年末の映画日記

・国立映画アーカイブにて『月夜鴉』(39年 監督:井上金太郎)木下千花さんの講演付き、『名人長次彫』(43年 監督:萩原遼)。
『月夜鴉』恋敵もいる神社にて実質結ばれる長回しがおかしさと切実さの塩梅が良くて、それからの裾が汚れるたびに慌てて拭く仕草を要所要所はさみながらの男女の横移動を中心にしたコミカルな日々も楽しい。芸道物といえば稽古場面が付き物のようで、一年にわたる稽古がほぼ一回のパンを挟んで終わらせたも同然の潔さに驚く(本当に上達したのか不安になる)。代わりに、墓場で一人三味線を弾く画が記憶に残る。
終盤の演奏シーンになるまで、不意に家に残るはずの飯塚敏子から髙田浩吉への言伝を頼まれた女の子の出番がややまどろっこしくしているだけのような、それなりにハラハラさせるような微妙なところで、ちょっと引き延ばし過ぎで微妙な映画だったかもと不安になるけれど、続けての真正面からの髙田浩吉の三味線、それを見守るように聞く人々、特に柵越しの飯塚敏子側からのロングとしっかり演奏にも時間をかける。終演後の結末も、女の子の伝言がどう働くか先が読めなかった分、意外と呆気ないのだが、これは巧みなのか、まどろっこしいだけなのか。判別つかないが印象には残る。
たいして面白くないと思っていた萩原遼の『名人長次彫』は意外と良かったと思う(一緒に見た知人が「そうでもない」と言ったので自信なし)。長谷川一夫×山田五十鈴の組み合わせだが、今回は芸道物のようで長屋物のようで、終盤はまた違った映画になる。初っ端の鐘、誰もいないのに開く扉、朝の長屋の人物の出し入れと引き込まれる。というか、この日本だかフランス映画だか入り混じった光景が力強くて、襖越しの影や、煙突に線香に志村喬の煙草といった煙も見える。美術・中古智、撮影・安本淳という後年の成瀬巳喜男の映画での組み合わせが既に。長谷川一夫が酒場で酔う時に山田五十鈴を幻視する場面でのトラックインといい、陰影といい、日本の時代劇とは異なる物を見ている感覚。弁天様にも見える山田五十鈴が水面に映る画といい、水に囲まれた空間でもある(濠のある側からの移動撮影もある)。43年東宝の技術を惜しみなく注いだ一本なのだろうし、ただ「お国のために、いまは像を掘ってる場合ではない!」というメッセージの強い台詞に反して、像がぶった切られる展開が軍国主義下の芸術の置かれた理不尽で酷な状況を視覚的に現わしているようでもあるし、山田五十鈴の辿る運命も容赦なく、最後の勇壮ではない微妙なスローモーションで走り去る長谷川一夫の後ろ姿など、先に聞いた木下千花さんの講演も相まって、当時の作り手たちの意図以上に複雑な文脈の中にあるように見える。

 

