2/18~3/10くらいまでの映画日記

ポール・バーホーベン『ベネデッタ』を見る。
好きな監督のつもりだが『エル』のことは正直あまり覚えていない。
エログロ版『修道女』だろうと(随分待たされたせいか)なんか想定の範囲内の題材と高を括っていたが、初っ端の賊が○の○で退散する展開から、この監督が相当変な感覚の持ち主であることを思い出す。ヒロインが成長した途端にキリストが登場。そんな『サウスパーク』以外思い浮かぶほど見ていないのだが、今回のキリストはブニュエル『銀河』の危険な兄ちゃん度が凄い(恵比寿映像祭で見たペギー・アーウィッシュの映画にも『ビリディアナ』の明らかな引用は出てきたが)。そして痛い描写のバリエーションも、こちらの想像を裏切る豊かさ。『氷の微笑』『ショーガール』の監督ということを嫌でも思い出すイチャイチャかつ出鱈目、サイコなようで裸一本な展開。堂々たる女性の肉体(この「堂々と」というのが終盤ちょっと泣かせる)。これまた一周回っていかにも今日的な(しかし『ロボコップ』のニュースでも見るような)ペストの登場。それに『恐怖女子高』かと言いたくなる大逆転。そしてまた最後の別れが、思い返すとジワジワいい。こんな趣味の映画作りやがってと思っていたはずが、誰のためになっているかわからないがしっかりと満足させられてしまうのだった。ドケチ婆さんのような(杉村春子化した)シャーロット・ランプリングも最後まで良かった。

 

国立映画アーカイブの「日本の女性映画人(1)――無声映画期から1960年代まで」特集にて「無声映画脚本家集」プログラムへ。
『親』(脚本:水島あやめ 監督;大久保忠素、清水宏)は以前のフィルムセンターでの清水宏特集で見ているはずなのだが、全然覚えていなかった。まあ、見事に清水宏の映画だった。両親ともにいて幸せだというヒロイン(しかし彼女は実は赤ん坊のころに拾われたのだ)以上に、彼女の友人(母親を亡くしているという)が傘をさして現れた姿にハッとするというか、たびたび清水宏の映画に出てくる定住できない女たちに連なる色気があってよかった。
『辻占賣の少女』(脚本:社喜久江 監督:鈴木日出男)は断片のみ。半分にちぎれた占いの紙を拾う母親のカットから始まって、さらに緒の切れた下駄が雪の降る道に落ちているのを見つけて追うと、辻占いが売れずに娘が凍えて座っている。母は娘に自分の下駄をはかせてやり、片足だけ足袋のまま一緒に雪の降る中を帰るというカットがよかった。しかしそんなにまでして稼いだ僅かなお金を、なんと娘は満州にて戦っている兵隊さんに送りたいと言い出す。上映前の配布資料と違う展開! これは単なる断片ではなくて再編集した短編なのか? 上映前の解説で話していたのを自分が聞き逃したか?
『母の微笑』(脚本;鈴木紀子 監督:渡邊邦男)もよかったと思うが、なぜか時間が経って記憶からいろいろ抜け落ちてしまい思い出せない。主人公が階段かどこかに飾られた画を眺めていたら動き出す、といったくだりがあったような。ただ渡邊邦男に対するイメージは変わった。低予算といった趣はなく、見事なもの。サイレント期の作品をぜひ見てみたい。
『お父さんの歌時計』(脚本:鈴木紀子 監督:吉村廉 無声短縮版)撮影は永塚一栄。特に鈴木清順作品を日活から『陽炎座』まで支えた印象の強いカメラマンの、戦前の優れた作品を見れてよかった(去年見た青山三郎『結婚適令記』もとても面白かった)。しかし吉村廉の監督作は全然見たことがなく、こうした珍しいものだけ見てしまうのはさすがにあんまりというか恥ずかしいかもしれない。無声短縮版のうえに、そこからさらにフィルムの状態からか不自然に切れてしまっているところもあるけれど、サイレント映画として見れたのも演出力なのか。話の流れ上、父の歌時計を売ることを娘はどう彼に受け入れさせたのか(彼の病状の悪化が原因か?)、音のことも考えるとやや整合性がとれない気もするけれど、それでも決意をしただろう場面での父と娘と時計と交互に寄っていく撮影や、生活費のために着物を売ろうと街を歩く移動撮影や、姉が帰ってくる場面での、失明した父がそうと知らず彼女を許す旨を伝える場面など引き込まれる。屑籠に落ちた原稿の行方にもベタではあるが感動してしまった。

