本当に恥ずかしながら、ようやく自宅にて田中絹代『乳房よ永遠なれ』を見た。機会はいくらでもあったのだから(今回の映画祭然り)アイダ・ルピノ監督作より先に見れたはずなのに何をやってるんだと、わざわざ書いて人に読ませるのも何だが。そしてルピノを見たときと同じく、古典から現代映画へ橋渡しするキーになる50年代の作家の一人だったとようやく認識する。夫の不倫相手が逃げるシーンから特徴的な省略が始まり、(『流転の王妃』の娘の自死に通じる)結果だけを繋ぐといえばいいのか。何も知らない存在として囲われた女というモチーフも既にある。フレーム内に鏡や窓、格子などの枠が存在するという辺りに、何か同時代のアメリカ映画への意識がありそうな気がする。杉葉子へ向けて「見せる」シーンから、風呂場と居間の間を音がすり抜けているというのが恐ろしく、それによって何が結果として起こるというわけでもなく(月丘夢路が倒れているのだが、それも驚きという結果ではない)緊張感のある曖昧な時間が続く。
東京国際映画祭は逃したが今こそと田中絹代『月は上りぬ』。動物の群れから始まることも何らかのテーマに繋げられそうだが、ともかくどこかで見たことあるような映画が、北原三枝の一挙手一投足の予想の枠の嵌らなさとか、アングルの変化とか、画面奥のススキやムク犬の登場とか、一つ一つを覚えきれないほど別物の映画に変わっていく。それが古典から現代へ、日本から世界へ駆け抜けていくという言い方が恥ずかしいなら、映画の台詞にあるような、大変古風なのか、モダンなのか、その二つは相通ずるものなのか、それ言葉自体がむしろ小津を指すとしても、田中絹代はどこか古風でも「モダン」でもない今、現在、もしくは越境した先(それがアメリカか、あの妙に夢のような月なのか)へ向けて突き抜けていくというか。なぜ映画を締めくくる笠智衆と山根寿子の親子とも夫婦とも師弟とも判別つかない組み合わせが、歌によって、その場にいない佐野修二との組み合わせでは出来なそうな「何か」があるのか。やはり『夏の娘たち』(堀禎一)の俳優たちが同じフレームにいての「何か」と同傾向の志がある。特に姉妹の(女同士の)組み合わせの充実は、やはり男の立ち入る隙のない世界があるというだけの話なのか。それでいて『SHARING』(篠崎誠)で見たような、まるで夢の中で再会した死者と話をするような、男と女が同じ時間を生きていると思えないからこそ美しいシーンもある。それは『風の中の雌鶏』や『お茶漬けの味』のことがあるとしても、あの(まさに驚異的な人口の月による力なのか)光の変化がどうしても黒沢清を先駆けているように見える。