『フォルティーニ シナイの犬たち』

アテネ・フランセ文化センターにてストローブ=ユイレ『フォルティーニ シナイの犬たち』。イスラエルパレスチナをめぐる映画として、いま見直すべき一本だという気合を会場から感じた気がする(しかしデモには行けず)。
最初の第三次中東戦争のニュースに対して字幕が少なすぎないかと不安になるが、そこへフォルティーニの声が重なって、ようやく再び字幕がつく。必要最低限の(それ以下かもしれないが)字幕に思えても、これくらいの字数でないと内容を追えないのも間違いない(映画は字幕の読書ではない)。
とはいえボンヤリ見て話が頭に入るわけではないから、必ずどこか大事な箇所を読み飛ばしたか、目を閉じてしまったか、後悔する。眠気を催すのは退屈だからではなく集中力を要するからだ。ボンヤリ見て筋を何となく追えてしまう、それはそれである技術に支えられた映画の上手さ巧みさとは違う。そうした意味で上手く撮ろうとなんかしていない。
一方で挟まれる風景ショットの数々。その風景がどこで何を意味するかはみているだけだとわからない。だが何となく、それが一つの読み解くべき意味のようなものとして見てしまう点では(このショットは何ですか?どうして入れたんですか?と聞きたいが、聞くのも違うよな、と遠慮するやつ)難解だが、同時にこれがウォーホルの映画のように、ある時間の記録されたスタアのショットのようにも思うから、これはある重要な関連ある土地の固有名詞的な映像であって、だから無意味ではないという気になる(ただそれらは「エンパイア」のような他に類を見ない存在ではない)。そもそも風景を見ているときには字幕を追う、言葉を追う時のような緊張から解かれるためでもあって、一種の休憩に近くも感じる。そうして観客がより後半に集中できるようになるためか。
なぜここを撮ったのか以外に、なぜパンするのか、なぜ行って戻ってくるのか、なぜ2回以上360度パンするのかと聞いてみたくもなるが、でも赤坂太輔さんがtwitterに訳したように(自分なんかウダウダ書いてないで、赤坂さんのを読めば充分なのだろうが)マイケル・スノウの移動撮影に、ルノワール、溝口の繋ぎと名前を出せばいいのかもしれない。足元の記念碑から真上の空が映るかというタイミングで、車道から左側へのパンというロングテイク同士のぶつかり合い。2回かそれ以上の360度パンの後に、延々と続くミサの俯瞰の固定ロング、その同じ場所を回る動きに対する切り返しのようなものだったのかと思った辺りで重なるフォルティーニの「少年期から儀式は苦手だ」といった声が重なる。画面奥に船が去ってからも、暗く日の上らない岩礁を映しながら続く収容所でのことを語る声は、映像と音声が意味としてではなく重なる(むしろデュラス的な?)ように見え、聞こえ、話を読み続ける。その船は既に過ぎ去って、後に残されたのは波の動きか。一方でテクストを個人の記憶を語るものから容赦なく切り、『春の劇』のラストじゃないが、ある種の閃光のような白画面を挟んでいくフォルティーニの朗読(映画のコマが飛ぶたびに、映画のキレも研ぎ澄まされていくと言っていいのか、それともそうした切り刻まれるものとしてのフィルムの本質を知るからか、最後までまばたきできない観客は自分の目で黒画面を挟み、映画は完全に切らない状態にはできないからこそ、先の読めないものになる)、白画面を挟むストローブ=ユイレは他だと何か?と考える(しかしこの白画面も赤坂さんのtwitterを見たらストローブは既に話していた)。父の思い出を語るフォルティーニの音声に重ねられたカットでの、長い固定の終わり際に、目を潰されたフリーメイソンの三角形へ最後に移すレナート・ベルタの撮影も、そのタイミングも凄い(その場で録音を聞いてたのか? それともアフレコでの計算がすごいのか)。