ほぼ通えなかったPFF、『グラン・ツーリスモ』

PFFにて久しぶりに相米慎二監督『ションベン・ライダー』(83年)。
このタイミングで『ふられてBANZAI』を聞くのもジャニーズとはなかなか縁が切れないからか? もちろんマッチの声ではなく河合美智子の声で頭から離れず、直後の『どこまでもいこう』になかなか集中できなかった。たぶん第9波の今カラオケに行ったら『ふられてBANZZAI』を歌ってしまうと思う。もし自分の頭がおかしかったら、正直国アカの会場で誰かと歌いたかった。そんな具合に見終わってから胸にたまった何かを吐き出すように叫ぶ以外に発散する方法を見出せなくなる映画かもしれない。
冒頭のプールから上映トラブルを疑う音声の途切れ方(『チェルシー・ガールズ』の二画面どちらの音声を聞かせるつもりかわからないが不意にプツンと聞こえなくなる時など実験映画の上映に立ち会った感覚)が凄くて、そのせいか音も一層生々しいというか、クライマックスの屋敷に戻る前に、ようやく脱出できたデブナガだけは声が聞こえるけれど、三人組と先生は台詞があるのかないのかわからないが、笑って口元も動いているけれど何も音声は乗せられないが、しかし劇伴は流れ続ける。
河合美智子が68年生まれ、永瀬正敏66年、坂上忍67年と、そうした時期に生まれた子供たちが高校生(映画では中学生だが)になって……という話と今更気づく。

広島国際映画祭にてガレル『記憶すべきマリー』を上映した頃か、何人かからパロディアスユニティを思い出したと聞いた。
それなら『ションベン・ライダー』は『現像液』を思い出した、と言っていいんだろうか。『現像液』は68年の映画で、河合美智子の生まれた年だった。『ションベン・ライダー』の83年にフィリップ・ガレルは父親を主演に『自由、夜』を監督していて、翌年にはルイ・ガレルが産まれたらしい(ウィキを見ただけだが)。
ヤク中と子供と銃と水と炎の映画。子供が大人の世界に飛び込む映画という型を逸脱して『現像液』の子供を見る時の危険さがある。いや、日本の映画作家なら『煉獄エロイカ』の岡田茉莉子の娘を名乗る存在が現れるような観念の子供を『新学期操行ゼロ』にしたような、またはドキュメンタリーの世界へ引きずり出そうとする。藤竜也の娘のふりをして現れるはずのブルースは自分を男だといい、一方で藤竜也は娘としてよりもずっと危うく女として触れようとして見える。その存在はいまだに生々しい。こうした観念と肉体のせめぎ合いをやって、相米慎二と並べてパワハラの問題に触れてしまっているのは、地点の三浦基なんだろうが、ちょっと地点には濡れない『ションベンライダー』みたいな訳のわからなさがあるかもしれない(まあ、元を辿れば三浦基本人がトークで名前を出したらしいゴダールなんだろうが)。
『お引越し』では本物の映写トラブルによる中断があった。一日のうちで続けて見ると「来年の夏もまた会えたら」が藤竜也から田畑智子になったというのにもグッとくる。先端恐怖症になりそうな三角形のテーブルの不自然さとか、田畑智子の印象ばかりで、風呂場の窓をぶん殴って割る桜田淳子も、最後まで良い答えは特に言えずに黙ってバイクに乗るしかない中井貴一のことも忘れていたけれど、あのシーンで二人一役やっていたのも忘れていた。でも本当にどうやったらあんな180度近くパンして船首の燃え落ちるタイミングにする凄いカットと、さらに抱き合った同じ少女の異なる顔二つの(もはや自分のうちに母と娘の二つに分かれたような)カットバックを同じ場所で実現できるのか。