 

北千住にて久々の『TOKYO!』。
意外とミシェル・ゴンドリー編が見直したら悪くないというか、若々しい加瀬亮が懐かしい。メインの役者の良さに救われてるのか、単にこちらの心が狭かっただけか。もしくは新作として見たらムカついても、時間が許したのか。この頃はまだまだ何か余裕があった気がしてくるから不思議だ。
その種の懐かしさもカラックス『メルド』で一気にどうでもよくなってしまった。というか、もっと痛快というかバカバカしい何かに記憶を作り変えてしまっていたが、改めて見ると、このゲリラ撮影の前では『シン・ゴジラ』も霞むというか、そりゃなんだって比べたらどうでもよくなる映画。破壊的かつ陰気、そして画面が暗い。フィルムで見る最後のカラックスか? でもわりと陽気という。何なんだ。山根貞男最後の「あらら」に匹敵するというか。誰が言ったか、やはりカラックスはすべてが遺作みたいだった。

 

吉村廉監督『泣かないで』(59年)46分の中編だが、テンポの早さを通り越して、離れていたはずの距離が次のカットでいきなりなかったことになって殴り合いしていたりするのだが、時間の方は特段飛躍した気にもさせず、それでも淀みない繋ぎというには唐突だが、これはさすがに編集・鈴木晄の力に違いない。清順映画でもないのにキレキレ。別に清順に限った役者ではないが野呂圭介もかなり目立っている。菅井一郎がほぼ主役というのは珍しいような、そうでもないのか。
同じく吉村廉『星は何でも知っている』は平尾昌晃のロカビリー調「小原庄助さん」を聞きながら日の暮れた海辺を佇むという状況がやたらカッコいいのだが、姫田真佐久の書斎での移動撮影もよかった。
どっちにしろ普通の映画に変わりはないが、こうしたのを自宅で見続けている場合なのか。

 

ふと『エンパイア』を最初から最後まで見たことなんか当然ないのだが、断片をイメフォで見たきりだったので、なんだか気になってYOUTUBE再生して眺めた。『イート』は実はかなり動きの豊かな可愛らしい映画で、『スリープ』にはアングルの変更が何だか眠る相手を愛でる感覚があるのだが、正直『エンパイア』こそ動きなく耐えるものだと思っていたが、意外と『エンパイア』には雲の動きがある。それにヘリコプターも飛んでいる(このあたり『アメリカ』でのストローブ=ユイレは意識してるのか?)。それに『エンパイア』とはスター然とした建物というだけでなく、そこに集う人々の巣みたいなものかもしれない。ただ最近は夜になって看板の光だけついているビルを見ると、なんだか一つの建物を昼間から夜までジッと眺めて光がつくまで見てみたいものだという気がする。それはまさに人間の動きを光の変化だけで見るという観客にだけ許された優雅さか。たとえばそんな映像を人生で見た経験はなく、それを早送りとか、または日が沈むタイミングだけ見るのも違うだろうし、それを経験してみたい気もする。視認できる自信のない、日が沈むまでという、もはや運動なのか時間なのかわからないイメージを一度は8時間かけて体験してみるのもありかもしれないが、それこそ映画とは見た気がしただけで実際には見れていないのかもしれないものか。

 

