野田真吉『冬の夜の神々の宴』『生者と死者のかよい路 -新野の盆おどり神送りの行事』『谷間の少女』『機関車小僧』@国立映画アーカイブ

ようやく国アカにて野田真吉特集。
『冬の夜の神々の宴』は想像していたよりアヴァンギャルドというかヤバい映画というか『くずれる沼 あるいは画家・山下菊二』と近い印象(撮影も同じく長谷川元吉)で、まさに呪術と儀式を見ている。何の音声もなく冬の山村の斜面を映した冒頭(本作と『私をスキーに連れてって』のカメラマンが同じって面白い)から時間が止まっているような。湯気が画面を覆って距離感も狂う。
未見の(そして今回も見れない)『ふたりの長距離ランナーの孤独』が東京オリンピックのマラソン中に乱入した男の映像を反復した作品とは読んで、気になり続けているが、この(オリンピックとは異なる祭りの)儀式も反復を見ているような感覚に陥る。時間は間違いなく過ぎているが、見ている自分もリズムの繰り返しに囚われる。長さを感じるようで、止まった世界にいる。うんざりさせるようで興奮する。本当にこういう映画が最も見たい。映画という本質的には時間泥棒の世界の真実に対して、儀式を見ながらトランスしていく感覚。グラウベル・ローシャジャン・ルーシュあたりか?
『生者と死者のかよい路 -新野の盆おどり神送りの行事』は実は悔しくて配信で見てしまったのだが、今回映画館で見て、焦って自宅で見たことを後悔する。この扇を持ってエラいたくさんの老若男女が同じ振付を、しかし動きにバラつきはあってもやってる。この特殊で異様なのに、なぜだか不気味さや不健全さはまるで感じさせない凄さを見せるカメラ位置(緩いようで見事)、たぶん自分がこの祭りを記念に撮っても、この異様さと何気なさが一緒くたになった状況を伝えることはできない。ロングで延々とこの列が続いているのを見るヤバさ。これまた延々と続く反復で時間間隔がおおいに狂うのだが、何より凄いのはエンドクレジット後に暗転してからいつまでも終わらない点で、何人か既に立って帰ろうとしているのに、まだまだ終わらない。ずっと歌が続く。黒画面で延々聞かせて、それから再び字幕が出て、ようやく「完」と出るのだから、この長さは確信犯だ。『一万年、後….。』を国アカで見た時は何とも痛快だったが、その時を思い出す。
一方で一気に初期に戻って『谷間の少女』『機関車小僧』の二本を見ると、本当にこれが『忘れられた人々』を連想させつつも普通に感動的な子供たちの映画で改めて驚く。『機関車小僧』の機関車を追う映像の端正な繋ぎに対して、そこから並走しようと自転車をこぎ出す少年の現れる場面から活気あるのだが、終盤の機関車に追いつかんと走る彼に対して通せんぼした相手の前で、少年が岩を持ち上げる場面の、やや悲劇を予感しつつ、これがまた普通に感動的な地点へ落ち着く。ただ岩を持ち上げて下すだけ。そしてラストは岩を投げるだけ。このロングで見たら単純なことに対し、映像は少年に対して寄ってみせたことで、特殊な時間と光の輝きと、そして岩が投げられるエネルギーを作り出す。キャリアを通して、そんなエネルギーがそこかしこに溢れ出ようとしているのではないか。車窓から姉を見送る場面の、わずかな時間をなかなか列車から離れず姉に対し並走する弟の姿は(ここにもまた「ふたりの孤独なランナー」を見ることができるかもしれない)過剰に劇的ではないのに、忘れがたい力を放っていて、ただただグッとくる。