内田吐夢監督『警察官』を国アカにて再見。
アホみたいな言い方だが、もの凄い映画。内田吐夢の映画はそもそも凄いのだろうが、それでもドライヤーの『吸血鬼』とか、ルノワールの『十字路の夜』とか、ニコラス・レイの『夜の人々』とか、清順の『殺しの烙印』とか、『狩人の夜』とか『ハネムーン・キラーズ』とか、そうした凄い、凄いと有名な凄い映画たちと並んで凄い映画かもしれない。
内田吐夢の『恋や恋なすな恋』の大川橋蔵が発狂して黄色いお花畑をさまよう舞台転換も凄いが、本作の旧友二人が座敷で寝転がっているうちに、字幕を挟んで、草の上で学帽被って横たわる二人に繋げてる場面は別の凄さがある。『飢餓海峡』の左幸子三國連太郎と再会するまでを一つの舞台上演として再現可能に見えてくるのが感動的だが、『警察官』のノヴァリスを読む字幕とともに無数の時間が一気に押し寄せてくるような場面は、たとえば8ミリフィルムで学生時代の思い出をフラッシュバックするみたいな、今となってはありきたりな演出が、既に内田吐夢という先達によって力強くなされていたんだという凄さがある。
ファーストカットの満開とは言い難い七分咲きか、もしくは散り際なのかわからない桜の木が間隔をあけて植えられた、どこか殺風景な道路沿いを警察官らしき人物が佇んでいて、そこへ遠くから車が走ってくるのを待って勢いよくパンする(『太陽を盗んだ男』のバスジャックのようなわかりやすさはないが、どこか漠然とそうした事態を予想しなくもない)。何でもないが何かが起きるのを待ち受けながら見るしかないような冒頭から興奮するのだが、その車内にいる人物を小杉勇はじめ職務質問をするのだが、そこでのカットの割り方、アングルの変え方も複雑なのに、一つ一つの画をあからさまに作り込み過ぎない。その後の異なる空間にいそうなのに視線の繋がった旧友二人の再会(この二人の切り返しを滑らかなものにさせない繋ぎ方は、ライターをいただく場面や、終盤の背景をホリゾントにいきなり変えたような手錠をかけるカットまで通じる)、そして署長の車を延々追い続ける長回しと、直後のタイヤのアップ……と凄いとしか言いようのな画と繋ぎで続ける。
内田吐夢といえば、ここぞという時のパンが印象深い監督だろうけれど、『警察官』後半の町中でのパンの使用と一軒一軒の隙間から人物の動きを追っていく画が面白いのだが、さらに移動撮影での反射して映り込んでしまっているショットなどとにかくいきなりで激しい。さらに画面いっぱいに映るメモの一つ一つも力強い。
おそらく以前は活弁つきの上映で見たのだが、今日は何の伴奏もない状態で初めて見た。活弁を否定したいわけでもないし、何の伴奏もないのがあるべき上映といっていいわけでもないだろうが、それでもこの映画の凄さがやはり伴奏無しだから一つ一つダイレクトに迫ってくるというか、迫力は間違いなく以前見た時よりも段違いだった。
共産党の扱いをめぐって批判されるべき映画だとして、そうした面も満州から中国残留を経て帰還後の吐夢作品と何か主題の面で引き裂かれるかもしれない。35歳の監督にとっての、まだ50歳過ぎてからの作品にはない若さの力が残されているともいえるか。

 

ブラッドリー・クーパー『マエストロ』。
最大の衝撃はレナード・バーンスタイン役がブラッドリー・クーパーだったことかも。
『首』に『御法度』を思い出す人も多いが、こちらは『J.エドガー』がよぎってしまう。「嘘を言うな」というシーンにイーストウッドは切り返していたと記憶しているが、こちらはロングで両者を横から撮る(だけでなく、ある巨大なものが奥を横切って、彼の存在を縮こませて見える)。ロングとアップの切り返しが、それらを等価値にする…云々考えるが、まだ答えはない。素直に傑作とか言いにくい。それはネトフリとか、スピルバーグの名前をこのタイミングで見てしまったこととも無縁ではないか? しかし初っ端のあからさまに『審判』かとツッコミたくなる冒頭からウェス・アンダーソンの映画と同じく劇場で必見に違いない。
この平気で前回と違う映画を撮ろうとできるのも俳優兼監督の強みか。

 

ポール・キング『ウォンカとチョコレート工場のはじまり』。
バートン版の前日譚かと思ったら全然違うと後から知る。
シャラメはSNLにてハマスを揶揄した件で印象はやはり良くない…と引きずりながら見てしまう。映画は、庶民は何やっても罰金取られる、大会社は警察と教会を抱き込んでやりたい放題、まあまあしみったれた現在。
最近は「たいした批判になってない」とマジになるべきか、「こういうのが映画の良さなんだよ」というべきか、生まれてから一度も態度を決めれてないので、まあ、僕はよくわかりません。
ちなみに映画は『甘党革命 特定甘味規制法』という映画を思い出した。
ラストは『パディントン2』みたく大捕物で閉めるかと思いきや、ヒュー・グラントがおいしいくらいで意外と大したことない…ようで親子再会のヒューマンなラストに至るチョコ分配に不覚にもグッときてしまう。