パウロ・ローシャ特集にて『もしも私が泥棒だったら…』。見逃している作品も多いのに(どれと言ったら「見てないの?」とか言われそうだから言いませんが)今回の特集最初に見ると、始まってすぐは何が何だか頭に入らず戸惑う。
ある程度の筋道はあるのだろうとわかってくるし(ところでヴィタリノというヒロインの名前はやはりコスタは意識しての『ヴィタリナ』なのか?)ジャン・ローランがやったよりは何だかんだパウロ・ローシャという監督の残した作品たちは凄いんだなと思うが、別に単なる総集編というわけでもなく、時間が先に進んでいるような、いないような感覚をこうした物語というものがあるのかも謎めいた映画によって漂うことになる。
イザベル・ルートといえばHENRIにて配信されているビエットの短編にて、まさにヒロインとして驚くほど魅力的で、「ローシャの映画でこんなだっけ」と思ったが、こうして『もしも~』にて彼女ふくめ様々な女優たちの姿を見て、さらに瀬戸内寂聴の「あなたにとっての小春さんはいないんですか」という質問も挟まれると、ローシャにとってもまたどのような形かはともかく「女性」という存在の占める大きさを(それは映画監督である以上避けられないことなのかもしれないが)印象付けられる。
モノクロとカラーを行き来することになるのだが、それが過去作の継ぎはぎだけでなくデジタル処理で色が変わっていく。最近もNHKで最初の大河ドラマをカラーにして放映したりしていたし、この前もYoutubeにて『フリークス』をカラーにした映像がアップされていて、なんとも言いようのない不気味さを感じるわけだが、そうしたことになる状況をローシャが意識していたのかはともかく。ここでは撮影アカシオ・デ・アルメイダの偉大さというのがさすがにわかってくる。『イメージの本』でも終盤にやっと出てきた映像だって、やはり鮮烈という言葉も単純かもしれないが、『もしも~』のイザベル・ルートが歌う浜辺でのモノクロに始まって色合いが延々変わっていくショットを見ると、色彩とは作り上げていくもの、という感覚が伝わってくる。それがデジタルゆえの奇妙さがあったとしても、彼女自身も映っていない海辺の夕陽のショットの色の、それがローシャかアカシオ・デ・アルメイダか、はたまたイザベル・ルートだったりするのかともかく、色彩というのが無条件に存在するものではなく作り上げられていくものという感覚が突きつけられて、自分の普段生きている世界の色も失われたり、はたまた自分で作り上げていくものなのかもしれないという気にさせる。

パウロ・ローシャ『虚栄 あるいは異界』これまたいろいろ未見のローシャがあるせいか「こんな監督だっけ?」と最初は面食らうが、花火の場面になって、ドキュメント調の雑踏やら、合成やら、セットの場面やら、いろいろ入り混じって、画面の色彩もまたどんどんと彩ゆたかになって、だんだんと心地よくなっていく。

 

最終日のドン・シーゲル『殺人者たち』『真昼の死闘』までは見に行く。
どっちも男が女に「時間がない」と言ってから、本当に映画が終わりを迎えていた。
『殺人者たち』はわりと繰り返し見ているせいか、最初の展開がだんだん不自然に見えてきたが、それが欠点というわけでもない。クロード・エイキンスが結局酔ってあれこれ回想するというのが、痛ましいんだか、おかしいんだか。でもこの顔は映画館で見ると切ない。レーガンが作戦会議に使う手書きの図面がわざわざ広げるには簡素すぎて笑ってしまうのだが、それがまた意外と既に映画を見ていて何となくわかることだから本当に意味があったのかわからない。廣瀬純氏がスピルバーグについて言うところの「二回繰り返す」タイプのことをドン・シーゲルもやっているのか。レーガンがカサヴェテスの二の舞になるような話というか(映画監督と合衆国大統領という役者の枠を超えたキャリアを歩む二人だが)、アンジー・ディッキンソンに裏切られて撃たれて死ぬ間際にレーガンもカサヴェテス同様のリアクションをするのだが、どっちの芝居がよかったとか比較する気も起きないというのがまた奇妙かもしれない。
真昼の死闘』は自宅で見るよりも、矢を抜くところとか、そこから酔ってダイナマイト撃てないとか、緊迫感はあるはずなのにイーストウッドシャーリー・マクレーンのやり取りばっか見させられてもいるようで、ゆったり長いというか、でもちょうどいいくらいかなという、なんとも不思議なくらいバイオレンスだが心地よい映画だった。

