ネガティブな印象を忘れさせる、裕木奈江の奥にいる原田龍二にあえてピントを合わせない構図がまたホウ・シャオシェンをちょっとよぎらせることでも、やはり澤井信一郎という監督はビクトル・エリセトリュフォーを語れるだけあって、ただの匠と呼ぶには逸脱した演出の(つまり画面に映る人から引き出す力の強さにおいても)作家なのだ。
Wの悲劇』も映画館で見直したかった。