『移動する記憶装置展』(監督:たかはしそうた)

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ある町に住み続けた人が語る音声を、その取材した場所でイヤホン越しに聞きながら、廣田朋菜は声に出し(彼女は録音の場にいず語り手の姿を見ていない)、佐々木想のインスタレーションのために撮影するシーンが続く。
映画のタイトルは正確には「上飯田アーティスト・イン・レジデンス 移動する記憶装置展」と記され、冒頭の字幕が佐々木想の演じる谷繁想のインスタレーションについて簡潔に記す。「場所と記憶 谷繁さんが作品のテーマとしてきたものだ。高齢化が進む上飯田町で制作してくれることは、ここの今を記録する機会になるかもしれない」ここに次の一文が続く。「ダラダラと次の展示を延期していたすみれの前に谷繁さんに入ってもらうことにした」。「すみれ」とは廣田朋菜の役名であり、これは影山祐子の演じる「まこ」の言葉だろう。
廣田の語りは途中まで、本作の前半で佐々木と影山が聞き手のように同じフレームに収まって、その町、つまり上飯田に住む人々へインタビューし録音した場面と同一の内容である。上飯田の人々の話は民生委員を務めているという男性の語る、今年の夏も高齢者が熱中症になり救急車で何台も運ばれたといった話、または祭りに神輿を担がなくなったのは(コロナと関係なく)10~15年くらい前からのこと、子供の運動会でムカデ競争も盛り上がっていたが現在はそれができるほどの人数もいないなど、それは記憶でありながら現在進行形の出来事でもある。取材は幾日かに渡り、おそらく案内役だった影山は途中から同行せず佐々木一人になり、サーフショップや若い母子への取材と、そこに母の隣でボール遊びに興じる子供たちや、姿は見せないがサーフショップに集うらしい若者の存在も話に出てくる。
一連のインタビューへ辿り着く前に、佐々木は影山から、彼女の記憶していた上飯田ショッピングセンターについての案内を、上飯田パナソニック電化センターといった字の見える展示会場がかつて彼女の祖父の代までやっていた米屋だった話に始まり、「ここは化粧品屋があって」などと現在の光景とは異なる店の並びの話を聞きながら、その声を録音する。ショッピングセンターのBGMが単調に流れる中、そこで何かが演じられていることを気にするのでもなく働いている高齢者がいて、その人数は3~4人ほどと少なくても、それでも撮影について何事も気にしていない素振りが妙に大きく見え、台車に荷物を載せて、二人より先に通り過ぎていく女性の距離の近さに驚く(この近さは影山と佐々木が常連客と話す飲み屋の場面にて強く印象に残り、また『上飯田の話』における三話「どっこいどっこいな話」の居酒屋での長回しの驚きも、このフィクションとドキュメンタリーのどちらに属するといえばいいのか境界を行き来する客たちの「近さ」によるものかもしれない)。やがて舞台の幕の向こう側へ入っていくように「スタッフ専用通路」と記された、ショッピングセンターの奥へ二人は進んでフレーム外へ消え、影山の声が画面外から「お菓子がいっぱいあって」などと聞こえるのだが、少しの間だけ現在のセンターに誰も見えなくなった映像に観客は取り残される。そこにデュラスやルソーといった空間と音の関係よりも、『ゾンビ』のショッピングモールがわずかに脳裏をよぎる。次に画面は彼女たちの進んだ先へ移動して、もはや物置同然の空間に二人はいるのだが、影山の「ここに八百屋さんがあって」などと、そこにあった店の説明は続く。その記憶は朧げになっていき「ここは何だったけ」「『みくにやさん』って何だっただろう」と残された看板から口にしたと思われる名前と、それがどんな店だったかは結びつかないのだが「まあ、こんなところです」と締め、佐々木は「良いところだと思います」と返し、「とても良いところだと思います」と影山も返す。この影山の案内は既に実際に上飯田に住んでいた人と監督との間に交わされたものの再演だろうか、という疑問もよぎる。上飯田ショッピングセンター内にて、本当に存在しているのか曖昧な記憶をたどる二人の役者がゆっくりと歩きながら、その記憶を語る声が店の形態を淡々と口にしつつも内容は鮮明なものではないほど、この他に人の気配もないのに空間そのものが息づいて見えてくる。
その声をヘッドフォンで聞きながら、今度は佐々木が一人、ショッピングセンターで声に出して動いているのだが、ここでは買い物客と思われる女性の彼とカメラへ向けた、何とも怪訝な顔つきが演じられたものではない可笑しさを出していて、その佐々木の宇宙人かロボットか、微妙な不審者の佇まいの滑稽さを引き立てる。
