『金魚姫』(演出:青山真治)

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たぶんテレビ画面内で一々寄ったりしなくても出たり消えたりを楽しめる大きさが水槽内の金魚くらいのサイズかもしれない。

一寸先は何が起こるかわからない。志村けんだって死ぬし、見たことも聞いたこともない人々が毎日のように死んだり罹患したりという報せばかり届き、そもそも「見る」最後の習慣かもしれないテレビだって何年もまともに見ず、見る気も起こせず、ネットとスマホばかりで、それもtwitterなら見出しだけ見てRTやいいねしてお終いで中身も読まず、集中力が削られていくなか、『金魚姫』の今さっきまで見ていた何かが不意に消えてしまう、ぼんやり見ていると思った以上に展開はあっという間に過ぎてしまう……そういう「映画」というか、今やテレビを一番まともに見ていない人間にとって「映画」と安易に言っていいのかわからないが、その90分がなければ失われるかもしれない時間がある。

『警視K』や実相寺昭雄とかに比べても、テレビに暗闇のことをどれほど期待できるか、いま見た画面は暗かったのか、美しい色だったのか判断する能力が自分にあるのかわからないなら(序盤の赤を「美しい」と言っていいのか自分が判断していいのか不安になる……、これは最近鈴木知史『暗い部屋の記憶』を見た時も感じた)、あとはカットと繋ぎと記憶への揺さぶりなんだろうか。

中尾ミエだ!」と妙な興奮をしたところへ、志尊淳に切り返すかと思ったら、またも中尾ミエに寄って、引く。ストローブ=ユイレで見た画の繋ぎ。もしくはドラマ上の切り返す相手が画面外から消滅して中尾ミエしかいなくなったような気になる編集。または黒ランチュウの、息絶えた男のアップの、そのフラッシュバックは誰の目線なのかはいくらでもいじれるという繋ぎ。『ペコロスの母』じゃないが、酔ったり、ボケたり、記憶と主観の混乱が死者を自分の頭の中でだけでも蘇らせるような経験はあるのだろうが、だからといって映画の幽霊たちを否定することはできない。ここには幽霊たちが、死者たちが映っていた。少なくともカメラの動きや繋ぎの違和感が、いま映っている誰かがもう死んでいるんじゃないかという予感だったのかもしれない(例えば不謹慎だが現実に中尾ミエが死んでも、この予感は消せない)。男女の間に入ってきた誰かによって、ある人情味ある芝居(最近武田一成の『のぞき』を見ながら、ポルノなんて本気にしてはいけない男女関係であっても「情」らしき泣かせる何かの発生する謎を感じていた)を期待し、予感し、しかしぶった切られる。だがそこに寂しさを感じられるだけ、やはりドヤってしまうが「生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ」なんだろうか。「生きてるものと死んでるものの違いがわからない」という金魚姫に、『オペレッタ狸御殿』の人と狸の恋がどうにもこうにも重なる(金魚との同棲だから『蜜のあはれ』を鈴木清順が撮るかもしれなかったとか、『散歩する侵略者』も最初は金魚だったとか、見る前から余計な連想はした)。金魚姫は幽霊に「鏡を見ろ」という。どこかからやってくる死への誘惑がはびこる現状で、「幽霊」を演じる人を見てしまう観客(視聴者)へ映像がかけられる言葉の一つかもしれない。

(個人的にはロマンポルノとか見ていた反動からか)全部を見せないベッドシーンにむしろドキドキする(『オペレッタ狸御殿』の山根貞男の指摘もセットで思い出した)。勝手に瀧本美織は『かぐや姫』の声優だっけとか酷い記憶違いもしていた(でも朝倉あきと同い年だった)が、『風立ちぬ』の「来て」から「抱いて」という、違うバリエーションの声を聞けた。なら『ポニョ』と比較できるのか?とか宮崎駿に対する鈴木清順的な批評(ルパンの組み合わせ?)なのかもしれないが、そんなこと考えても退屈で嫌になる。品種改良の世界は『運び屋』のデイリリー?とか、しかし突然変異のランチュウとは結局どこから来たのか?とか、「ザブン」と沈む音と波紋だけがいきなり映るというのの最初は何だっけと思い出せない勉強不足が嫌になるがアスガー・ファルハディの『誰もがそれを知っている』でも見た!とか、キン・フーというか『黒衣の刺客』とか、なぜだか國村準も『ウルヴァリンSAMURAI』に出てきそうに見えてくるとか(この空間を見て、もっと違う映画を思い出すべきなんだろうが)、このままだとラストは『(秘)女郎責め地獄』みたいな光景になるのかな?とか、当然いろいろよぎったことを羅列して書いても何の本質にも触れられない。