『ミニー&モスコウィッツ』

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ストレンジャーのカサヴェテス特集へ。『ミニー&モスコウィッツ』、シーモア・カッセルが初っ端のインパクトある大柄の男から「若造」と呼ばれているが髭も伸ばしているしガタイも良くて年齢不詳だが当時36歳か。今の自分と同じ年だった。やっぱ自分は幼いんだとショック。序盤ほど要所要所でいいヤツっぷりの光るシーモア・カッセルがどんどん周囲に対して面倒くさそうになるという(PTAの映画に近いか?)、それが愛の力か?
ジーナ・ローランズはこの映画が一番、なんというか魅力的かもしれない。時々、金髪の輝きに見惚れてしまう。晩婚映画? その辺の魅力は三宅唱監督が思いっきり書いているけれど、もううまくいかなかったレストランの後で駐車場で寒そうに縮こまって待っているだけで可愛らしい。にしてもその車を思いっきり擦る係りのアイツが「チップはいりません!」とか言いながらシーモア・カッセルが「おまえはやる気もなければ車への愛もなくて何のために仕事してるんだ!」とか言い捨てている間、彼の姿は映らないけれど、車が走り抜けたら何か腕を伸ばしていて、やっぱコイツやる気ないだろうなーとかいう細かいところまで愛らしい。車といえば、ある意味で『グロリア』の横転シーンを先駆けるようなシーモア・カッセルのギャングみたいな恐るべき追跡シーンとか狂ってる(いや『オープニング・ナイト』の交通事故も凄かったか)。
エキセントリックというのも違うだろうが、解説読んだら「スクリューボールコメディ」ともあって、まあ、そういうことなのかもしれないが。『エドワード・ヤンの恋愛時代』と同じタイミングで見るのもアリというか。
ニコラス・レイ『ウィ・キャント・ゴー・ホーム・アゲイン』の髭を切るカットの痛ましさがよぎるが、ここでの髭を切るくだりは、痛々しいようでギリギリ笑うしかない局面へもっていき(とは「泣くしかない」とでもいうような映画でもあるのだが)、それでも彼を見ているジーナ・ローランズのアップには本当に言葉が出ないというか、ただ見守るしかない、もはや笑うでも泣くでもなく黙って息を飲むしかない。
過去に藤井仁子濱口竜介の対談でジョン・カサヴェテスと森﨑東をどこか似ていると話していたが、シーモア・カッセル橋本功とか大地康雄とか重ならなくもないし、プール終わりにカッセルがローランズに「俺への愛を証明してくれ、いますぐ脱ぐか歌ってくれ!」と言われ、そんなのは無理だと階段にしゃがみこんで、でもカット変われば歌い始めているシーンも涙なしに見れない(もはや『オープニング・ナイト』の階段が舞台のセットであっても構わなかったように、どこか背景なんかどうでもよくなっていくような次元にまで行く)。
意外と展開が早いというか飛び飛びに話が進んでいく。そんな感動的なクライマックスの後に互いの母親が同席しての会食での、息子の悪口を一通り言い続け、大企業の駐車係ならやっていけるんじゃないかという息子を詰り、ジーナの肉体も含めた美しさを盛り立て、出会って四日しかないことを突っ込み、妊娠してるからじゃないか的な話にまで逸らして、つまりいかに二人がうまくいくのは一時の盛り上がりでしかなく離婚するだろうということだが、その一方でジーナ・ローランズの母親の反応も映されて、やはりこうして言葉は発していないが黙って聞いている側でもない顔というのに目を離せないのだが、一方でジーナの声も聞こえてきて、彼女のタバコを握った手だけがまずインしていて、カメラが彼女へ向かうと『こわれゆく女』などしばしば見かける握りこぶしを振り上げかけたまま耐えて震えてるような彼女が映り、それでも不思議と空気は悪いばかりではない。シーモア・カッセルが母さんの力で大人しくなったのか、彼も女三人を前にして、イイ奴としてのバランスが回復した気がする(しかし気のせいかもわからない)。それを彼の母親が計算したのかはわからないし、このシーンの間に腹の探り合いみたいなものを読み取る気は起きない。今後の二人の困難を予感させるところもなくはないけれど、もはやこのキンキンした声の母親が話し終わるころの彼女の笑顔を見ていると、人はどうも変われなくても、なるようにしかならないという、前進あるのみな調子になっている。なので直後にごく少人数の結婚式のシーンへ(そして笑える牧師の「名前」をめぐるカットへ)変わってしまうのも受け入れられる。鈴木清順が「映画の上映時間中に主役の内面が変わるわけがない、幽霊にでもならないかぎり変われない」と言った話を(たしか『けんかえれじい』に)書いていたのを読んだ覚えがあるが、つまり「○○は死ななきゃ治らない」と言わんばかりなのだが、誰も何も変わっていないかもしれないのに、こんなに破天荒な映画はないと感動する。いや、多くの感動的な映画はそういうものかもしれないが。