『お引越し』というタイトルだが、引っ越すのは田畑智子ではなく中井貴一だった。引越し先で中井貴一田畑智子と話しているはずなのに、不自然になぜか見上げる姿が『東京上空いらっしゃいませ』を思い出してしまうけど、元の家で田畑智子は2階に住んでいるのだった。それでも上には亡くなった人の居場所があるに違いない。
中井貴一がホテルのロビーに現れて「夏休みの宿題」を出す、でも桜田淳子は「なんでこんな家族みんなが幸せだった頃みたいに現れてしまうの」という、そこで隣に座っている田畑智子へカメラが寄っていくけれど、全体に田畑智子から生々しいとも、それを超えた演じる顔を引き出したともいえる映画の中でも特に目を引く。
あの「おめでとうございます」のくだりでの抱き合う田畑智子のカットバックは澤井信一郎が『日本一短い母への手紙』にて裕木奈江と十朱幸代の抱擁でやったことの元かもしれない。あえてボディダブルではなく、どう見ても母子に思えない顔つきの組み合わせでやってみせるのが澤井信一郎の演出か。森崎が『党宣言』冒頭を長回しにしたのはやっぱ『ションベン・ライダー』見たからなのかなとも。

 

ついでにPFFの映画について一本だけ書くなら『ちょっと吐くね』。タイトルから想像するステレオタイプの女性二人が会話を経て、あえて抽象的とも観念的ともいえる言葉を交わす領域に踏み込み、そして最後にタイトルでもある台詞を発する。「かわいくなりたい」という意思の明瞭なようで、しかし「かわいい」という概念は曖昧であって、この映画の「かわいくなること」をどう捉えるべきか、主なヒロイン二人に男も加えた三者三様といえば単純な解釈だが、そこに誰かから見られての価値判断は逃れられないのか、それとも他者など必要とせずに自分自身がそうありたいものとしてなのか、ここに映画を見ただけの自分には答えを出せない。言うなら、作り手にさえ出せない。そこには「映画≒作者」という、映画が自らの鏡かのような姿勢とは別である。それは当たり前のことかもしれないが。
セットでのトイレを建て、飲食店も音声を被せた自室のような空間にして、授業は映さず、人物を絞り、その人達しかいない時を作る。どうしても「見られる」ということが、この映画の主題と切り離せないなかで、ヒロイン二人が互いの姿を見せ合わずにいられるトイレの密室性がいかに重要かわかる。
一方で壁のある空間にて、壁のあったはずの側から、人物の横顔に切り返すという、映画なら当たり前にあり得ることであり、実際に何となく見れてしまうところなのだが、そこに人物の誰からも見えないかもしれない側にカメラを置くことも映画の出来ることなのだと思う。映画が作り物であることの意義も感じる。
台詞の強さが映画を終わらせる印象もあるが、しかしそうしたシナリオへの信頼が本作の芝居の力にも繋がったのかもしれない。シスターフッド的なものの不成立、一方が一方を残酷に突き放したようにも見える結末もまた、はたしてそのような解釈でいいのか、観客の一人として答えはない。

 

