三宅唱監督『ケイコ、目を澄ませて』を見る。『アバター』と同日公開で、言語と手と水辺が通じる偶然。『呪怨』に続き背後を横切る誰かのことを気づかないというカットが出てくる。鏡や写真に誰かが入り込むための場所があって、でもそれを単純に幽霊と結び付けないのは『呪怨』と変わりない。また母親がいることを観客には遅れて知らせる見せ方も『川のながれに』よりずっとさりげない。だから『川のながれに』より面白いかはさておき上手いんだと思う。『川のながれに』は笑えるが『ケイコ』はいつしか母親も消える側だと(別に劇中では死んだり入院したりしないが)解釈した。いや、解釈でもなく、いつか人が死ぬのは当たり前の話だ。人生に勝ち負けも何も一度も訪れないかもしれないが、いつか死ぬのだけは間違いない。まただからといって母を存在しないことにもできない(『君の鳥〜』みたく遅れてやってくる)。それが別に本作の主題とも思わない。また幽霊映画のようと、岸井ゆきのがいつかは消えゆく存在とともにいると強調したいわけでもない(というか下着姿の背中も鏡に映る)。またおそらく『ミュンヘン』由来の女の腹(『スパイの舌』『呪怨』の妊婦の腹、PVでのベリーダンスの腹)は本作にもあって、でも別に強調されるわけではない。女性の肉体が、人工的なもの(『スパイの舌』の妊婦の腹は三宅監督本人のものだ)、もしくは鍛えられたもの、つまりそれは性的に消費されるものとしては異なる女性の肉体の撮り方が当然されている。それらの三宅唱監督の関心については、やはりまだ何ともいえない。別に映画はその答えを出すために作られたわけではないから当たり前だ。しかし三宅唱監督の映画はだいたい5分くらいの楽しい時間がある。人生における楽しい時間の配分は90分中5分くらいあればいいだろうということか? 相変わらず適当な解釈をしてしまった。それにしても映画を見ながら面白いとかつまらないとか良いとか悪いとかなぜ思うんだろうか。その謎を解くのが映画批評の役割か?