『交歓距離』(監督:青石太郎)

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つきじ玉子焼映画祭の配信にて『交歓距離』(監督:青石太郎)を見る。

奇妙なアフレコ映画。既にシナリオがあるかどうかは勿論、この音声を後に重ねることで、画面や役者の「自然さ」に対して映画そのものは人工的になる。

物語にも意味がある。よく一緒に遊んでいるらしい男女四人組(ユウ、アサコ、ミナミ、ハジメ)。ユウがミナミとハジメに向かって「今夜アサコに告白しようと思う」という。ハジメは、今夜告白しても振られるんじゃないか、と言う。そのカットバックがアフレコの効果によってか、その口元の一致を緊張しながら見てしまう。誰かが話している途中で、それを聞く側へ切り返す。そんな「あえて」割られただろう切り返しも、口元を見ているだけでスリリングになる。そして話を聞く側の顔のショットも、その聞いている話が本当に現場で聞こえている画なのか謎だからか、単純にモノクロ画面の光の具合がいいからか、役者そのものは生々しくても画には人工的な美しさが宿ってくる。
常にそうとは限らないが、たびたび映画における男女の愛の告白は、当事者二人だけの場でおこなわれるよりも、それを見守る第三者がいた方が成功することがある。それはプロポーズを指すのかもしれないが、もしも第三者のいる場で告白して失敗したら本当に恥ずかしい。第三者の存在が、愛の成就における「ちょうどいい」タイミングを証明してくれるのかもしれない。

『交換距離』のユウはアサコに「実は今夜、告白しようと思っていた」と告白してしまう。こんなのは何一つ褒められたものではない、相手を困惑させるだけで何と返事をしたらいいかわからない。それでもユウはアサコに「嘘はない」と、また別の日のファミレスで言う。言ってしまったタイミング自体はおかしくても、それが嘘ではない、「本当」のことなんだという。告白するタイミングはおかしくて、肝心の告白そのものがなくて「今夜しようと思っていた」というズレた告白をしてしまう。これは後を引く。この映画の時間は飛び飛びで知らぬ間に過ぎていく。四人組のうち、ハジメは去り、いつも四人で遊んでいたはずが三人になっても遊び続ける(このあたり『憐』をどうしても思い出す)。ミナミは引っ越し、いつの間にか二人になる。「引っ越し」という言葉が出てきて、しかしそれっきり二人きりになったというわけではなくて、いろいろあってハジメもミナミも退場せず、映画の中に再び姿を現す。

男女の付き合いが、常に二人きりになることを選ぶわけではないだろう。でも「後を引く」関係のせいか、なんだか四人のうち二人がいなくて、ユウとアサコの二人だけになってしまうと気まずい。単純にユウがズルいのか? わからないが付き合っているわけでもなく、完全に避けられているわけでもなく、曖昧なまま二人になる。

ちょうどいいタイミングというのがあるのかわからないが、声と画は丁寧にズレることなく一致する。「ちょうどいい」というよりは神経質なものを感じるくらいに。「恐いくらいに」は言い過ぎかもしれないが。この映画の強い意欲を感じる。
アサコがコップの水を飲んでから、すぐにトイレに行き、そしてユウはアサコを待つ間、トイレの水が流れる音を聞くことになる。(品のない話だが)飲んだ水がそのまま出たわけではないだろう。しかし水の流れが音として聞こえる。彼女が飲み込んだ返事はどうなったのか。水が喉を通る音が聞こえるように、このアフレコ映画ではうなずきや、口を開かない曖昧なリアクションに効果的な音が重ねられ、ユウに向かって明瞭な返事ができるわけのないアサコの喉の奥の音が聞こえてくるようである。その現実に聞くことができるかわからないが、聞いたつもりになれていた音たちが面白い。

手を繋いで一緒のベッドに入って(着衣はしているが)愛は成就されたのかもしれないし、最後にユウはアサコに「じゃあ、また」と言って別れるが、それから再会できるかは誰も保証してくれない。