 

小津安二郎特集。東京国際の恨みをBunkamuraで、と思いきや一週間、夜の回はゼロというタイムテーブルのせいで『東京物語』4Kしか見れず。
ネガ焼失の呪いが消えないのか、ラスト近くの香川京子が教室から見ただろう列車のカットから、原節子のいる車内へ移る前に、おそらく上映トラブルで緑のノイズ走って一瞬暗転、一秒もしないうちに勢いよく列車が走り抜け、かなりビビるが、何とも不気味な印象強まる。
というか、画面の具合がますます怪奇映画調に見えてきた。だからといって怖い映画と言いたいわけではない。なにかリアリティの有無とか、そういった見方とは全然別の悪い夢を見るような感覚がある(悪夢は生々しいけど肌で触れられない)。笠智衆が突然目を覚まして若返る可能性もあるような。その種の悪夢としては『宗方姉妹』とか『風の中の牝鶏』とか『東京暮色』とか、死が絡んでの激しさ(そして蘇生)は『小早川家の秋』とかどうなんだろうと見直す必要感じる。
堀禎一監督による『憐』の「時の囚われ人」という言葉がまさに相応しいけれど、原節子の有名な「ずるいんです」から「とんでもない」に挟まれた、今日もまた同じ日が繰り返されるんじゃないかと、何か違うことがあるんじゃないかという身振りから、笠智衆から懐中時計を手渡される展開の切り返しが、双方の変化を(笠智衆の涙目とか、映ってない間の変化か、どちら側に自らが立って映画を見ているかの変化か)見ることを迫られるような感覚になる。これにより原節子は懐中時計を手に、新たな旅を余儀なくされるのか、わからない。
秋刀魚の味』の岸田今日子とのやり取りを思い出す、東野英治郎のくだりで、笠智衆東野英治郎へ振り向く時の、人物がセリフを発し続けるシーンでアクション繋ぎをする上に、そこでの笠智衆も涙目なのが不意をつかれる。さらには東野英治郎の笑い声の響きを跨いで、いきなり女将の別室にて妙に艶めかしく、けだるげにうなじを見せた姿も驚く。そこで一気に時間と空間が飛躍して、容赦ない現在が熱海をフラッシュバックするように見せる。この艶めかしさを引きずるように、つづく東山千栄子との場面での原節子の姿も浮き出て見える。その視線の向け方によるものか、角度と光の具合か、妙に妖しく、家族の一員というものとは異なる存在の女として見える。次の場面は杉村春子の美容室での、三つの角度からモデルの髪型を描いた絵が女将、原節子の印象とともに目につき、そして杉村も珍しく無言で目を開けて横たわっている。それからの笠智衆東野英治郎の帰宅に劇場では笑いもあったが、ここでの香川京子が産まれて以来長らく治まっていたはずの笠智衆の酒癖の悪さの話と、東野英治郎に対する杉村春子の「知らない人まで連れてきて」という呼び方、二人が椅子に座って寝る姿までセットになって、何とも言葉にしがたいが忘れがたいものがある。美容室の空間がタイムマシンかコクピットに見えるような違和感。

 

アキ・カウリスマキ『枯れ葉』。
いつも通りという感想ばかり聞いてきたが(しかし本当のところ、そんな安定した作風の監督なのか)、毎度のことながら良い映画だった。
もはや誰の余計な感想を聞いても腹が立つだけだから、見ました、良かったです、それだけで十分ですと言われかねないくらい。
カウリスマキの言葉に偽りなく、たしかに『罪と罰』にはじまり『カラマリ・ユニオン』のサウスパークのケニーかと言わんばかりに殺されまくるグラサン男たちといい、たいていの場合は暴力を受けるわけだが、(財布は盗られかけるが)今回はない。ひとまずこれも戦争のせいとしておく。だからといって世知辛いのに変わりなく、血生臭い事件の話も聞こえてくる。
ラジオのチャンネルを替えると流れる歌声、国家間の侵略行為が、国境を超えて聞こえる歌声に変わるだけで心動かされる。無論、それだけで窮状から救われるわけでもない悲しさ。劇場ポスターも相まって、言葉にするまでもなくゴダールのこともよぎる。
今回は特に天使のような犬。天使といえば、ぎこちなさをこれ以上なく豊かに変奏するような音楽とともに、映画館の前で電話番号を吹き去ってしまう風が二人を引き裂く運命のようで、ただ「そんなものはいらないんだよ」と言わんばかりに優しい映画の息吹に見える。ぶっちゃけすれ違いメロドラマなんか今時見てられないかも……というモヤモヤを忘れさせる。
さらに愛のために酒を断つ選択。終盤にほぼ背中だけ見せる常連さんがシブすぎて涙。

