『カツベン!』

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『ワンスアポン』や寅さんの亡霊がやってくる年に『変態家族 兄貴の嫁さん』の作家が『カツベン!』を撮るのは、もう何の驚きもない必然に見えてくる。
もう渥美清はいないということを映画館にわざわざ確認しにいく意味は所詮かつての輝きにすがるだけだろうが、それよりも『カツベン!』の竹中直人を見るほうが、そこに映画を引っ張るに相応しいコメディアンが存在しないことを嫌というほど意識させられる。おそらく映画を監督できなくなってからか益々悪化している竹中直人の本当にどれほど笑えるのか面白いのかも非常に怪しいアドリブが(はじめての組み合わせではないのはわかっているが)、何十年かしたら誰だかよくわからない漫才師がゲスト出演したみたいか(『化け猫御用だ!』の中田ダイマル・ラケットだって、正直もう僕にはよくわからない)、もしくは永瀬正敏のアル中弁士の役を竹中直人のほうが演じてしまっていたかのように、あえて残される(それでもフィルムを荒らされてから嘆くシーンは殴り込み直前みたいで悪くない)。
すっかり『フレームの外へ』(赤坂太輔)にかぶれた言い方をするなら「限界」を示す映画かもしれない(『冷たい血』の石橋凌と比べて本作の永瀬正敏に清順・宍戸錠がよぎるのは、指摘しやすいオマージュの一つくらいかもしれないが、あの水筒が撃たれるのはいい)。かつての日本映画たちと同じものがやってくることなんか誰も期待していない。そんな時に、見れなかった『ジゴマ』の代わりに少年が少女に弁士の真似を演じる映画、もしくは映画そのもの以上に、上映の場にいる弁士と観客の反応こそ見る映画が試みられるのはふさわしい「歴史の流れ」かもしれない。しかしそんな映画を本作の環境で叶えることはなく(本当に舞台上で貫禄を出すのは渡辺えりくらいというのが阪本順治と比べたくなる)、むしろその「できなさ」に感動する映画になっている。ただその「できなさ」を意識してるかわからない成田凌はじめ若いキャストほど美しい。
追記:映写中の闇に隠れた存在としての弁士のはずが、おそらく作家が求めたほどの闇が許されなかったのか、弁士と観客が互いを見えているのかいないのかが曖昧になる。その曖昧さは映画館の闇から離れて、少年時代から数年の時を経て再会した男女(さらには竹野内豊)が互いの顔を認識できたのかどうかへとズラされる。そこに「限界」への意識を感じる。
何よりの「限界」は守られない約束についての映画としてシナリオレベルにも反映される。『変態家族 兄貴の嫁さん』の作家にふさわしく、感動的なパロディである。そこに小津は当然よぎるが(笠智衆らしきエキストラたちと三人組の戦争帰り)、『折鶴お千』のように苦しむ成田凌からの溝口のパロディとしてよりも、本来食い合わないはずの映画たちを結びつけた結果、男女の別れが「守られない約束」として残ったようだ。フィルムの切れ端を繋げての上映以上に(ラストシーンは正に自らのキャリアの切れ端を繋ぎあわせたようだった)、それが男女間のボタンの掛け違いとして「男なんかどれも同じ!」という接吻で極まるところが何より泣かせる。
弁士の映画だからか、「これ以上の説明は映画を殺す」と言わんばかりの、ギリギリの親切さ。成田凌がトラックの荷台で悪漢の手を放したり、札束入りトランクをわざと交番前に置いてこうとしたり、それがギリギリ説明過多にならない心理描写なのか(だがそれはかつて弁士たちの担った役割とは別の話だろう)、どれほどなら喋りすぎでないのか、そんなの説明しなくてもわかるくらいなのをスローに確認しているようでもある(「スロー」といえば高良健吾の喋りに合わせて映写の回転速度を落とすシーンもあった)。あのクライマックスの、壊れた自転車と人力車の追いかけっこという、降りたほうが早いし、それを観客も突っ込みながら見れるシーン。どちらもが同じフレームにいたのが、成田凌が降りてくるときになってようやくフレーム外から転がってきて不意をうつ。そもそも冒頭、少年がなぜ撮影現場へ犬を放したのか、単に引っ掻き回したかったのかもわかったようでわからない。その曖昧さは映画完成後に永瀬正敏活弁により代弁されるが、勿論真実の動機ではない。この種の曖昧さは映画を生かすギリギリの蘇生ラインなのか、何をもって映画ならではの偶然なのか、ご都合主義なのか(あのピストルは弾切れじゃないのか)。それを疑問に思える人のためなのかは非常に怪しい。ましてや『カツベン!』を見て「現代映画」に目覚める可能性はさらに低い。ただ、どこか「これで受け入れられなければいよいよ日本映画は死ぬ」というラインを記録したようでもある(周防正行ジブリが引き受けてたラインを継ぐのだろうか)。