ウダイ・シャンカル『カルプナー』

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https://www.nfaj.go.jp/exhibition/cinema_ritrovato202312/

国立映画アーカイブにてウダイ・シャンカル『カルプナー』を見る。
カルプナーとはヒンディー語で「想像、空想」らしい。映画の冒頭には、本作が風変わりな空想物語であること、展開の早さに観客はついていけないかもしれないことが(そしてうろ覚えだが恋愛・政治・階級など様々な題材を横断する作品であること……が記されていたように思う)監督により記される。この説明に偽りはない。瞬きするうちに人物が落下し、しかし気がつけば戻ってくるような、出鱈目に目まぐるしい映画だった。
高橋洋だったか、以前にグル・ダットが大作でも監督・主演を兼ねることの許されたインド映画の流動的な製作を指して「自主映画のような」と評していた覚えがある。本作の監督ウダイ・シャンカルも原作、製作、振付、主演を兼ねていて、そもそも彼がどれほどインド舞踊史において外せない重要な存在であるかを不勉強から一切知らなかったのだが、しかし本作の印象もまた「自主映画」と言いたくなる、ある自由さを賭けて作られたような映画だった。
グル・ダット、リッティク・ゴトク、サタジット・レイらの主な活躍は50年代以降だが、本作は1948年の映画であり、インド独立翌年の作品にあたる。インド映画に関するイメージを裏切らない歌と踊りが大半を占める映画だが、その踊りはフルサイズと、やや仰ぎ見るようなミディアムの組み合わせなどハリウッド影響下の撮影所時代の映画らしい見事さだが、一方で繋がらないはずのものを繋げたような、または『勝手にしやがれ』より早いエピソード自体を飛ばす勢いのジャンプカットと言ってもいいような歪さ、または映画の自由さが一体となっている。クレショフ工房など一部のソ連映画の志した自由さ、またはマキノ雅弘の雑食ぶりを見るような無国籍の映画……たとえば『メトロポリス』を彷彿とさせる「人間機械」の工場が現れるも、そこでは蛇のようにうねるシャンカルの筋肉を見るカットが異物として忘れがたく見惚れるうちに、一方で彼をレールに乗せたのか、カメラがレールに乗っているのか瞬間的にわからなくさせる後方への移動撮影など見事な技術に驚く。この混沌ぶりをアジア圏の映画らしさと受け取れるかもしれないが、インドという国に縛られない歌と踊りの連なりが映画そのものの凄さとして印象づけられる。
この出鱈目に見えた映画も「美術アカデミー」の建設から、どこか現代映画を先んじたような(赤坂太輔さん風に言えば「上演の映画」的な)面が主題と共に強まる。床に四つに裂かれた布の「分断されたインド」のイメージ、ヒンディー語だけでなくベンガル猫、タミル語テルグ語のキャスター達が読み上げるニュース、「アジア各国の踊り手」を記録した質感の異なる映像の連なるモンド映画的にいかがわしくも研究めいて、かつ過剰な連なりのパート、そしてインド北東部ナガ族のダンス(「これをアフリカと見間違えるのは偏に無知によるもの」「ハリウッドはインドをアフリカ化した」)…これらインドをめぐる「夢」の「上演」がどこか『パノラマ島綺談』さえ彷彿とさせる奇想に近いレベルで繰り出されるが、その破綻寸前の連なりが夢想の忠実な再現であることを裏切って、この目と耳で体験しないと伝わらない狂的なものになる。
そもそも本作はある脚本家が「金にならない」と映画会社に断られた自作を「子供たちの未来のために」映画化の説得をすべく読ませている設定だ。ある意味ではグル・ダットに通じる映画製作、創作行為にまつわる映画かもしれず、またフェリーニと異なり「実現されなかった夢」についての映画だ。夢と現実、生と死、階級社会(時に性的な役割)を行き来するだけでなく、いわゆるセット撮影と、映画内の舞台のセットも交互に現れ、判別つけにくく、どこか映画の入れ子構造ともいえる迷宮らしさを強める(ミニチュアの多用も興味深い)。さらには二重写しの映像が魂の離脱はじめ、映画の上にさらに映画が重ねられているような(エピソード間にオーバーラップも多用される)、どこまでもイメージを上塗りしていき果てしなく、同時にスクリーン≒平面しか実はない錯覚をもたらす。または様々な人物から発する奇声に叫び声が悪夢のようでもあり、夢を突き破るようでもある。少年時代に女形に扮装して舞台に上がり、または少女から足を石で叩かれる暴力の痛々しさに始まって、冒頭から人物のイメージも激しく揺さぶることを繰り返す(その振り回すさまが文字通り渦を巻く回転運動になる)。やがてクライマックスは終わりなく続く金銭の話であり、それはたくさんの札束だけでなく、もはや感覚を麻痺させる呼び声でもあり、何より映画を支える「夢」と隣り合わせの空虚な実在だ。映画作りには金がいる。金がないなら自分で勝手にやるしかない。金になる夢しか求められないなら、一体未来はどうなってしまうのか、この絶望は今の日本にも響き続ける。