『ラ・フロール 第三部』4章まで。相変わらず微妙。「ようやるわ」と呆れる。ただナワポンよりはこっちをPFFでやったほうがよかったんじゃないかと(椅子的にも)思うが。それでもワンピースシリーズや『ジョギング渡り鳥』での鈴木卓爾や、諏訪敦彦『はなされるGANG』のほうが面白いといったら内向きなんだろうか。PFFも話題のを見て、長回しか、カットバックか、出鱈目ばかりとか、自分のことを棚に上げて思ってしまい、そうなると衝動の強さの具合で選ぶしかないんだろうし、さすがに審査員でもなんでもない自分らは『ラ・フロール』スパイ編(奇遇にもシネマヴェーラではサイレント祭り)の回想パートとかちゃんと見直すべきなんだろうが。

『ラ・フロール』サイレントになってからの最後5・6章(あわせて90分くらい?)のほうが面白かった。それだけでもよかったんじゃないかとも思ってしまうが。最後に円陣を組むというか肩を寄せ合うクルーが花に見えるというオチもつく。技さえあれば映画は10時間以上でも何でも引き伸ばせるし、4章まで(いや3章は耐えきれず途中抜けてしまったが、そんな僕自身の気力のなさも含め)終わりをつけず休憩の暗転をはさみながら膨れ上がっていき、最後まで付き合えずウンザリして退場するだろう観客に対し、映画は馬鹿みたいに上映され続けていく。日夜、植物状に伸びていくのかもしれないが、4章までは序盤の口上では茎ではなく花びら(四人の女優にちなんで?)に例えられている。それらはやはり耐えきれず散りゆく花なのか(蘇るミイラ、不老不死の薬、殺し合い、死を覚悟した時間、不意に訪れる死による中断)。
むしろ茎は『ピクニック』のサイレントでのリメイクかつ飛行機のドキュメントという、ある意味では最もリラックスして見れる短く伸びやかな一編であり、さらにサイレント的とも前衛ともとれる根幹にあたる6章にて、妊婦となった女優の裸体が誰が誰だか不鮮明な映像のなかに見える。サイレントが撮れれば、なんだっていけるという話ではないだろうが。

トマス・ウィンターベア『アナザーラウンド』物語的にはこれ以上ないほど(あくまで一部に)ガツンと染みわたりそうな映画として見に行き、なんとも微妙に物足りない気もするが、でも悪いという気になれないくらいには、ちゃんと大人の映画に。緊張症?の学生に飲ませるくだりとか、泣かせるねえ……「泣かせるねえ」の連続ではある。やっぱりこれまたラドゥ・ジュデがやったように、マスク社会でやるべきだったのに、そうじゃないのがつまらないのかなあ、とかないものねだりしたくなる題材。あまり言いたくないが作家の娘の死が契機の映画らしいが、それがさらにズレたらコロナと関わらざるをえない話か、それは百合子様の日本の話か?

 

『MINAMATA』のチッソ社長の涙って、あれは良しとして作ってるんだろうか。『水俣一揆』を見る限り、本当にガツンと響くのは最後の字幕と写真で語られる、2億近い金額を突き返す写真であり、そこに至るまでの、ちょっとでも折れればつけあがってくる人間として信じがたい権力側のグロテスクな図々しさ傲慢さであり、それでも水俣弁で問われる「座右の銘は何ですか」には答えられない、自分の言葉は持てないチッソ社長の姿なのであって、あれを「話せばわかる」的に留めてるのは、アウトというか、フィクションの力なんてねえ、と惨めになる。デップは「写真には1000の言葉に勝るものがあるという立場だ」と台詞にはあるし、それが納得できる作劇だが、チッソ社長に土本の映画で問われるのは、あんたら自分の言葉じゃ何も返せないのかよということのはずだが。説明責任などどこ吹く風の政党と見事に重なる(現政権が問題を解決していないないこと自体は字幕で語られるが)。