『女囚701号 さそり』(監督:伊藤俊也)上映、梶芽衣子×アルノー・デプレシャントークへ。
ほぼ一か月前に同じ国立映画アーカイブで上映された「映画を語る 東映大泉篇・II」にて伊藤俊也澤井信一郎、小松範任、小平裕(『さそり』の助監督としてクレジットされている)、梶間俊一の五名が東映東京撮影所での助監督時代について振り返る座談会を見た。そこで伊藤俊也深作欣二の監督デビュー作(名前も出していたが、おそらく『風来坊探偵』)の脚本を読んで、深作に「こんな映画を最初に監督しないほうがいい」と伝えたところ、「いや、監督デビューというのは最初は不本意なもので初めて、三本くらい撮ってから、初めて自分の本当の監督作というものを撮れるんだろうから」といった内容を返される。これを(おそらく深作自身の言葉ではないだろうが)座談会での隣席の澤井信一郎伊藤俊也が「二段階革命論ならぬ二段階監督論」というのがかなり可笑しいのだが、ともかく伊藤俊也は「深作は『二段階監督論』を語るが、そんなのは嘘っぱちである!」と当時は主張したらしい。(いまウィキペディアを読んだら伊藤俊也野田幸男『やくざ刑事 マリファナ密売組織』の共同監督ということでデビューにさせられていて、奇遇にも「二段階監督論」の人にさせられてしまったと言えるのか。)ともかく伊藤俊也の『女囚701号 さそり』という監督デビュー作(梶芽衣子の話では撮影に「四か月かかった」)について澤井信一郎も、「監督デビュー」ということについての、助監督たちにとっての一種のプレッシャーになったような話をしていた。
ここに当時の労働組合での活動の話も絡んでくるのだが、そうした箇所は見てから時間が経ってしまったのもあって、改めて見直したいが(ただデプレシャンとのトークでも梶芽衣子の口から組合の話は出てきた)、いま思い返すと座談会の肝の一つに違いない。締めに近い一言が司会の澤井信一郎からの「見事にみんな助監督だった頃の話だけでしたが。監督になってからの話は面白くないですから。」といった話だったが、そこに助監督と監督の会社における労働者としての立場の違いもあるかもしれない。
改めて『さそり』は見返すと、なぜか監督名の重なるタイミングの眼のアップを梶芽衣子ではなく、看守の沼田曜一だったり(集団で穴を掘っては埋めてを繰り返させられる拷問のような懲罰が『地獄』のようともいえるか)、先鋭的とか演劇的とかいうよりも単純に珍妙に見えるところもある(三原葉子とガラスのくだりとか、さすがにしつこすぎる夏八木勲のピストルが日の丸の前をよぎるカットとか)。梶芽衣子が台詞をほとんど喋らないというのも『さそり』では正直「言われてみれば」といった印象だが(自分の鈍感さもあるが)、そうした演出は(デプレシャンもより評価しているらしい)二作目の『第41雑居房』のほうが激しい。白石加代子をリーダーとした女囚グループは前作の人物以上に刑務所へ入らざるを得なかった原因が語られ、上演される。「さそり」と異なり、あくまで彼女たちには脱獄して復讐を果たすための敵役を狙う行動はとれない。それは前作にて自らを陥れた夏八木勲への復讐を果たして刑務所へ戻った「さそり」も同じかもしれない。彼女たちにあるのはおそらく家へ帰ることであり、その目的は子供に会うためでもあれば、故郷の連中を皆殺しにしてやりたいという情念でもある。梶芽衣子は最後尾を走り続け、終盤のバスジャックではおとりとして突き落される。前作も渡辺文雄の計略によって、さそりに憎悪の矛先を向けさせての仲間割れはあったが、むしろ二作目ではどれだけ梶芽衣子が女性の不幸を背負っているようでも、白石加代子が鏡を割るシーンがあって(飢えた獣のように鏡を次々に取って自身の顔を見ようとする女達の中で、自身の顔に見た鬼か獣かわからないが、そこへ憎悪をぶつけるように割る)、そこで彼女は鏡を見もしない梶芽衣子とのカットバックで、「さそり」は喋らないだけでなく止まったように動かない、まばたき一つない。鏡でありながら、自らを見つめ返してくる他者。渡辺文雄の黒眼に反射した梶芽衣子の笑いから始まるラスト、最後尾にいた彼女の反転した世界での光景の感動は前作を遥かに上回る。それにつづく女囚たちふくめ台詞らしい台詞のないときほど真実が語られてもいる。
三作目の『けもの部屋』が片腕の成田三樹夫や、人買い商人の如き南原宏治と李麗仙の夫婦ら敵役はいても、前作の渡辺文雄ら劇画調ともいえる芝居の看守たちはもう刑務所にはいない(もはや刑務所は梶芽衣子にとって不自然なほど霊のように行き来可能な空間とわかる)。それでもリアリスティックと異なる過剰さが貫かれて、特に「さそり」と「ユキ」という互いの名前を呼び合う関係が、マッチ箱から火の雨を降らせる場面は美しい。つまりここで沈黙と同時に梶芽衣子の声の存在も大きい(ただ南原を仕留める際の台詞はカッコいいのだがテーマを説明してしまうように聞こえる)のだが、やはり無言で笑顔を見せる梶芽衣子に泣かされるのでもある。女の不幸を背負った存在という抽象性とも異なる、幽霊のようでもあり、獣でもあり、どこか可愛らしいところもあり、何より映画全体を貫く寄り付きがたい不機嫌さのようなものが凄い。「さそり」にはある意味もう目的はないかもしれないが、その不可解な映画の魅力が二作目以上に輝いている。渡辺やよいの立ち尽くす中、降りしきる雨を見ながら、さらに現代的な方へ映画が向かっていく可能性も感じる。ただその魅力は長谷部安春の(やはり素晴らしいと思うが)次作『701号恨み節』と方向性は異なるし、それは作家性の問題になるのか(小平裕の風貌はやや長谷部安春に近いと思った)。
伊藤俊也と同じ60年入社の牧口雄二は、石井輝男の助監督についた際に、その異常性愛路線での題材と過酷な環境に対し批判を表明、結果的にそのキャリアを石井よりもさらにB級といえる環境で、逆に『女獄門帖 引き裂かれた尼僧』での女性が男性を解体し殺戮する映画など、よりマイナーな題材に向かった作家ともいえる(そう言っていいのかはちゃんと取材したり調べた人間ではないので憶測と受け売りで書いている…やはり自分はただの会社員だ)。『さそり』の監督と、『玉割り人ゆき』の監督について、その組合での存在や、女性を主役にした映画だが規模の違い、またその後の動向など比べるには、互いの映画をもっと自分も見る必要がある。
全然デプレシャントークのまとめにはできなかったが、『さそり』を見直す機会になってよかった。