 

『フェイブルマンズ』や『エブエブ』もあるが、後回しにしてサム・メンデス『エンパイア・オブ・ライト』。今回は良いと聞いたから。
ちょっとやりすぎというところもあるかもしれないけれど。地味で長い007を撮った監督(『スカイフォール』はまあまあか)という印象から大分挽回した。始まってすぐ、演劇やってた監督だったと思い出した。2時間以内で、体感時間はもう少しあっさり100分くらい。音楽もよかったし、大晦日の一線を踏み越えたところから、パンクな女性従業員と三人デートにつなぐところなんかジンワリきたし、修羅場にするのかというところで『炎のランナー』のテーマ曲がうっすら聞こえてくるのが笑えた。彼の母親(たしか最初に彼女と会う時はロングショットの切り返しだった)も、映写技師はじめ煙草を吸うところもよかった。

 

国立映画アーカイブの女性映画人特集にて一日ドキュメンタリーを見る(そうしているうちにイオセリアーニを見逃してしまうのではと、だんだん不安になってきた)。
『猫の散歩』(監督:大橋秀夫 脚本:岡野薫子 撮影:安承玟 編集:沼崎梅子 監修:山本嘉次郎)は主役の野良猫(複数いるのかもしれないが、ちゃんと毛並みの統一された一匹の主人公に見える)が縄張りの「食堂」(要は生ゴミの捨てられている場所)を回る日課を捉えた、猫の駆け抜けていく安承玟によるカットを見ていて微笑ましくなる。髙橋和枝による猫の一人称も聞いていて楽しい。お魚咥えた野良猫というやつも当然やる。だがこれは衛生問題のPR映画なので、猫の語りも「人間が綺麗好きって本当かな?」「いつも身体を舐める僕の方がよっぽど気を使ってるよ」とか辛辣なものになってきて、鼠は映画だとちょっと可愛らしく、饅頭にとまる蠅はまだ我慢できるとして(猫からそんなもの食べたらおじいちゃんおばあちゃん食中毒でお腹を壊しちゃうよと心配をされる)、水回りの食べ残しにゴキブリやら何やら虫が普通にいるのにはゲッとなり、ダニは出てくるわ、猫のオアシスである水たまりもボウフラ君(「君たち全員蚊になるつもりかい?」)がいっぱい、ついには「食堂」に蠅や蛆が画面いっぱいにわいて、バックに大野松雄の不気味な(見事な)サウンドが響いて強烈なインパクトを残した上に、猫の「助けてくれー!」なんて悲鳴をあげるような声と顔が重なるのだから怖くなってくる。ご近所の子供が日本脳炎で運ばれて、生ワクチンやら何やらやるうちに本格的に町内で清掃活動に保健所も協力して力を入れたので、すっかり町は綺麗に。でもそうすると野良猫の食堂もなくなってしまった。彼が空腹のあまり生魚を咥えて逃げようとするも魚屋に捕まって、川に放り投げられずぶ濡れになる(さすがに可哀想というか大丈夫かと心配に)。最終的にはちょっとウザいけどいつも優しくしてくれるお年寄り夫婦の家にいって、野良生活に区切りをつけることを決めるのだった。ちょっと遠慮気味に猫も鳴くから、こっちも情が湧いてくる。

 

