東京国際映画祭②『聖なる儀式』(アルトゥーロ・リプステイン)『ダイレクト・アクション』(ギヨーム・カイヨー×ベン・ラッセル)『不思議の国のシドニ』(エリーズ・ジラール)

アルトゥーロ・リプステイン『聖なる儀式』。勝手にキワモノを予想していたが(サービスカットもあるが)意外と地味。 
『深紅の愛』は『ハネムーン・キラーズ』という凄いカットが続く不世出の名作がある分、単純に長すぎる、かつ出頭前の母子殺害はさすがにむごい(『ハネムーン~』の出会って次のカットだと文字通り愛し合っている、理屈を越えた二人の異様さと感動が忘れがたいけれど、『深紅の愛』の精神の異常さは理解可能な領域に収まっている)。
そうした長さ・むごさ・地味さが『聖なる儀式』では最後の字幕にて触れられた、事実よりも訴える迫力、のようなものになる。「伝染病の原因はユダヤ人の儀式のせいだ!」というカトリックの司教たちの精神は「朝鮮人が井戸に毒を!」といったデマを広めた官憲と本質的に変わりないだろう。拷問器具もバーホーベンのように凝っていないが、単純に回すごとに腕を締めつける仕掛けは、質問と指示を繰り返す司教、無言で実行する白頭巾の拷問係、そして痛めつけられる者の叫びという簡潔さで発動しておぞましい。このような拷問と審判を下す側に天国などないだろう。ドライヤーほど視覚的でもなくブレッソンのようにオフにされることもない、フルサイズのシンプルな火刑の光景に対して、ほぼ同サイズで審問官たち三者と切り返す。生きたまま火あぶりにされ叫ぶ者、すでに合理的に思えるほど簡潔な仕掛けで絞殺された者、それ以前に亡くなって代わりに並べられた滑稽な人形、それらが等しく焼け焦げてドクロをむき出す、あくまで引いたサイズのままのショットに切り返されていく。このように審問官たちが燃やされることはないだろうが、同サイズで切り返される三者のカットは、せめて彼らこそ地獄で燃やされる姿を想像したいと思わせる。一方で伝染病と現状への鬱屈に対しユダヤ教徒への呪いをこめて野次を飛ばすメキシコの群集の顔も忘れがたいが、何より絶望というほかない顔で刑を待ち、晒されているユダヤ教徒たちが本当に痛ましい(ここにホロコーストの存在を意識しないわけにいかない)。しかしここで膨らむ憎悪は現在パレスチナでのイスラエルによる虐殺という、カトリックの司教たちと異なる側への切り返されているのだろう。どうしたいんだと見ていてもどかしくなる主人公の変遷を追うことで、その内面に寄り添うわけでもない。最後には既に首を絞められ息絶えているというのが、冷ややかな距離感を維持する。

 

ギヨーム・カイヨー×ベン・ラッセル『ダイレクト・アクション』。ZADについてのドキュメンタリー。ZADといえば『西風』か(偽ゴダールによる気の利いたアジ映画)。
四時間。ヘトヘト系かと身構えたが、ぼんやり眺めることで全然疲れることなく見終えた。ジェームズ・ベニングほども疲れない。ラストのわかりやすさといい、これはこれでアジ映画か。シュリンゲンズィーフが「8時間労働するくらいならウォーホルの『エンパイア』見ようぜ!」とアジっていたのを思い出した。
最初はデスクトップ上で警官隊と対峙した時の映像を見る。今思えば、一番白熱しそうなフェイス・トゥ・フェイスのパートを過去として距離を置いて眺めているわけで、考えられている。これから闘争の舞台へフラッシュバックするかと思いきや、『三里塚』シリーズでも見覚えのある鉄塔を見上げるカットが延々と続く。その青空にハッとさせられる。続いて、最も冗舌な、取り調べの手口を読むカット。ここに凝縮されているとも言える。同時に話者の女性が横たわった恋人に語りかけるようだが、相手は子豚さんだった。
電ノコのワイヤー、ドローンが避ける電線と、領域を意識させる線が見える。または音が耳障りな粘土はじめ、泥と壁が見える。どのカットも、始まりにキレはあって、ハッとさせる繋ぎになって、それでいてボンヤリと続くも、苦痛より心地よい(粘土つくりの音は苦手だが)。ある面では物足りないが、これはこれでアジだから間違ってないか。その中で動物たちが目立ってきたり、人物に対して動物を優しく見るような愛着も湧いてくる。
インターミッションが雨降る光景で、トイレ行って帰ると心なしか雨の勢いが増して見える。映画を見てる間に外でにわか雨が降ってたのか晴天になってるというパターンはあるが、映画を中座してる間に雨が強くなってるというのも、なかなか面白い気がする。
ただ近年では真逆の『理大囲城』のほうが印象深くはある。

 

東京国際映画祭にてエリーズ・ジラール『不思議の国のシドニ』。面白かった。普通に年内公開決まっていたので無理に見る必要なかったかもしれないが、イザベル・ユペールを拝めてよかった。フォトセッション長すぎて背を向けてスタスタ帰っていったのもカッコよかった。それでも会場から帰り際のファンからのサインのお願いには快く答えていたそうで、好感度あがる。
吉武美知子プロデューサーの企画としては『ONODA』(アルチュール・アラリ)が小野田を主役に選んだこと自体の危うさが興味深くもあったが、おそらく最後の企画になった『不思議の国~』は(ある意味予想通り)微妙に「国辱」の趣きがあって、そう考えると監督の上映後の「日本での素晴らしい経験をもとにした」という言い回しも、なかなか性格悪いが、そこをユペールの不思議ちゃんな振舞いが相殺している。ユペールが通訳の方(ご本人登壇にも驚いた)の顔を間違えるシーンが、日本人から見るとかなり失礼だが、自分らだって他所の国に行ったらやりかねないかもわからない。ある場面で旅館で慌てて「部屋を替えてほしい」とユペールがお願いする場面での掛け合いも双方おかしくて笑った。何より初対面の伊原剛志の日本人男性らしい(?)振舞いを、最後にああしてお返しするのは、大変に粋な演出だと思った。「福島」のエピソードはどう受け止めるべきか悩む。
桜・桜・桜とスクリーンプロセスがおかしいが(伊原剛志の風貌も黒沢清を思い出すが、このパートは清を通り越して篠崎誠『女王陛下の草刈正雄』みたいな)、それでも終盤の夢にまで至ると、月並みな連想だが鈴木清順へのオマージュとして成立している。幽霊映画としても役名からして溝口(健三≒堀越謙三?)は意識させつつ、正面向いて唐突な幽霊の登場も清順のやり方だろう。ただ幽霊の出番は監督自身が『幽霊と未亡人』を参照したというが、マンキーウィッツかどうかはともかく基本的にユーモラスで切なく(彼の死に交通事故が頻出するのは成瀬か?)、幽霊が車中にお邪魔したことでユペール・伊原の距離を文字通り縮めるのもいい。車中での手指の絡ませ合いはエリア・スレイマンの『D.I.』を思い出すが、それは世界の現状と奇遇にも重なったのだろうか。ユペール来日映画として『鱒』は見直したくなった。また最初の夫の顔写真がクリストファー・ウォーケンに見えて、これってユペール繋がりで『天国の門』なのかもしれないが、まあ、このくらいで。