『ショーイング・アップ』『ファースト・カウ』『サムサラ』

・ヒューマントラストシネマ有楽町の特集にてケリー・ライカート『ショーイング・アップ』。
自分よりもっと繊細に語れる感性の方々がいるに違いないとか思いながらも、しみじみと感動する。傷ついた者の療養期間についての映画でもあって、その意味で清水宏の生誕120年をこの映画で納められそうでよかった。ここでは子供たちや学生ではなく、そして愛すべき動物だけでなく、彫刻が生死の境を行き来しているような(時に亡骸にさえ見える)。
個展の準備をしているアーティスト達の話という点では『移動する記憶装置展』のことも思い出した。ともかくこんなに彼女の不機嫌さ、苛立ち、それを演じる側、見る側の表情の豊かさにグッとくるとは思わなかった。始まって「U-Next」の字が出た途端、慌てて行かなくても配信されたのかな……なんてケチ臭いこともよぎったが、そうした本当の意味での細部の豊かさを映画館で見逃すことほど勿体ないことはない。何より小津安二郎の日本だとか誇りたいなら『ショーイング・アップ』を見逃すわけにいかない。まるで終盤の光景なんか漠然と千駄ヶ谷か代々木あたりを歩かせたんじゃないかと思うくらい。そんな緊張を強いるはずないのに(相当険悪な状況にも置いてかれるが)、ミシェル・ウィリアムズアクションつなぎ&猫のジャンプカットを同じ瞬間にやったり、オープニングからエンドクレジットまで1カットも見落とせないんだと感じさせる映画もなかなかない。
要所要所のウォーホルファクトリーみたくガクガクズームとパンでドローイングと彫刻を見せつつ、流麗さ以上に一層慎重に見えるパンや、学校やギャラリーでは安定した横移動をしたり、それどころかある段階から不安定さも慎重さも豊かさの点で何も気にならなくなってくる。幾通りかの見せ方が生き物のごとき火の加減で黒ずんでしまいもする彫刻たちに、こちらの内面に応えてくれそうで裏切りもする姿に、動きそうで動かないが今にも動かんとしている何かが映画を通して捉えられている気がする(それはカメラの上昇のさせかたにも、立ち上がる人物から階上のアトリエ、鳩、結び目など通じている)。
ある狂気に陥った弟から「何も聞こうとしない」と言われた途端に、ミシェル・ウィリアムズに射す光と影と風の具合が本当に聞こえているはずの音たちをこちらから奪って、それが正気の側なのかわからないが異様な体験をさせてくれる。同時に、隣人のにぎわう声は耳に入るけれど、いつの間にか画面外の賑やかしどころか声さえ出さなくなった鳩へ手を伸ばすワンカットに胸を打たれる。
『猫たちのアパートメント』『空に住む』といった猫と話す女性の声を聞かせる映画のようで、話し相手が彫刻だったり、独り言や留守電に我慢ならなさや不快感が詰まったり、そうした様が一層刺さる。
不意を打つくらい丁寧に家族全員を揃わせる大団円へ並行して見せるのかと思いきや、これ以上ないくらいの不穏なぶつかり合い(夫婦再会の瞬間には目線つなげない見せ方が面白い)を演出するカット割りのクライマックスまで見逃せない。

 

・ケリー・ライカート『ファースト・カウ』。
Twitterばかり見たせいで「そういや納豆臭いマフィンとか高島屋のケーキとか日本は盛り上がるんだな」と思ってしまった。もっと早く公開してくれ!
『ショーイングアップ』のお隣さんとか猫ジャンプに『ロンググッドバイ』よぎるなら(赤坂さんご指摘済だが)、こっちはアルトマン『ギャンブラー』がよぎった。やはりインディペンデント魂か。
赤ちゃんに呼びかける声の動物みたいな可愛らしさや、東洋人、イギリス人ら異なる英語の響きや、牛に話しかけるダニエル・ジョンストンばりにスウィートな声や、薪割りの音が響かない銃声を予告しているようだったり、樹の枝が日を追うごとに徐々に悲鳴を上げそうだったように思えたり、やはり音は気になる。だから去年の『グリーンナイト』くらいは上映してほしいですよ。
うまいこといった感ある「甘い話にご用心」的なチラシのコピーに反して、なんともメビウスの輪的に結びつく先は見えているのに捻れた未来が待ってそうでもある。『リバー・オブ・グラス』『ナイト・スリーパーズ ダム爆破計画』に通じる犯罪映画ともいえるが、そんな因果応報と追い詰めない。

 

・ロイス・パティーニョ『サムサラ』を年末豪華な下高井戸シネマにて。
ところでロイス・パティーニョはどちらの方でしたっけ……と失礼ながら戸惑う。眠気を誘うリズムと発声のおかげでウトウトしつつ(ミニマルミュージック的な感覚?)、字幕を見る限り話は意外と細かい。しかし超ロングの中、ウロウロする人々という見覚えある画面も出てくる。意外と端正な画作りだったりする。
そしてアピチャッポンでもアノーチャでもビー・ガンでも七里圭でもここまでじゃない怒涛の暗闇の旅というかフリッカーというか笑ってしまいそうなほど繰り広げられた後に、カーテンのレースが揺れ、異なる褐色の肌の人々に話は移る。そしてヤギが走る。海藻がプチプチ。石鹸作りが面白い。
終盤にはムスリム式の弔いの話が出てきて、嫌でもガザでの連日の虐殺による亡骸のイメージと重なる。何もかもが異なる世界をグラデーションそのものとして見ているようで、どこでもスマホは出てくる。ヤギだけでなく海藻まで生まれ変わりに見えてくるし、あのヤギこそ映画における言葉の通じない話し相手として共感を覚えそうになる危うさ。それでも生まれ変わり以上に、樹にまで命はあるのだ、ということが突きつけられる。
時と場所が違えばバウスで爆音間違いなしだが。まるでオールナイト上映で寝たり起きたりしながら見たような気になる映画だった。