『オランウータンの知恵』(監督:藤原智子、山口淳子)。こっちはオランウータンの一人称ではなく、あくまで飼育員との交流や、知能テストの記録映画。併映の渋谷昶子によるインタビュー『わが映画人生 藤原智子監督』によれば東宝が地味という理由でオクラ入りさせようとしたところ、荻昌弘らが「東宝はオランウータン以下の知能しかない」などと新聞で煽って公開させたらしい。盲腸炎で入院した飼育員さんとの再会で離れたくないと駄々をこねる姿に、類人猿・霊長類と映画の相性のよさというか再確認。檻に入れられながら、三歳児より賢いかもしれないとテストを受け続ける。
『挑戦』(監督・脚本:渋谷昶子 63年)は「東洋の魔女」日紡貝塚女子バレーボールチームの記録映画。東京五輪を挟んで本作より後に作られた堀川弘通監督『おれについてこい!』(65年)は回転レシーブの訓練場面において、さすがに参照しているんじゃないかと思う。堀川の映画が語り自体が回転レシーブというか、その発想元になったと出てくる起き上がり小法師の動きと、激しい反復横跳びと、ハナ肇演じる大松監督の横になって寝る仕草を繰り返しながら、東京五輪の試合当日の会場に着くまで時制を何度も行き来しながら進むという映画で、これはこれで凄いのだが、『挑戦』はそうした語りの複雑さとは全然違って、ただただ激しい回転レシーブの訓練に目を奪われる。そして「ハナ肇と大松監督って似てるんだな」というこちらの印象をぶっ壊すくらいに本物の大松監督の千本ノックというか(そのためにボールのバトンをする選手たち含め)勢いが凄くて唖然。
『わが映画人生 藤原智子監督』は吉田喜重松本俊夫藤原智子が東大での同期と知り驚く。フリーであることの意義について藤原・渋谷が意気投合するところや、アルベール・ラモリス『白い馬』のラストカットを見た感動について話す姿が見れてよかった。

 

結局たいして後回しにもせずスピルバーグの『フェイブルマンズ』を見る。
『バビロン』は見ていないがサム・メンデスの映画も映画愛になりそうでなってない(なってるところはつまらない)映画だったが、『フェイブルマンズ』もその予想とは全然別の映画だったが、本気で引き込まれる映画だった。
あの人があの役で出てくるとはニュースで知っていたけれど、それまでに急に夢のお告げが出てきたり、父親が「夢を見た」と言いながら、現実にやったことか、やりたいとしか思えない話をしたり、あの人の役も夢と現実の境界にいるみたいだった。作家の個人的な夢を実現したがる側にいそうなデヴィッド・リンチが、地平線の話をすることで、あの仲間の死は家族が自分のせいで死んだようなものという演出を受けて、遠くへ去っていった彼のことを思い出す。殴られた少年が鼻血出すところあったせいか、キスマークが血に見えて、なんだかよくわからないと思ってしまったが、人に言われて冷静に振り返ると別に変でもない。とにかくデヴィッド・リンチは堂々たるものだった。
機関車の煙もいいんだが、ああやって煙草が出てくるのはスピルバーグでは初めてかもしれない。あんな男同士の関係は経験したことないが、苦手なような、それでもグッときてしまう(直後の「ドラマがあったのね」という一言は、ちょっと白ける感じがなくもないけど)。
「ET」の監督だけあって、十字架は「+」なんだろうか。にしても『ベネデッタ』とは違った意味でハラハラして笑った。さらに不思議なアルファベットの羅列も出てくる。IBMだのCEOだのGMだの、I・M・A・G・Eだの……そうしたアルファベットに意味や仕事を見出せる時が来るか来ないかという話? ただそれらはだいたい叔父さんとの話に絡んでくる(こんな三人いつも一緒って、たしかにその辺もトリュフォーへの意識に繋がりそうだが)。そしてミシェル・ウィリアムズの「すべて起きることには意味がある」という話。この種のわけのわからない感動を新作からくらうのは久しぶりだが、でもそれに引きずられていいものか。またはキャンプ(ちょっと『モダンラブ東京』のことがよぎった)でのポール・ダノがトライポッドらしき建て方して火のつけ方を講座する一方で、ミシェル・ウィリアムズが一本の木にぶらさがって反らせる動きが対になっているような、いないような。
こんなよくわからないまま感想を書いても仕方ないかもしれないが、とにかく久々にスピルバーグの主題選びに疑問を感じる暇もなく引き込まれた。アルマジロのくだりに何だかフーパーの映画の序盤にありそうなこととも思った。あとあのいじめっ子二人のうち特に小さなアイツが『ピートと秘密の友達』『ワンダ―ストラック』の主演と知って驚いた。ショックというか、なんというか。