 

・村田実『霧笛』。
相変わらずアホみたいな感想だが、凄い映画があったんだなあと。4回くらい見てる方もいるから(右翼っぽい映画獣とか含め、いつも既にああいう人たちは見てるわけか)、今更かもしれない。
そしてカウリスマキ新作同様、右に同じく、って感じで、皆さんと一緒に圧倒される。
冒頭の船首像の顔から、船上の西洋人たちの顔、顔、顔(と来てからの特殊メイク級に変貌した菅井一郎)、そして乞食同然の人々。
港町に雪景色、商売女にヤクザ。
ほとんど夢が現実になったような。
『霊魂の不滅』とごっちゃになってる『路上の霊魂』の監督が、特に後半の活劇を撮るとは思わなかった。壁にぶつかる泥のようでも、とにかく美しい。
神戸映画資料館の告知を読んで主演女優を待つ出来事に絶句。

 

・『広島を上演する』。
四作とも誰かが画面から姿を消す。そのまとめ方はざっくりし過ぎかもしれないが。おそらくどれも2022年に撮られているのだとしたら、アラン・レネ生誕百年か(強引か)。
『しるしのない窓へ』は家庭内での朗読が「上演」となって、夫婦が時間をずらして舞台袖に消えるように画面外へ出て、音声だけが残され、もう一人の女が侵入者としてではなく、その上演を見る側だったように出てくる。誰かしら消えるというか、それらが本当に一緒にいた二人の女の出来事なのか宙づりにされる感覚は、水面と地面が上下反転した画から予想しうる展開でもある。
『ヒロエさんと広島を上演する』は窓越しの埃に見える、寒さとか、積もりそうな感じがまるでない雪というのが奇妙だった。その季節感の宙づり具合に対して、一方でヒロエさん(「広島を忘れない」ために付けられた名前)自体の影になった姿と、編集された音声が30分ほどのリアルタイムにまとめられたようだが、おそらくそんなこともないのだろう。どれくらいの時間をかけて撮られたものなのか謎めいている。最初に音声だけでなくヒロエさんが映った際の、彼女の声と身振りが重なったところに目が行く。同時に、それ以降の風景とヒロエさんとの映像の編集が、正直誰にもどのタイミングが正しいといえるのか決定的なものがなさすぎる気がして、曖昧過ぎるのが引っ掛かる。

『夢の涯てまで』は初見時に室内の男女の関係を勝手に推測してしまったが、彼が幽霊か精霊かともかく、室内にいる誰かにしか見えない存在として撮られていたが、彼女にも見えるかどうかわからなかった。そうした意味で『王国(あるいはその家について)』特に終盤の本読みパートにて、同じ空間にいるのに、いないはずになっている人がいる状況(本読みを聞いている足立智充、画面外の少女に歌うのをやめるよう繰り返す澁谷麻美)の延長なんだろうと思った。『王国』のホン読み後に作る読書の映画で、再見して何が理由で彼が消えたのか、なぜそもそもそこにいたのか、結局わからないままにしておきたくなった。

『それがどこであっても』は前半の稽古のパートに対して、後半の録音から、壁にすられての音にそれほどの不快感もないのが中途半端に思えたり、不必要に長い気がどうしても拭えず、どうにも掴みがたい。