菊川にて『右側に気をつけろ』。全然忘れていたがレ・リタ・ミツコも机叩いたり、ちょっとだけ演じていた(芝居というほどでもないが)。別に今更自分ごときが何か言う必要もないが(それは本作に限らないが)こんな映画は結局これ以外に見たことないかもしれない(あとはロブグリエか?)。飛行機内の本気のドタバタとか見ながら、本作に比べてカラックスとかコリンとかどうなのかとか連想する意味があるかもわからないが、『ブレット・トレイン』も全然この映画から逃れられていない気がするし、比べるまでもなく完全に敗けている。当たり前か。とにかく今更言うまでもないがゴダールは凄いなあと、笑えないわけでもないが、本当に笑うわけでもないし、ただ隣席のおばあさんの毛糸編みを手伝うゴダールのいうような「後悔と微笑み」という話もよくわからないままだが、ずっと見ながら自分はアホ面をしていたと思う。でもこの誰も追い付けていない感覚がまた一切古びていないというか、そういう時代と一切無縁に「追い付けない」という感覚にさせる映画だったということだが。
ジェーン・バーキンセミ人間はやっぱり美しい。久々に見直すとジャック・ヴィルレの哀しみというか、何者なのかどこへ行ってもよくわからないが、この風貌が醸し出すものこそ「物語」か? でも本当にどこから来たのかわからない。もはや赤ん坊のようというか。これまた結局ゴダールが何より見ているだけで微笑みたくなるのだが(なんで「白痴」を演じているというだけで愛おしくなるのか)『プレイタイム』よろしくいつの間にかあまり姿は見なくなり、代わりにジャック・ヴィルレが出てくる。とにかくこの映画でしかありえない誰ともつかないジャック・ヴィルレのさまよいと、レコーディング中の争点が続いているのかいないのかわからないが何故かスタジオではなくカフェの机を叩いているレ・リタ・ミツコと、ボケた画面でゴダールのエピソードの人物らしき男女も出てきて、合流したとはいえないかもしれないが隣り合うといった感覚に至るのが何やら凄い。自殺衝動があるという設定のパイロットの繰り返される横顔も、ゴルフ場のすました顔したジャック・ヴィルレも、または走行中の車内のジャック・ヴィルレの手錠がかかった手と、車窓と、何らかの激昂した声と、そこに外せない向かいにいる刑事らしき相手と、そしてスタジオではなくカフェで机を叩いているレ・リタ・ミツコも、どれも彼ら彼女らを捉えていて、だから三つの話があろうが何だろうが関係ない(どうもナンニ・モレッティの新作もそういう要素がありそうだが)。
またはゴダール全発言・全評論1のタシュリンについての「撮影中」と題された文にて「アメリカのコメディーを撮影するということは最も真面目な仕事のひとつである」という意味での「最も真面目な」の最果てのような映画? なんとも「真面目」とか、本気とか、その種の言葉というか、もしくは「ヤバい」とか、「ガチ」とか、もう徹底してそんな調子で、何やら話があるとして合ってるかわからない言葉(それは「引用」というやつだろう)を字幕で見ても、そんなことが笑って済ませられないかもしれないのに、それらを受け入れられないまま「ガチ」として過ぎ去ったからなのか(映画は目で見て耳で聞くから)、そういう言葉にしがたい何かが反射的に次々と音みたいに自分の内から出て、しかしそれが少しも理解した気にならない、頭では追いつかない? だから多少ボンヤリもしてくる内に不意に映画が終わりそうなクレジットが出て、頭を切り替えようとしたところで、もう少しだけ続く。本当に掌の上で踊らされてる感じか? まあ、それも映画に追いついていない今更な感想だが。

PFFにて『WiLd LIFe』。上映後の豊原功輔・七字幸久・杉山嘉一・野本史生トークが楽しくて諸々の予定が狂った、でもこれは生で見れてよかった。『空に住む』の青山・黒沢トークでも黒沢清がなぜか指摘する一幕がおかしかったけれど、『WiLd LIFe』の停め撮りは、こんな暗い中でユラユラ行ったり来たりしていたっけと、かなり面白かった(撮影・柴主高秀)。ビデオモニター内の映像を舞台風にワンカットで再演して、そこに見ているはずの(読んでいる)現在の人物が最後に入り込んでくる(しかも清順的な色彩の微妙な変化もあり、これを見ると『はい、泳げません』は真面目すぎに見える)って、他にやっている映画は見たことないと思う。いや、デ・パルマがそうなのかもしれないが、デ・パルマだともっと映画の主題と結びつきすぎて何がなんだかになってしまうから、清順や神代が見れて本当によかった。廃屋だかヤクザ事務所だかに光石研が幽霊みたく映り込むのも忘れていた。上映後のトークにて『ワイルド・ギース』のキャスト順について『ユリイカ』撮影中に話しているうちに喧嘩になったと笑っていたが、江角英明のクレジットの順はいつもかなり気になる。『エリ、エリ〜』ラストは生前の氏の活躍に敬意を払ってのこれまでの微妙な位置に対して、堂々と捧げられていて泣かせる。