3/8『国民の創生』『シチリア!』

いつか見直さなければと思っていた『国民の創生』をDVDで。たぶん三回目? 記憶の中で修正していたのか、想像していた以上にはっきりと人種差別的なのは今更、わざわざメモしておく必要もないが。第一部の美しいショットのいくつかが、第二部に反復されると、そうした偏見に支えられた美しさに過ぎなかったのではと不安になるくらい。それでも混血の男から握手を求められて、そっぽを向く白人男性というのは、やはりリアリティがある。彼から求婚されて激しく拒否する女性というのも、現実か、白人男性側からの幻想か。女性二人の並んだショットの力強さというのも、シスターフッド的なものより男性側の欲望と捉えるべきなのか……となるとわからない(両目の間が空いた女性の顔と構図の上でも合っている)。それでも彼女たちのはしゃぐ姿にフレームの中からはみ出さんばかりの(しかしギリギリで留まるものとしての)自由さを感じる。しかし昼に見たのに、すでに記憶が朧げになってしまう。案外、話を追い切れていないかもしれない。グリフィスの短編をいくつか見ているが、たしかに無字幕だとわかったようで、細かいことはわからないままにしているのがある。第一部の南北戦争だけでなく、退院して出迎えるまでに綿を衣服に着けて待つというシーン、第二部の黒人から追われて崖を飛び降りてしまうシーンさえ、別にこれ以上ショット数が増えて長くなっても全然かまわない。でもそれを長くしたら失われる編集上の構造があるのだろうとは思っていても、このサイズのショットのカットバックならいくら繰り返しても続けられそうに見える。ウォルシュのジョン・ウィルクス・ブースが舞台を飛び降りるアクションはエロール・フリンとの諸作を予感させる……など今更メモしておくべきなのか。神戸映画資料館での講演を聞きに行くべきだったのか。こうしたイベントが都内では意外とないかもしれない。

 

シチリア!』キヌザルと飼い猫の思い出に捧げられた映画。行って少し戻るパンを二回繰り返す謎だが、ただ舞台になる方角のロングショットだけでは駄目なんだろうかと想像すると、そもそも何の変哲もないカットになってしまう。現在の遠景を遠景そのものとしてパンして発電所(?)らしき個所まで見せてから戻る必要があるということなのか。しかし列車内での職業と、帰郷の目的の話を最後まで聞けない(ように思う)直前のシーンもあって、この行っては戻るカットも相応しいものに違いない。どのくらい離れた距離なのかわからなくする港での声を張り上げるカットバック。向かいの席の男たちが三人並んでいると最初は気づかせないフレーミングと編集、昨日見たチャップリン『街の灯』での隣の席との関係に気づけないギャグからの発展として見る。食事の話。イタリアへ帰って来たアメリカ人。サラダの味付け、少年時代の記憶から消えたカタツムリの味、スープの不在(家庭での母親は夫や息子のためにスープは作っても自分では飲まない)、白い煙をたてながら焼けたニシンの皿に蠅が止まる。会話の流れを中断しては戻すメロン。先日のルノワールの話「ひとつひとつの場面を互いに別々に、それぞれ小さな映画として構想しようとする方法」つまり短編集の一種に近いが、チャップリンの場合は好かれても、ルノワールや、ストローブ=ユイレの場合は観客を当惑させる手段になる。たぶんブレヒト的ということなんだろうが……。研ぎ屋の話になって「世界は素晴らしい」から、最後に動物の名前などなど次々互いに声に出し合うとき、研ぎ屋のアップが入って、映画がそろそろ終わるだろう予感もあわさってか、意味が頭に入る以前に不思議と感動するが、それでも本当に武器が手に入れば……。続けて短編として独立した二本も見る。『放浪者』カット尻を短くして鳥の声が聞こえなくしている、終盤ぼやけているかの違い? それが正解かはともかく、二時間~三時間近い映画が思い出したように増える現在、短編や60分の中編を撮るほうが勇気ある、もしくは困難なことかもしれない。ウェス・アンダーソンも余韻を損なってでも三部構成にしたことが重要な気がしてきた。『偶然と想像』のほうが『ドライブ・マイ・カー』より良いという話になると、若干当たり前のことにも感じてくるが。