後半部の廣田が映されるシーンに話を戻す。前半部のインタビューとカメラの位置も異なり、この映像自体は劇中で佐々木が撮った画面という設定である。この朗読とも再現とも異なる試みでは、あえて言葉や声から記憶のイメージが思い浮かぶ手前で、彼女が「すみれ」か廣田朋菜かの曖昧さが際立つ。その姿は先の佐々木のおかしさとも異なって、終盤インスタレーションを眺めるヒロイン二人が「なんか変だね」と交わすが、実際奇妙である。映画全体を通して肝となる場面でありながら、うまく機能されているかが宙づりにされた「賭け」になっている。たとえば小森はるか・瀬尾夏美の『二重のまち 交代地のうたを編む』なら陸前高田の被災者の言葉や声ではなく、それを基に瀬尾夏美が書き、陸前高田の外から来た参加者がワークショップでの体験を経て朗読する、どこかフィクションに寄った形で上演された声として聞こえてくる。一方で『移動する記憶装置展』では上飯田を舞台にしたフィクションとドキュメンタリーの合間で、記憶を語る声を聞きながら口に出すことで、内容と声の結びつきが曖昧になる。他所から来たものの、変な話し方が、その身体が上飯田の記憶を受け止めた時に解消されるものなのかもわからない。PFFに出品された今期の作品なら『Flip-Up Tonic』(和久井亮)のアンドロイドの可能性をもって映される学生たちの、そこに留学生と思われるキャストも含めて滑舌のよくない発声に通じる試みかもしれない。また『ハーフタイム』(張曜元)の「実習生」、『ただいまはいまだ』(劉舸)の「留学生」のおかれた状況を捉えた作品と、耳慣れない喋り自体に意識を傾かせる映画との間に溝は確実にあるだろうが、そうした声自体は聞くべきものだと意識させる。
廣田の話す内容が不意に、これまで映画には映らなかった人の話になる。彼女の声を通してしか聞こえない人と、俳優たちと共に画面に映った人々の間に、どのような取材における状況の差があるのかはわからない。ただその観客の知らない情報であったからか、内容の変化に伴い、その言葉も「過去なんかない」と、シュレッダーにて写真を処分した話、「死んだらそれまでだから」といった声から、全体像をつかめなくても見聞きする観客の側に緊張が生じうる。その緊張が廣田の芝居に何かが憑依しかけているのを見ようという、儀式を見る感覚にさせるというのは言い過ぎだろうか。ただこのことが記憶を否定しようとするような取材対象者の話であることとも無縁ではないだろうし、また映画を見てきた観客の思う廣田のキャラクターとも重なるかもしれない。
やがて撮影する佐々木もいない場で、廣田が夜のショッピングセンターを歩く場面になり(その中で闇に沈み切らず、浮かんでくる水色の胴長ファッションという色合いが印象深い)、序盤の影山の案内を声に出す。影山の声によって曖昧に演じられた記憶を、廣田の声でもって二重になぞることで(しかしそこには元の音声の聞き取りやすさもあるか)、そのもとにあっただろう声の持ち主の存在が遠くから響いてくるようでもあり、この試みが影山と廣田の演じるフィクションの側から、上飯田のドキュメンタリーの側へ最も揺れ動く時でもある。
その廣田の背中を見るように、ショッピングセンターの闇から不意に片足に重心をかけながら覗いてくる影山のショットが映る。このポーズのカットを、映画はある鉄塔をめぐるフィクションの前に、振り返ると不自然な繋がりではあるが用意している。
おそらく取材の初日に佐々木が影山から「一番好きな場所」として案内された鉄塔があり、ここで影山から宇宙人が侵略のために監視しているのではと空想されている。その塔の先端部が夜の闇に包まれて不意に映る。そのカットはコンビニ前で缶ビールを飲んでいる佐々木へ切り返され、彼の目線の先にあると思われる。このコンビニ前のベンチに佐々木だけでなく廣田、影山もやってくるのだが、おそらくその位置から三者が(互いの視線を交わすというよりも)意識することもなく見上げて眺める、ほぼ同一方向の先に存在するのも、あの鉄塔ということになる。このベンチに腰掛けて佐々木について話す廣田と影山の間にどれだけ鉄塔のことが意識されているかはわからないが、廣田が佐々木のぶらさがり健康器の話をすると、でもアンタが来た時の方が内装結構変えてたよ、と影山から返される。「引っ越しを繰り返しているから故郷なんてものはない」と佐々木に語っていた廣田だが、影山とボンヤリと交わされる言葉のうちに(ダラダラと過ごしてきた)記憶が浮上する。シスターフッド的な解釈は安易かもしれないが、そうしたフィクションとしての記憶も上飯田の人々とは別に本作の中で蓄積されている。
このシーンからおそらく佐々木がいくつかの取材を経て、ふと映像の編集中に思い悩んだような後に、なぜか影山が片足に重心をかけながら誰かの姿を待つように立っているカットになる。これ以降に始まる塔をめぐる劇中劇との繋がりを考えても不自然なカットではある。しかしこの『移動する記憶装置展』を通して見ていると、このどこか弛緩していながら決して長くはない70分の間、侵略者ではなく鉄塔自体から見守られているように、影山の姿を機能させているようにも感じさせる。佐々木が部屋で「チラッと見えたんですが」と影山に尋ねつつ、結局映画には一度も姿を見せない廣田の製作中の作品というのも、廣田を見守っているのかもわからない。