『ピアニストを待ちながら』(監督・脚本 七里圭)

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早稲田にて七里圭監督・脚本『ピアニストを待ちながら』を見る。今回は高橋哲也が撮影ではなく照明、撮影は渡邉寿岳。劇中劇の照明(とピアノ)をほぼ主役の井之脇海がやってる設定というのが光と影の七里監督作らしいかもしれない。
つながってるようでつながってないかもしれないジャンプカット映画。または『背』と前後してのコロナ時代らしき映画。そして吉増剛造と異なりノーマスク映画。上映後トークにて「僕にはこの時代というものがわからなくなりました」と始めつつ村上春樹ベケット別役実ブニュエル(またはロブグリエ、60年代ゴダールをごちゃまぜにした感じというか)、そして宮沢章夫と名前は続き(沖島勲のこともよぎった)、なんとなくわかった気になってしまった。
だが七里監督らしさとは結局何なのか。どこか色っぽいかすれた声か。『眠り姫』の声の色気は本作の横たわる男女からも感じる。それともどこか童心に帰ろうとするような肉体か。『背』の吉増剛造だって落書きしているだけのようなものでもあるし、声のない『夢で逢えたら』の男女も何をしているかわからないが夏休みの子どものようだ。そんな七里監督16歳の映画『時を駆ける症状』は紛れもなくクラスの中高生たちが映っていながら「大人顔負け」というフレーズが虚しく下らなく響くくらいの工夫でもって作られていたと記憶する。
『ピアニストを待ちながら』は上映前の舞台挨拶で「ピアノにあわせてのダンスの稽古はかなりした」と言いながら、始まってすぐはあえてのヘタウマか?と油断すると、これまたカット変わった途端に急にキレキレになったりと、ただ感動的なものでもないのが魅力というか(このあたりダンサーとのコラボレーションとは違う崩し方を模索してるかもしれない)。要所要所のナンセンスさ(それこそ『皆殺しの天使』を参考にしたからか、山本直樹を好む作家の趣味もしれない)が七里監督らしさなのかもしれない。渡邉寿岳は『にわのすなば』『夜を走る』さらに梅田哲也×森山未來『プレイタイム』とダンスの撮影続くが、監督によりテイストが異なるというか、先日の『にわのすなば』上映後トークでの草野なつかさんの「黒川さんの時が一番好きにやってるというか伸び伸びしてる」といった話はやはり思い出す。
澁谷麻美が「違うレイヤー(これまた七里監督らしさか)の人」だからか、一番空気の違うようで最も本作のあの世みたいな状況を体現しているのだが(あえて出番が少ないのがいい)、白い壁をバックに彼女の一言が締めていて、さすがだった。
併映の『不思議な図書館』はちょっと油断したら、結構後半攻めてて驚いた。