 

ステーションギャラリーにて佐伯祐三展へ。失礼ながら意外と混んでいて驚く。今年も中之島の上映に行けそうになく残念だが、中之島美術館所蔵の素晴らしい作品を数多く見れてよかった。
下落合風景の数々もよかったが、27年の『レストラン(オテル・デュ・マルシェ)』の音符や擬音でも書き散らしたのかと錯覚するハジけた作品や、『サンタンヌ教会』の奥の霞み具合や、有無を言わさぬ『公衆便所』などを経て、特に28年(この年の8月に30歳で亡くなる)に入って病状が悪化してからの作品が、やはり自分には時間が残されていないということか、パリから一旦離れる前の『工場』(わずか2日で仕上げたらしい)のフレーム内にガッと詰め込み載せまくったような迫力からして突き抜けたというか、ヴィリエ=シュル=モランに滞在しての絵はどれもタガが外れているというか『村と丘』の皿に切り分けた食材かのような図や、『モランの寺』のセザンヌドガを見るときに感じるような歪みや、特に『モラン風景』の坂道にイーゼルを置いて書いたがゆえの傾いた視界の構図は、ある意味で今見ても現代的というか、煙を描くのに同行者のひとり山口長男(抽象画の人という以外に不勉強からわかってないままだったが、意外な組み合わせに驚く)のタッチを真似たというのも面白い。これら含めてモランでの二十日間の滞在期間に30枚も描かれたという早さ、勢いはまさに驚異であって信じがたい。

 

国アカにて稲垣浩『忘れられた子等』新文芸坐での上映など見逃していた。というか稲垣浩自体、もっと見なくては思いつつ、後回しにしていることが多く反省。
「時・現代、場・京都」、薄暗い地面いっぱいにチョークで書かれた数字を追っていくと、そこは校舎で、その数字の書かれた地面は日陰なのだが、しかし数字を書いていた少年はいま校舎の陽が射す場所に照らされながら、今も懸命に数字を書き続けている。この冒頭から感動的なので、それから教室内の荒んだというか、なんとも希望のない様を(これまた移動撮影で散らかった教材や汚れた身体を追う)捉えた序盤のや、特殊学級の意味も知らない新任教師の堀雄二はじめ、今日的に明らかに差別的な言動を序盤ほど繰り返していても(それを素直に笑って見ていいのか躊躇はしても)この映画自体は信じて見続けていれば、彼のやる気のなさも授業そっちのけで教室の隅で静物画を一枚仕上げては「はい今日の授業終わり」も3日繰り返せば生徒も覚えて勝手に帰るなどユーモラスではあり、生徒たちも嘘泣きしたり、何かあれば拳骨をすぐお見舞いするチビや、ハサミ片手に何でも切る癖あり(『我輩はカモである』のハーポを思い出すが全然似ていない)、別に純粋無垢で善良というのでもなく、なんでも登るくせのある彼は危なっかしく、運動会で走る夢を見る生徒に『無法松の一生』がよぎったりするうちに、ある段階で堀雄二が黒板の漢数字をむしろ自ら消すところで不思議とグッとくる。

 

ようやくイオセリアーニ特集へ。短編集から。
『鋳鉄』の工場をさらに小さく、シンプルに、しかし上映時間が引き伸ばされていくと黒川幸則監督によるタイトル未定のドキュメンタリー(『鋳物工場の記録』?)になる。去年の川口の井上文香さんの個展で上映された際は未完、しかし二時間近くなっていた。どちらにしろ工場には映画に必要な要素がほぼ全て映されているかもしれない(ただしどちらも女性はほぼ映されない)。ただ『鋳鉄』には風が吹いていて凄い。

『エウスカディ1982年、夏』は『鋳鉄』以上に、もう近作とあまり変わりないというか、言われてみれば劇映画も随分ドキュメント的な調子なんだろうと。モノクロからカラーに転じる理由がどこか書かれているのかもしれないが、これも予算的な問題かもしれないけれど、結果的には非常にいい具合に時空を飛んでいるような、最新作まで通じる魅力がある。