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後回しにしてきた田中絹代監督作のチケットを譲っていただき『流転の王妃』。「軍」という主体の曖昧な組織と、傀儡政権と、華族の婚姻に始まって、娘の自死の原因をめぐって引き離されたままの夫婦の手紙によって終わる。夫婦は顔も合わせられないまま、ただ互いに娘の死の責任を引き受けようと書き記す以外なす術はないのか(もしくは親たちが取れない責任を娘は引き受けたのか)。一貫して宙づりにされているような。雪や花を追うように上昇していくカメラの一方で、地にはカラスと共にかつて皇后だった阿片中毒者の亡骸が横たわり、辿り着けなかった者の名を杭に記した墓がある。絵のように焼けた空を描く行為が彼女を「王妃」とはまた別の像にあえて閉じ込める。見事な映画かつ、どこへも帰れてないような、行く場を失ってしまった気分にさせる。

軍とは、大きな声に流される力として語られる。「軍」は自らを大きな声そのものとは思っていない。大きな声に耳を傾けて動いてくれたものらしい。一応は軍人らしき責任の取り方を最後は示したように退場してはいるが、既に彼らは映画の中心にいない。映画も京マチ子の一人称のようで、その奥には入り込めない。仕草の一つ一つが礼節や儀式の内に回収されていくかもしれない危うさ(その演出を女優出身の監督が引き受けていく凄み)。生きていて、日々問われる「主体性のなさ」という言葉。何かを動かすように思えた人々がことごとく流れていくばかりで、またそれらは常に軍の監視下にあるという。その軍とは何者なのか。時おり名前の出てくる昭和天皇の友情という言葉は虚しく響く。
京マチ子は「油絵」を描くことが許されたと喜びながら登場する。画家として独立する夢の挫折。それは十分悲しいことなのだろうが、映画はその挫折にも距離を置く。
映画だけ見ると娘の自殺の理由どころか状況さえ意味不明である。それを大島渚の映画に登場するようになる、唐突に横たわった女性の遺体を連想するのは極端かもしれないが、いったいどういう状況で京マチ子は娘の亡骸と対面したといえばいいのか。その京マチ子に悲しみは感じても驚きは何一つさせていない。京マチ子によれば、娘のアイデンティティと国家を結び付けようとした重圧が招いた死の可能性がある。京マチ子楊貴妃を演じたことがあろうと、京マチ子と中国の間に繋がりを映画から見出すことの困難さ。その報せを受取った船越英二からの返信もまた、ただ彼がそこにいることができない、そうならざるを得なかったことが娘の死に結び付いたという。無論、娘の死の原因を明かすことに映画の意味があるわけでは全くなく、しかし軍という主体性のない大きな声に流される存在と、一人の娘の死を結び付ける、このポッカリできた穴のようなものに吸い込まれそうになる。