 

一日10本くらい映画を見たいなあという気分なのに職場に行かなければならなくなったり敬老の日を祝わなければいけなくなったりする。
『春に散る』を見ようとしたらスケジュール合わないうえに満席近かったため、ニール・ブロムカンプの『グランツーリスモ』にする。前に見た映画(『エリジウム』)が2013年と知り、10年間見てなかったのかと驚く。ついでに10年前も同じ錦糸町の映画館で見た気がする。全然見てなくてスミマセンと思ったけど、ニール・ブロムカンプって売れっ子ぽいから何本もあるかと思いこんでたら意外と撮れていなくて、さらに驚いた。
仮想現実でトップクラスの実力を誇るが、家では父親が兄の方を評価していたり、見た目もカメラの前ではオドオドしてしまうとか言われたりしていた主人公が現実のレースで表彰台に!と冒頭から「実話」と言われようがSFらしい設定というか、10年ぶりに見たわりには「この監督らしいな」と知ったふうなことを言いたくなる。あと車のミラーがカタカタ外れかけた状態で走るときに本気が出る!というのも、こだわりを感じる。キンピカの車で煽り運転してくる敵役(金持ち)とか、ケニー・Gとかエンヤとか面白いところはあるけれど、なんか撮り方のわりに主役以外は父親もコーチも彼女も印象には残るけど、なんか言うことに厚みがないような。やはりレース中の車に番号振られるのが見ていて興ざめする。グッと来させる要素は知ってるけど不発というか、なかなか慌ただしいわりにエンジンがかからないというか。だが何だかんだ映画は一発逆転さえあればいいのか、クライマックスでのI-podの活躍(キレたら止まらない!ってやつか)から怒涛のブラック・サバスのおかげで何となく満足した。そして驚愕の種明かしをするエンディングで、不覚にも感動してしまった。そりゃ実話だからなあ。ただ本人登場は同じレースの映画ならロン・ハワード『ラッシュ』のニキ・ラウダのほうが忘れがたいし、なんなら『フォードvsフェラーリ』のように本人が映ったかどうか関係ないくらいが普通にいいはずだが。あとエンヤならやっぱり『ドラゴン・タトゥーの女』には敵わないか。
あと一度だけ連れていっていただいた飲み屋のご主人に似た人と店が出ているなと思ったら、検索したら本人だったようだ。