『猫たちのアパートメント』(チョン・ジェウン)

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チョン・ジェウン『猫たちのアパートメント』を見る。パンフレットを読む限り、おそらく公には上映されていない9時間版があり、二、三回の休憩さえ挟んでくれるなら絶対に見たい。


再開発による建て壊しの決まったトゥンチョン団地は住民が続々と退去していく中でも、以前からその地域に居ついていた250匹ほどの野良猫たちがそのまま暮らしているという。この猫たちを何とか安全に移住させようと活動しているのが、団地に住む女性たちを中心にした「トゥンチョン猫の会」である。この猫たちだらけの団地がどことなくシュールだ。その団地を撮る空撮やドローンらしき撮影も、不思議とミニチュアを見ているような奇妙さが、特にラストの取り壊されていくほど増していく。人間ではなく引っ越しのための荷物を団地の窓から運搬する装置に始まって、そのおそらく大半をしめる作業員の男性の影は希薄であって、終盤には重機が『ジュラシック・ワールド』のブラキオサウルスか『シン・ウルトラマン』の怪獣(字は面倒なのでこのままにしたい)のように現れる。そして重機に対して映画の中心を占めるのは猫と女性たちになる。


夜に窓辺を見つめる猫が団地での思い出(これまたよく似た毛色の二者が鏡のように並んで動いたり横になったりしていて可笑しい)を回想しているのだという編集をされていて、そんな人間側の一方的な思い込みかもしれないはずなのに、その猫の横顔からこちらが寂しさを見事に感じ取ってしまう。そんなフィクションが生まれると同時に、人間は猫に芝居をつけることなどできない。本作で人間が猫の内面を代弁する瞬間は一秒もない。インタビューや会議の中でさえない。ただメンバーの一人がいう、猫は人間を資源と見ていて、猫にとっておそらく私達は「缶切り」に見えるというだけだ。猫は自由だ。「言葉が通じたらいいのにね」とある人物が特定の猫を(その名前は漠然と耳に残るが姿はほとんど見せない相手を)探しながら言う。そのロングショットの距離の寂しさ。その思わず発した声。話の通じない猫たちとの間で人間が発する女性の声(この種の声の切なさを他の状況で聞くことはおそらくない)を聞きながら『空に住む』(青山真治)の多部未華子の声を思い出す(一方本作での猫の亡骸が現れる一シーンではあくまで感情は抑制された声での電話のやり取り「清掃課に連絡するんですね」が聞こえる)。その一人一人が思わず発しただろう声(それは本来観客のような存在が聞いていいものではなかったかもしれない)を拾い集めて連帯を作り上げる。


人間たち、トゥンチョン猫の会のメンバーであるイ・インギュ、キム・ポドら女性たちのインタビュー音声はかなり終盤手前まで声と画が切り離され、通常のインタビューを逸脱してモノローグとして響き(このあたり小森はるかの取り組みに通じる)、むしろ彼女たちの顔や仕草に猫たちへ向けたものに通じる視線を感じる。アパートを去る日の再現なのか、ドアを閉め階段を降りていくイ・インギュ自身にその場で一言も発せさせないが、屋内から繫がる一連の短いシークエンスと、彼女の姿に射す光と影が何かを物語ってくる。その豊かさは彼女たち自身が言葉にできない曖昧さを容赦なく掬い取っていく。それでも猫と彼女たちの間にある距離のように、映画と彼女たちの間にも距離があって、しかしこの映画は距離自体を意識しながらもどうしても踏み込んでいるかもしれないという危うさ抜きにはありえない。ついに見えるインタビュー時の顔さえも微妙な変化する瞬間こそ切り取ることで生々しく印象付けられ、ついにイ・インギュ、キム・ポド両氏の目線はつながらない別々の空間でのカットバックかのように結ばれる終盤には感情がこみあげてくる。


台所にて猫にキスというか囀り合うようなキム・ポドが発した画面外からの不意の質問に驚いたイ・インギュが「台本みたい」と口にするように、まさにゴダールの手法を転用したような、ドキュメントとフィクションの境界を意識させる。またはそもそも映画が始まってすぐのイ・インギュが口を開くショットに続いて、むしろカメラは質問に答える姿ではなく、室内にて何らかの作業をしながら何気なく背を見せる画に繋いで、アパートの歴史と自らの生い立ちを語る彼女の音声が重なる場面から、それがフィクションを演じようとしている人物として見られても構わない、つまり映画の中の女性として物語っている。それがいわゆる真偽の信用ならない作り事を意味するのではなく、徹底してフィクションだろうがドキュメンタリーだろうが真剣に見聞きするに値するものとして気づかせる。この「映画」として作られていることが、彼女たちの曖昧な仕草を容赦なく掬い取りながらも、彼女たちの存在を晒すような事態から守っている。その映画としての情報量の多さと繊細さが、映画を一秒たりとも見逃せない密度にしている。


トゥンイと呼ばれる猫の、呼ばれれば姿をすぐに現すが威厳ありげでゆったりした(しかしどうしても見ているこちらはニヤニヤしてしまう)歩みに、なぜか西部劇のインディアンの長の真似をしているように、どうしても連想してしまう。籠の中で神々しい光がさしているのもおかしい。それでいて夜になると『光る眼』になってしまう(猫は宇宙人?)。ちなみにトゥンイとは「デブ」という意味らしい。このようにそれぞれ猫たちが名づけられながらも(そしてある程度認識できるように撮って繋げられながらも)あくまで「猫」という匿名性との境界を行き来するが、それはある意味トゥンチョン猫の会のメンバーも変わりない。これはチームの映画のようでもあるが(そして『子猫をお願い』同様、友人たちとのその後についての映画かもしれない)、同時に『ハタリ!』を見る時のような(ある種リメイクのジョン・カーペンター『ヴァンパイア、最後の聖戦』がサイよりは吸血鬼に対して向けることで回避したような)動物愛護的な観点から「あり」か「なし」か、といった留保を見る側に瞬間的に導入しかねない、餌に誘われた猫たちが檻の中へ入ると柵がガシャンと降ろされる捕獲場面は一見「愛」とは別ベクトルの面白さになっている。猫たちがブルーシートのかかった隆起の影から首を出して覗く姿に『ヨーク軍曹』の鶏およびドイツ軍がよぎらなくもない(これまたある意味人道的なやり方での捕獲の映画だ)。だが終盤「戦場」のような状況とキャップをしたキム・ポドが口にし、そしてイ・インギュと並んでいる時の二人のどことなく勇ましかったような印象に残るが、ここで「母性愛」という言葉が出てきて、不意を衝かれる。そのいくらでも身を捧げられる愛の危うさについて言及され、この種の愛と「動物保護」の観点とは異なるものであり、同時に猫と言葉の通じないメンバーたちの孤独な佇まいが忘れがたいものになる。一方パンフレットによれば愛を捧げる側の「猫ママ」(地域猫の世話をする団地の住民たちであり、キム・ポドもまた猫ママ出身らしい)から猫への対価(ギャラ)を払えないなら、せめて美味しいものを食べさせてほしいという意見から、おやつを与えながらの撮影になったという(このあたり『私は猫ストーカー』作中での、猫を撮るまでのコミュニケーションと重なる)。映画での猫の会のメンバーはむしろ猫パンチをくらうくらいであり、その室内の女性と猫の通じ合えない寂しさを隠しきれない様子が忘れがたい。


ほぼ女性しか姿を見せない中、バードウォッチャーと警備会社の職員二人組という男性が現れる。おそらく彼らにとって猫とは、団地を自在に行き来する存在だ。バードウォッチャーは(特に日本の観客としては見慣れないものを見てしまった不気味さをどうしても抱く)尾っぽは白いけれどカラスのような鳥が団地に迷い込んで、自力では出られない有様に、鳥には知性がない、窓に身体をぶつけて死んでしまう、という。一方、知性のある猫は(観客さえそこに窓ガラスがあると思っていた)枠の中を潜り抜けて団地に入り込む(そこで自動的に動くカメラ相手に本作では比較的珍しいカメラ目線を披露する)。一方の警備会社の男たちが団地を巡回したのちに(このおそらく初めて本作の画面の中心に現れる男性たちの存在は特に大きく脅威として接触しては来ないが不穏な予感をもたらす)、ダクトのある地下室を猫の会が探る場面では、猫の姿が見えないことで、『アタック・ザ・ブロック』(ジョー・コーニッシュ)のエイリアンが隠れ潜む団地を、また『ウィラード』(ダニエル・マン)、『ベン』(フィル・カールソン)の鼠もまた知性の持ち主であり、特定の人間との間に生じた強い関係に左右されていたことを思い出す。地下室での怪物との遭遇や、動物パニックの光景を、そして猫と女性の結びつき自体が名前を出すまでもなく『黒猫』や『キャットピープル』のような恐怖映画のいくつかを連想させる題材でもあるのだが(しかしこれは強すぎる愛の形なのか)、こうした振り幅もまた本作の魅力かもしれない。


あまりにも多くの猫のショットがフィクションとしての映画を壊しかねないんじゃないかと不安にもなれば(もしかすると今年の最も『勝手にしやがれ』に近い映画かもしれない)、猫を追跡するときのショットの連鎖が続くほど、こんな映画は見たことないと、猫に導かれるように前人未踏の領域へ引き込んでくる(それもまた愚かにも猫を代弁するなら「勝手にしやがれ」だろうか)。

 

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